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AionioS  作者: 無日
第六章:白の果てで、手を取る

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第51話:揺れる炎の中で

 北区基地のゲートが重々しく開かれると、冷気が吹き込んだ。

 その先に広がるのは、果てしなく続く白一色の世界。


 吹雪は止んでいるが、気温は-15度を下回っていた。


 一行は、雪に沈まないよう工夫された特殊な防寒ブーツと、厚手のダウンに身を包んで歩を進めていく。


「ねぇ、ダニー…これほんとに方向合ってる?」


 進み始めてまだ30分。


 北区基地が視界から消えてすぐだと言うのに。


 顎をガクガクと鳴らしながら、辺りを落ち着きもなく見回すアミルの問いに、先頭を歩くダニエルは振り返らずに答えた。


「風の角度と雪の質で分かる。昨日まで吹いてた吹雪の痕跡を見ていれば、ルートは間違えることないですよ」


 地平線に目をやれば、どこまでも続く“白”──足元も、視界の果ても、ただそれだけ。


 まだ休憩地点はおろか、ぼんやりとした丘のような影が連なっているだけで何も見えない。

 目的地である駐屯地周辺の氷山群──そこへ至るには、2日かけてこの“無”のような雪原を渡らねばならない。


 歩いても歩いても、変わらない風景に視界が眩しく霞んでいく。


 ふと、足音が少ないことに気づき、オーティスが立ち止まった。


 背後に目をやると、少し離れた場所でロビンがぽつんと取り残されていた。

 首を深くうずめ、寒さを堪えながら前屈みの姿勢で足を引きずっている。


「遅れてるぞ? 前歩いとけ」


「…………ここでいい」


 凍えた声が返ってくる。


 息は白く、足取りは重く、目元には疲れの色が滲んでいた。

 雪に慣れていないぎこちない歩き方で、靴底は沈み込んでいる。


「小さいから、すぐ埋もれるだろ」


 その言葉に、ロビンがふいと顔を上げる。

 ぐっと睨むようにこちらを射抜いた。


「……あんたから見れば、全部が小さく見えるんでしょうね」


 疲れのせいか珍しく、声に刺がなかった。


 ロビンはそのまま重心をふらつきながら前へと歩み出す。

 俺とアミルさんを追い越し、再び白い風の中へ溶けた。


 そのまま黙々と、雪の上を歩き続けた。


 ギシ…ギシ…


 積もった雪の上を歩く音。


 風はやんでも、気温はじわじわと身体の芯を奪っていく。


 それを紛らわせるようになのか、単に寒さに耐えきれないだけなのか。

 アミルは肩を抱えながら声を漏らした。


「はー……さむ、南じゃ考えられない寒さ……」


「……はぁ…先輩、さっきからうるさいです……余計に寒く感じてくる。南区の話でもしててください」


 先頭を歩く男の口調は冷静だったが、目元にはじわりと苛立ちが滲んでいた。


 アミルはピッと人差し指を天に掲げる。


「ダニーってば、いい質問だね!」

「……ダニー?」


「そんなに聞きたいなら、俺の故郷であるアスルシャル!──ミレリス最大の水の都について語らせてもらっちゃおーかな!」


「正式名称ですか? それ」


 ファスナーを少し下ろし、青緑のトロピカル柄のシャツを見せつける。

 そこには円環状の紋様が、炎のように揺らめいていた。


「もちろん! “最初の起源”って意味があるんだってさ。まあ、今じゃただの街の名前だけど」


 軽く言って、肩をすくめる。


「旧世界の恒星はもうお目にかかれないけど、南の皆は──今でもあの恒星のこと、“太陽”って呼んでる」


「それに、水の都と言われてるのは街の真ん中に運河が流れてるからで、夜になるとライトアップされて──あ、観光船もあってさ。まあ、ちょっと地味なんだけど最近は───」


