黒豹の魔術師
黒の喪服をまとったメアリー・ラスカルゴは、目がしらを抑え、眼鏡を外した。軽くため息をつきながら、手にしていた書類の束を封筒にしまい、車窓に目を向ける。
初めて乗った鉄道は馬車よりも快適だ。一等室ということもあるが、何よりも座席は広いし、揺れも少ない。
旅の目的が違ったものであったなら、年甲斐もなく心が浮き立ったであろう。
齢六十をすぎても、メアリーは新しいものを忌避する気持ちはない。
メアリー自身、優秀な魔術師であり、魔道具の開発者だからというのもある。もっとも既に第一線から退いているため、最新鋭の技術からは遠のいているが、元来は好奇心の塊のような性分なのだ。
魔道駆動の汽車の発明で、この国の移動手段は一変した。馬車よりも格段に速くなり、王国が狭くなったようにすら感じる。今では三日以上かかった距離も、一日で移動できるのだ。魔道による革命といっていい。僅かなりともその技術の一端を担うものとしては誇らしいことだ。
とはいえ、今のメアリーには、気鬱で長い道のりではあった。
「奥さま、もうすぐマキルにつきます」
「ええ」
長年ラスカルゴ家に仕えているサラにメアリーは頷いた。
メアリーが今は亡き夫とともに首都から離れた領地に引っ込んでから、もう二十年以上たつ。
艶やかな黒髪は白くなり、顔にはしわが刻まれてしまった。もっとも、まだ背筋はピンとしており、ドレスの着こなしは昔と変わっていない。
「親の私より先に逝くなんて、なんて親不孝な子よね……」
一人息子であるエリックが、その妻とともに事故で亡くなったという知らせが届いたのが二日前。
知らせを聞いてすぐに旅立ったものの、メアリーの孫であるまだ九歳のウォルクがどうしているか気がかりだ。
「元気……なわけはないけれど、どうしているかしら」
最後に会ったのは、三年前。夫の葬式の時だ。息子の幼い頃を彷彿させる優しい子だった。
「風邪などひいていなければいいのだけれど」
汽車はゆっくりと減速を始め、滑るようにホームに入っていった。
「相変わらず、冬の首都は陰気ね」
降り立ったホームは、人でごった返していた。空には重たい雲がひろがっている。決して色がないわけではないが、首都の風景はどこか無味乾燥だ。石造りの建物が多いせいかもしれない。
「奥さま!」
サラの鋭い声がした。
人ごみの中からメアリーの首元めがけて、人の手が伸びてきた。
メアリーは年齢に似合わぬ身のこなしで体をひねると、持っていた黒いパラソルで激しく伸びてきた腕を打った。そしてそのまま相手の腹に一撃を入れる。
「くぅっ」
コソ泥は痛みのあまりに膝を落とし、だらんとした腕をもう片方の腕で支えるようにして痛みをこらえている。年のころは十代半ばだろうか。やせ細った体だが、背だけが大人並みでひょろ長い。頬はこけてかなり薄汚れている。身なりから見て、裕福な旅行者相手に靴磨きや荷物持ちをして日銭を稼いでいる浮浪児のようだ。
メアリーを老婆と侮って、首の真珠のネックレスをひったくろうとしたのかもしれない。
「あら、ごめんあそばせ。年を取ったせいで手加減ができなくなってしまったわ」
「く、くそババアのくせに」
悔しそうにメアリーを見上げる瞳は非常に反抗的だ。
かなり直情的で、あまり賢くはない反応。
常習犯であれば、情状酌量を願うように媚びるか、痛みをこらえて逃走するはずだが、メアリーの隙を狙っているようには見えない。
「イキるのはおやめなさい。私がその気になれば、あなたのような浮浪児一人、警察に突き出されるより酷い目にあわせることも可能なのよ」
メアリーは上品に微笑む。コソ泥はその言葉に嘘がないことを感じ取ったのか、震え上がった。
「あの、どうかなさいましたか?」
メアリーの後ろから、駅員が声をかけてきた。
「あら、この方がぶつかってくるのをよけましたら、怪我をさせってしまったようなの。申し訳ないことをいたしましたわ」
ほほほとメアリーは笑んで、耳につけていたイヤリングを外し、それをコソ泥の手に握らせた。
「これで医者にみてもらいなさい。お釣りはラドーラにあるラスカルゴ侯爵家に返しに来て」
「なっ──」
コソ泥は目を見開いてメアリーを見る。
「今回だけよ。二度めはないわ」
ぼそりと、コソ泥の耳元でメアリーは囁く。
「駅員さん、お騒がせしてすみませんでした」
「いいえ。ご婦人もくれぐれもお気をつけて」
頭を下げる駅員に微笑むと、メアリーはパッと黒いパラソルを開いた。
「サラ、そろそろ参りましょうか」
「あの、奥さま、よろしいのでしょうか」
サラは呆けたままメアリーを見上げているコソ泥に目を向けている。
「構わないわ。イヤリングは他にも持っているから」
メアリーは何もなかったように背を向け歩き出した。
「まだ子供よ。それにあの目はまだ澄んでいた。信じてみましょう」
「奥さまは、相変わらずお優しい」
ふふふと、サラは笑う。
「いいえ。私も年を取ったわ。昔なら、ひったくりの標的になることもなかったのに。かつての黒豹の魔術師も堕ちたものね」
メアリーはそっと肩をすくめた。
若い頃には戦場で魔獣と戦ってもいたメアリーだ。チンピラ相手なら、眼光ひとつで充分なほどであった。
「もっとも、もう、黒くはないから当然かもね」
メアリーの黒かった髪は、もはやその色を失っている。この髪を見て、その二つ名を思い出す者はいないだろう。
「さあ、行きましょう。孫が心配だわ」
メアリーは時計に目をやると、足早に改札へとむかった。




