変革
帰国。爆睡。この時間。明日仕事;; 今日の反省 描写不足睡眠不足
目の前に座っている老人がようやくぽつぽつと話しはじめる。ドリッピングされたお湯が長い旅路を経てカップの底に一滴、二滴とたどり着いていくみたいにぽつぽつ、と。その身を黒くにじませながら。
「そうか、そうか・・・納得がいく。苦しい、苦しい・・・うむ、わかる。一時の苦しみ、苦しい、苦しい、逃れたい・・・いや、わかる。だが、目をそむけられない、業苦、先代たちの過ち、我々に課せられた使命。犠牲・・・いや、いや、自らの犠牲、その精神を継ぐことをお前たちは恐れている・・・」
老人の頭が力なく英国調のアームチェアの背もたれにすべてを任せて顔は天井を向いている。口はあんぐりと開かれて声を出すのに声帯をまったく震わせていない。その声は男の身体からではなく、ただ大きく開かれた口のずっと奥の闇から老人の声を借りて発せられていた。
俺も目の前の男と同じ椅子に座っている。その距離は一メートルもない。大理石の床、仰々しい暖炉、消灯していても存在感を放つシャンデリア。俺と男は巨大な部屋の真ん中で、真っ暗な部屋の真ん中で何十本もの蝋燭に囲まれて向き合っている。
「自らを犠牲にする精神? 笑えるな。苦しみなんてわかってないだろ。甘い蜜だけ吸って好き勝手やって逃げ切りたい、それがお前たちの精神じゃないのか? 恐れているのはこうやって捕まることだろ」俺が老人にそう語りかけても彼はびくともしない。ただの死体としての重みを自ら支えることなく椅子に放棄している。
また男の中の暗闇から声が聞こえてくる。
「捕まりなどしない・・・。いつでも・・・死の列車に、飛び乗ることができる・・・いつでも。だが・・・まだ、まだ、吸える。絞りとれる。すべての水分が、失われるまで。そして・・・足りない、足りない、それだけじゃ。破壊、破壊・・・すべてを奪うまで」
「善人ぶった次は全面肯定かよ。けど、そこまで出てきたらもう終わりだよな」
俺は立ち上がり、老人に近づく。彼は微動だにしない。ポケットからしわくちゃの札を取りだす。
「なんか無抵抗のじじいに貼りつけるの抵抗があるんだけどなあ」
俺はそうぼやきながら老人のおでこに貼りつけた。
老人の中から「キィーーーーーーーー」という甲高い獣の鳴き声が聞こえるとその声は「ククククク」と連続した破裂音に変わる。
「出てこいよ。さっさと帰って寝たいんだが」
バシン!と音とともに老人の大きく開いた口から何かかが飛びだしたと思ったが、それは天井と何かがぶつかった音だった。早いな、俺は必死で目で追う。天井に切り傷をつけたそれは壁にぶつかり、傷をつけながら部屋を周回しはじめる。それの世界がぐるぐると回る。それを追って俺の世界もぐるぐると回りはじめる。だんだんそれの描く円は小さくなっていく。ふいに老人は死体から意識の失った人間へと戻り、椅子からよろめいて地面に身体を打ちつけそうになる、俺はとっさに男の身体を支えて地面に寝かす。
そうやっているうちにそれは蝋燭の火元を切りさき、次々と俺と男を囲っている火を消していく。またたく間にすべてを火を消滅させると最後の蝋燭を消すと同時に直線的に老人の口の中に飛びこもうとする。暗闇になる瞬間のそいつと蝋燭の延長線上を見逃さなかった。
「めんどくせえよ」
俺は老人の口とそいつの直線上に足を差し込む。足に何かがぶつかる。また「ククククク」という鳴き声が聞こえる。俺がしゃがみこんでそれを拾おうとすると最後のあがきに俺の口に飛びこもうと地面をけり上げた。
それは口に飛びこむことができなかった。寸前のところで俺に首根っこを押えられたから。首を掴まれてもなお鳴き続けるそれを楽にさせてやるために俺はポケットから赤い札を出した。
「理由がなければお前を引きずり出してこれを張る必要もないんだけどな。お前の自らを犠牲にする精神を分けてほしかったな」
顔を覆うように札を張り付けるとしゅんっと力なく獣は息を引き取った。部屋の電気をつけると傷ついた壁や天井とまだ少しこげくさい蝋燭と意識を失った老人と手の中で真っ黒な塊として収まっているイタチを持った俺だけが残った。住処を追われたニホンイタチがどこかの島で今度は掠奪者として住処を奪っている話を聞いたことがあった。