 その語りを誰も遮ることなく聞いていた。


 よく通る声が、冷えた空気に吸い込まれながらも、どこか遠くの景色を浮かび上がらせるようで。


 寒さが本当に紛れたような気がした。


「南区って……たしか、海もあったよな…?」


 ぽつりと呟くと、アミルがすぐに食いついた。

 肩に腕を回し、ずしりと体重を預ける。


「日中から海に行っちゃえば、バケーションに来た綺麗なお姉さんがたくさんいて、愛を囁くにはこれ以上ない絶好の機会ってこと!」


 寒さを忘れたように笑い、オーバーなジェスチャーでダニエルにもウインクを送る。


「お前も来ればいいのに。鍛えてるからいい身体してるし、絶対モテるけど?」


「あーー、俺は…そういうのよく分からないんで……」


「いやいやほんとだって~。肩幅広いし絶対ワイルド系でいけるよ。その目もチャームポイントにすれば、すぐ引っ張りだこ──」


「先輩」


 低く遮る。


 ダニエルが足を止め、振り返る。

 白い息が静かに揺れた。


「その口の軽さ……南区ではだれにも注意されなかったんですか? 少しは頭冷やしてください」


「ダニーが話せって言ったくせに〜」

「その呼び方……バディ組んでた時も、やめろって言いましたよね?」


 叱責が、氷原の静寂にむなしく吸い込まれていく。


 そのまま、会話は続いた。


 時折、風に言葉が消されることもあったけれど、互いの声がそこにあるだけで、ほんの少し気が紛れることができた。




✧✧✧




 ──恒星は、いつの間にか西へと傾いていた。


 白一色だった地平線に、じわりと赤が滲む。

 氷の粒子が光を受けて鈍く反射し、世界そのものが軋んでいるように見えた。


 その赤の中に、ようやく“影”が浮かび上がる。


 雪に半ば埋もれた、小さな建物。

 風に削られ、角の丸くなったそれは、まるで雪原に捨てられた箱のようだった。


「あれが、初日の中継小屋。予定より遅い……明日は早めに出発しますよ」


 ダニエルの声が、白い吐息に混ざって低く響く。


「中、狭いから覚悟しとけよ? 壁があるだけマシってレベルだ」


 誰も返事をしない。


 足はもう感覚が曖昧で、どこまでが自分の身体なのか分からない。

 雪を踏むたびに、膝から下が他人のものみたいに鈍く揺れる。


 視界も、思考も、全部が白に削られていく。


 それでも──屋根がある。


 今は、それだけで十分だった。


 アリシアから渡された古びた金属の鍵が回る音と、分厚い木の扉がギイ、と軋んだ。


 風の音が遠ざかり、背に貼りついていた冷気が少しずつ剥がれていく。


 小屋の中は、想像よりもずっと整っていた。


 壁は断熱材で覆われ、床も乾いている。

 古びてはいるが、手入れはされている気配があった。


 奥には、石組みの暖炉。

 その周囲に、最低限の家具が配置されている。


 ダニエルが足を止め、眉を寄せた。


「聞いてた話と違うぞ……」


「改装でもされたんだろ」


「いいじゃん! 広いならラッキーってことっしょ」


 間髪入れず、アミルが割り込む。


「……とにかく、最低限の体温管理と足の感覚は確認しとけよな。凍傷の兆候があれば即報告……はぁ、アミルさんがリーダーなんですよね?」


 ダニエルが語尾を強調して注意深く指差した先で、口笛が鳴る。


「なにここ、超当たりじゃない? 個室に薪ストーブつきだって〜〜!」


 アミルの背負っていた大きなリュックが床にドサッと置かれる。


 靴底の雪をラグで拭い、部屋の奥へと進むと、あっちの部屋、こっちの扉と次々に開けて回り始めた。


「……先輩、はしゃがないでください。極地での体力の温存は──」


「新しい場所に来たら、まずは探索!! リーダーの俺が、可愛い後輩ちゃん達を守るためにも、隠れた刺客が居ないか確認してくる〜〜!」


「はは、さっきまで疲れて元気もなかったのにな」


「どっちがリーダーだか」


 呆れたように息をつくダニエルをよそに、ダウンの留め具を外した。

 肩を動かすたび、白く凍った繊維がパラパラと床に落ちていく。


 ハンガーが備え付けられていた壁にコートをかけると、一気に体が軽くなったが、指先の冷たさだけはなかなか取れそうにない。


 体力温存と休息をとらないと、明日はもっときついことになる。


「……これ、使えるのか…?」


 暖炉の横に束ねられていた乾いた薪をいくつか取り出して放り込む。

 その傍らに置かれていた古びたマッチ箱を開け、1本取り出して擦った──。


 ジッ


 ──が、先端がしけっていて火がつかない。

もう1本、もう1本……擦る音だけが空しく響く。


「それで燃やす気?」

「……? これで燃えるんじゃないのか」


 一瞬だけ、彼女の目が丸くなった気がした。


「ったく…その薪、戻して。太すぎて火がつかないから、まずは割る。あんたなら素手で十分でしょ」


 薪をいくつか引っ張り戻し、押し付けられた。


「教えてくれるのは助かるけど、俺はそんなに…」


 バキッ


「…………」


 目を見合わせた。


「次もあるから、早くして」

「…………おう」


 それだけ言って、薪を受け取り、細く割っていく。


 ロビンはその間に、炉の中を整えていた。


 灰を均し、空気の通り道を作る。

 細い薪を組み、隙間を残す。


「それ、貸して」


 細薪を受け取り、下から順に組み上げる。

 薪の山を作ると、最後に床に滑り落ちていた小さな着火器具を構えた。


 金属同士を擦り、火花を散らす簡易式の点火具。


 カチッ


 火花が落ちる。


 細い薪が、一瞬だけ赤く光り──

 鮮やかな火花と共に、赤い炎がじんわりと宿る。


 薪がパチリと音を立て、やわらかな熱がゆっくりと室内に広がっていった。


 燃え広がる光が彼女の顔に揺らぎを落とし、炎の気配を映す瞳が反射する。


 彼女は静かに暖炉の前に膝を抱えしゃがみこむと、手をかざし、指先を温め始めた。

 かじかんだ赤い指先が、じわじわと熱を取り戻し、関節を緩ませる。


「慣れてるな。Voidには暖炉がよくあるのか?」


 ロビンは一瞬だけ俺を見て、それからまた炎に視線を戻す。


「場所による。木材は貴重だし、滅多に使えないからみんな酒ばっか飲んで身体を温めてる」


「そっか。子供の頃はどうしてたんだ? ……おい、まさか……」


「……っ…なわけないでしょ、飲んでない! そんなバカげたことしないから」


 それだけ言って、また無言で手をかざし続けた。


 ガチャッ


「ちょいちょい、来て来て! ちょうど4部屋あった!」


「俺は、あの女から一番離れた部屋にするんで」


 そういいながら、ダニエルは大きなリュックを片腕に背負うと一番奥の部屋へ床材を軋ませながら歩いていった。


「ふぅん…ツンツンしちゃって。あ、君は入口近くの部屋ね。男どもは猛獣なんだから、気を付けなきゃだめだよ。もし、何かあったら隣にいるから、いつでも呼んで?」


「どこだっていいけど、勝手に決めないでくれる」


「よし。じゃあ、各自荷物整理して、軽く飯食って寝るぞ」


 俺が短くまとめると、皆それぞれに動き始めた。


 ロビンはまだ炎の前にいた。


 手をかざす姿は変わらないまま、けれどさっきよりわずかに目元がゆるんで見えた。


 彼女が暖を取るその静かな背中に、炎の音が寄り添い続けていた。




✧✧✧




 風の音は遠く、雪の音だけがしんしんと響く。


 外は未だ白の帳が降り続けていたが、暖炉の赤い炎が小屋の中に熱を溶かし込んでいた。


「さっきも言ったけど、明日は日が昇る前に出発だからな。寝坊する馬鹿がいたら置いていく」


「了解。北区のことはよく知らないからな…お前がいてくれて助かったよ、ダニエル。みんなも、早めに飯を済ませて寝ておこう。冷えたままだと筋肉の動きも悪くなる」


 腰に手を当てて背を反らす。


 関節が鈍く軋む。


 暖炉の熱が背中に当たる。

 それだけで、眠気がじわりと滲んだ。


 ──が。


「ダニー!」


 その空気を、あっさりとぶち壊す声が響いた。


「暇そうなお前に重大な任務を授けちゃおう」


「え?」


「先に入って安全性チェックだけお願いしていい? ほら、ずっと先頭だったじゃん。だいぶ冷えてるでしょ? 一番風呂、譲るってことでさ〜」


「は? ちょっ、先輩──」


 抗議を最後まで言わせず、背中を押す。


 そのまま廊下へ押し込まれ、ドアの向こうへ消えた。


 アミルは満足げに手を叩く。


「よ〜し。これで“安全確認済みの風呂”が完成するってこと」


「押し付けただけじゃないですか?」


「違う違う。ちゃんと理由あるって〜! 先に温めてやった方が、明日も動けるっしょ?」


「ずっと見ててくれてたしな。あいつがいなかったら、俺たち今頃は遭難してたかしれない」


 リュックを広げ、北区基地で渡された保存食や缶詰を取り出す。


「さて、そろそろ飯に──」


 ゴトッ。


 鈍い音が背後で落ちた。


「さっき、こんなの見つけたんだけど、普通に当たりじゃん?」


 振り返ると、アミルが野菜を抱えて立っていた。

 テーブルに置かれた野菜からは、わずかに雪で湿った香りが漂う。


「え……それ、どこから持ってきたんですか?」


「さっき裏口の方見たら、畑があってさ。ちょっと俺のNovaで栄養いじってみたら、ここまで育ってくれて〜。……いや、ちょっとどころじゃないか。まあいいや、少しくらい貰ってもバレないバレない。缶詰だけってさすがにテンション下がるし」


 彼はそう言って笑い、野菜を抱えてキッチンへ向かう。


 戸棚を次々と開け、包丁とまな板を見つけると、ぎこちない手つきで泥を洗い流し、まな板の上にそれらを並べた。


「……料理はしたことあるんですか?」


「ん〜〜〜……」


 一拍。


「やったことは、ない!」


「……」


「でも大丈夫。こういうのはノリでいける」


「……一番信用ならないやつだな」


「お前は?」


「皮剥きくらいですね。あとは任せてた」


「俺のとこも似た感じ。兄弟が多すぎてさ、マザーが全部やっちゃう人で──あ、でも聞いて? ここからが本題」


 アミルは軽く返しつつ、今度はリュックから小瓶を数本取り出した。


「じゃじゃ〜ん!! これ、故郷でかき集めた秘蔵コレクション。適当に振るだけで“それっぽくなる”魔法の粉!」


 瓶の中には、赤やオレンジ、鮮やかな緑など様々な粉がぎっしり詰まっている。


 熱い陽光が照り付ける南区では、各地の食材が運び込まれる中央区でも馴染みのない食材が多く、その物珍しさや、鮮やかな色彩の果物を初めとした魚介類は有名で、その中でも運びやすく腐りもしない香辛料の輸入が最も盛んだ。


「故郷を忘れちゃいそうな時は、このスパイスを枕の下に入れて眠るんだ……」


 すりすりと瓶に頬を擦り付けて、愛おしげに目尻を緩ませる。


「え、スパイスを枕の下に……? 南区の人はスパイス愛が凄いって本当だったんだな…」


「冗談だよ」


 と、その時だった。


 小瓶のひとつがふわりと浮かび、キッチンからカウンターを超え、独りでに宙を歩く。


 伸びた手が瓶を掴んだ。


「おっと、お客さんいい目をしてるねぇ…」


 好奇心に輝く瞳でじっと中身を覗き込む。


 ロビンはカウンターに身を乗り出し、それを一つ一つ観察して、その中からもう一瓶手に取ろうとする──


「はいっ、ストップ。ここから先は有料です」


 商人のようにズラリと並べられていた小瓶たちは、手際よくアミルの腕の中へ回収されてしまう。


「これは、俺が地道にかき集めたやつだから。ノリで配るにはちょっと惜しいっていうか〜」


「アタシは別に盗ろうとしてなんか……」


「でも!!!……君の手料理、ちゃんと食べさせてくれるなら話は別かな」


 挑戦的な目。


 鋭く睨む目と、自信に満ち溢れ、にんまりとした目が交差する。


「…………はぁ」


「その2つ、使わせて」


 やがて好奇心に降参したのか、ロビンはキッチンの方へ回ってきた。

 まな板に手を伸ばし、野菜のひとつを持ち上げる。


「え、なにそれなにそれ!? 冗談のつもりだったのに!」


「ほんとに作れるのか? 真っ黒な鍋とか出てこないよな……?」


 興味津々な顔でまな板の上を除く。


「待って待って、俺も混ざりたい! 初めての共同作業ってこ─────」


 アミルが袖をまくりかけたその瞬間、彼の体がすっ飛んだ。

 そして、生き物のように宙を漂うダウンコートにぐるぐる巻きに包まれ、床に蠢くミミズになる。


「……っ、ちょ、これ拘束強くない!? 待って待って話し合おう!? 俺まだ何もしてなくない!?」


「ドア開けたら、あんたもああなるから」


 鶴みたいだ。


 ガラッ


 タイミングがいいのか悪いのか、浴室の方から扉の開く音がしてダニエルが戻ってきた事を知らせた。


「……どういう状況なんだよこれ」


「じゃ、俺は次入るか」


「これ理不尽枠じゃない!? 助けてって!!」





 ──それから1時間半。


 テーブルの上には、温かな料理がいくつも並んでいた。


 北区基地から渡された缶詰も、香辛料や刻まれた野菜と混ざり、見違えるほど彩り豊かになっていた。


「え~~!? 君が作ったの、これ!?」


「すごいな!」


「少しはね」


「いつも少食だろ? 飯には興味ないと思ってた」


「早く食べない? もうお腹ぺこぺこ……いただき──」


 ギィ、と椅子が引かれる音。


 ダニエルが無言で立ち上がる。


 そして、自分の前に取り分けられた皿を手に取り──

 そのまま、キッチンへ歩いていく。


 誰も、まだその意味を理解していなかった。


 ガシャン


 陶器が砕ける、乾いた音。


 それはこの小屋の中では、異様なほど大きく響いた。


 ロビンの瞳が、遅れて見開かれる。


 考えるより先に、足が出ていた。


「……それ、食い物だぞ」


 声が低く落ちる。


 だが、ダニエルは顔をあげない。

 蛇口をひねり、水を流しながら、淡々と口を開いた。


Vorder(ヴォーダー)が作った料理なんか、食えるかよ」


 水音が、やけに冷たく響く。


「下の連中が触ったもんだぞ? 口に入れるとか、正気かよ」


 テーブルの湯気だけが、空中に揺らいでいた。

 皿のぶつかる音が、まだ耳に残っている。


「Voidの連中が作った飯なんて、残飯も同然だろ」


 水の流れる音とともに、静寂を切り裂くような声が 落ちた。


 ダニエルは流しの前に立ち、跳ね返ったソースのついた手を流しながら、わざとらしく顎を上げる。

 薄く笑った口端から、はっきりとした嫌悪がにじんでいた。


「……」


 低く、くぐもった唸り声が喉の奥から漏れ出す。

 今にも爆ぜそうなその瞬間、立ち上がり、手を伸ばした。


「ロビン、落ち着け」


「言い返せって言ったのは、あんたでしょ」


「今は…違う。任務中だ」


 乾いた音が部屋に響いた。

 腕を振り払われ、靴音も荒々しくキッチンへと歩を刻む。


「どうせあんたも、Voidの奴らに何かされた口でしょ? だから、アタシに突っかかる」


 吐き捨てるような声とともに、ロビンはダニエルの胸ぐらをつかんだ。

 薄い布地越しに、拳が彼の体温を捉える。


 ダニエルは目を細め、すぐに冷笑を浮かべた。


 蛇口の水を止めぬまま、その手の中で冷水が渦を巻き、形を変える。

 水は細く、鋭く、氷の刃へと変換されていった。


「……っ…ダニエル!! ロビン、下がれ!!」


 その刃の先が、ロビンの喉元を僅かに掠める。


「ほらな。Voidの連中はすぐ暴力的になる」


 吐き捨てるようなその言葉に、ロビンの眼が細められる。

 吐息は白く凍え、拳はますます力を込めた。


「こんな奴らが地上にいる事自体、おかしいんだよ」


「……お前らVoidはどこでくたばっても誰も困らねえ」


 一瞬、彼女の手が緩んだ。


 瞳が大きく見開かれ、揺れる。


「ただの───」


 ダニエルの声が、ふいに途切れる。


 ぐん、と彼の体が後ろに引かれ、手が離れる。


 太い蔓がいつの間にかその身体を絡め取っていた。

 硬く、しなやかに。

 その一本が口を塞ぎ、暴言を物理的に封じた。


「──そこまで」


 支柱に片手をついたアミルが、視線を鋭く向けていた。

 その目は、いつもの軽薄な輝きを捨てた、責任と怒りを内包したリーダーのそれだった。


「事情があるのは知ってる。俺もお前のお姉さんにはお世話になったしね。でも、それを他人にぶつけていい理由にはならないし、この子は無関係だよ」


「……っ…」


 言葉を切り、蔓の強度をほんの僅か緩める。


 ダニエルは床に膝をついた。

 肩で呼吸を繰り返しながら、地を見つめるように黙り込む。


「さっきのは、見てて気分の良いもんじゃなかったかな〜。でもさ、今はチームでしょ? ここで内輪揉めしてる余裕、ないんじゃない? この寒さでさ」


 沈黙のなか、ロビンは黙ってダニエルを見下ろしていた。その眼差しには、怒りも、戸惑いも、何もかもが混じっていた。


「……はぁ」


 ぽつりと、氷の上に落ちるしずくのようにため息が響いた。


「……知らない。あんたに何があったのかなんて」


 その言葉に、ダニエルの眉がぴくりと跳ねた。


 ぎり、と奥歯を噛みしめる音。


 膝を立て、立ち上がろうとする。


「……っ、クズに──」


 言い返そうとして、顔を上げる。


 その瞬間。


 言葉が、止まった。


 ロビンの目が、まっすぐに見ていた。


 怒りでもない。

 悲しみでもない。


 ただ、どこまでも冷えた深い底に、何かを沈めきったような──


 その表情に、ダニエルの喉が詰まる。


 立ち上がりかけた体が、そのまま止まった。


「アタシたちは名前も知らない誰かの罪を、"地下で生まれた"ってだけで背負わなきゃいけないの」


「夢すら語れないまま、消えていくのが“当たり前”なわけ」


 かすれた声。震えた呼吸。

 指先が、爪が、強く手のひらに食い込む。


「……いつまで、……"嫌われ者"でいなきゃいけないの」


 白い手のひらから、細い赤が垂れていく。

 それは静かに床を濡らし、冷たい木目を赤く染めた。


 アミルが思わず、動きかけた。


「アタシはこいつとは違う。私情は…挟まない。仕事は最後までやり遂げる」


 それだけを、切り捨てるように言った。

 声はかすれていたが、折れてはいなかった。


 踵を返す。


 バタン


 廊下の冷気が一瞬だけ流れ込み、すぐに閉ざされる。


 その場に残された者たちは、誰も口を開けなかった。

 薪の燃える音だけが、かすかに木の軋みと共に夜を埋める。


 揺れる炎が、空になった席を照らしていた。


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