【3】未来へ
翌朝。台所からウインナーを焼く音で目が覚めた。
優哉は会社、春菜ちゃんは幼稚園に行っている間、私は着替えを取りにいくのと家の整理のため自宅に戻ることにした。
相変わらず自宅は荒れ放題。草木が枯れ果てた庭に、落書きされたままの雨戸。
でも、今までみたいに卑屈な気持ちではなかった。優哉さんと春菜ちゃんに尽くせば、許してもらえるんだ…………いずれはこの家も出ていくんだよね。
押入からホコリをかぶったスーツケースを取り出すと、着替えや洗面道具を詰め込んだ。
むかし買った、着古した服ばかりだ。
スーツケースはハネムーンに行ったときに買った物だが、1度しか使っていない。
そして、実家の母親に電話した。
「私、龍郎と別れることにしたよ」
「そう……それは良かったけど、あんた一人で生きていけるの?」
「うん。私ね、…………戸部さんのところに……春菜ちゃんのママに……」
「えっ?」
「私が償えることって、これしかないもの。そしたら、優哉さん…………私のこともらってくれるって」
「もらってくれるって、あなた、まさか?」
「うん。今日から一緒に暮らして欲しいって。荷物取りに来ているの」
「あんた…………えらいよ。戸部さんもそれで許してくれたの?」
「うん。私のこと『好き』っていってくれた」
「よかった……でも、よく被害者のご遺族の方に……あんたもがんばったんだね……美幸……」
電話口からすすり泣きのような声がきこえた。あれだけ私のこと冷たくしていた母親、本当は心配していたんだ…………
あとは……報告する相手がいなかった。叔母は留守だし、龍郎の家族などには言わないで、と念を押されていた。
改めて私の人間関係がズダズダになっていたことを思い知った。でも、優哉と春菜ちゃんと3人で寄り添って生きていければそれだけでも幸せ。
お昼には優哉に作ってもらったお弁当を広げた。
春菜ちゃんと同じメニュー。ふりかけご飯と卵焼きとウインナーだけのお弁当。温めたわけでもないのに、ものすごく温かくておいしかった。
あと、龍郎のスーツケースも取り出すと、二人で撮ったアルバムなど、今となってはおぞましいばかりの「思い出の品」を詰め込んでテープで封をし、押入に隠した。万が一、優哉さんがここに来たとき、これだけは見せるわけにいかない。後で処分しなくては。さらに、戻る時間ギリギリまで通帳や印鑑を探していたところ、金庫が出てきた…………(当然開かない)
龍郎にとって、私って、いったい何だったの??
夕方、スーツケースを転がして駅まで行き、電車に乗った。
駅前には優哉が春菜ちゃんと一緒に迎えに来てくれた。
優哉はスーツケースを軽々と車に載せてくれて、向かったのはショッピングセンター。
まずは鍵屋さんで家の合鍵を作ってくれるという。優哉から合鍵を受け取ったとき、私は優哉の妻になることを改めて実感した。
カギができるのを待っている間、隣の100円ショップで春菜ちゃんがキーホルダーを買ってくれたので、合鍵と合わせた。
あとは夕食の材料を買い、ご飯を作りながら、台所で春菜ちゃんといっぱいお話。
あの事故以来、私は一人でご飯を食べていた。朝・昼・晩。いつもひとりぼっち。
それが、家族で囲む明るくて温かい食卓。声を揃えて「いただきます」
それが信じられなくて、目頭が熱くなり、箸を止めてしまった。
「美幸?」「ママ?」二人が心配そうに覗き込んでいる。
私のこと心配してくれる人がいる。私はすすり上げながらご飯をかっ込んだ。
「ママ、どうして泣いているの?」
「ママはね、ここに来る前、辛いことや我慢していた事がいっぱいあったんだ」
「そうなの?」
「うん。昔の嫌なことをいっぱい洗い流しているんだよ。春菜だって前のママが死んじゃったとき、いっぱいいっぱい泣いたよね」
「そうなんだぁ…………ママ。いっぱい泣いていいよ。たくさん泣いて早く元気になってね」
そう言うと、春菜ちゃんは大きなバスタオルを持ってきてくれた。
…………「泣いていいよ、たくさん泣いてね」
こんなこと言われたの初めてだった。私はバスタオルを抱えると、わんわん泣いた。
気がつくと、テーブルの上が片づいている。優哉と春菜ちゃんが片づけたようだ。
「お取り込み中悪いんだけど」と優哉がおどけたように声を掛けた。
「な、何……?」
「そろそろ先生が来てくれる時間だから」
…………しまった、そうだった。私は洗面台に飛んでいくと化粧を直した。
チャイムが鳴り、弁護士の先生が入ってきた。
「ごめんね、こんな遅くに」恰幅の良い中年の弁護士先生がどっかりと座った。
「いえ、こちらこそ急にお呼び立てしてすみません」
「あれ、こちらの方は龍郎君の奥さんの?」
「はい、美幸です」
「それで、話というのは…………」
優哉が口を開いた。美幸と一緒になりたいので、刑務所に服役中の龍郎と美幸の離婚交渉をしてほしい、と。私が受けてきたDVについても簡単に説明してくれた。
弁護士は一瞬驚いたが、すぐに普通の口調に戻り、いろいろ尋ねた。
「こちらが有責配偶者ということでも構いませんから、離婚最優先で」と優哉と弁護士は何やら難しい法律用語を使って話し始めた。
「『有責』配偶者って、私……私、何か悪いことした? そうか、龍郎を止められなかったから、人殺しの責任を取るの??」
「そうじゃなくて、交渉を進めるための方便だよ。」
「??」
とりあえず、私が署名捺印した離婚届の用紙を預け、龍郎との接見と、龍郎の実家との交渉を依頼して今日はおしまい。
「ねえ、私どうなるの?」優哉に抱かれた後、腕枕してもらいながら聞いてみると、
「どうなるって、奴と離婚して、半年後に俺との間に籍を入れて……」要するに、財産分与で揉めるぐらいなら、そんなもの要らないからとっとと離婚してしまおう、という方針らしい。
「でも……」「俺は美幸だけ手に入れればそれだけでいいよ」また瞼が熱くなった。
(※有責配偶者とは、離婚の原因を作った側の人を指す。「好きな相手ができたから離婚させて欲しい」と身勝手な事を言い出した者ということになるだろう。美幸の場合は相手がDVや反社会的行為をしたということで、裁判に持ち込めば有利に離婚できる条件は整っているのだが、その条件を持ち出さない代わりに、龍郎に早く離婚を迫るという作戦を優哉は取るというのだ)
数日後、弁護士から連絡があり、私を有責配偶者として龍郎側の財産(取り分)を確保するのであれば順調に交渉できそうだ、とのこと。
2回目の逮捕で龍郎や実家も離婚やむなし、と思っていたのだが、どうやって財産の確保をしようか考えていたらしい。
とはいっても、社会正義の観点から、すべて龍郎の言い分も飲むわけにも行かない、と弁護士が手を尽くしてくれて、土地と家の分け前が決まった。あとの細々した品物は引越の時に双方立ち会いで分けることにした。
私は、龍郎の姓、黒田を名乗りたくないので、とりあえず戸籍の姓は結婚前の村岡に戻した。が、優哉の許しをもらって持ち物の記名やレンタルビデオや通販の会員登録などでは「戸部美幸」と名乗ることにした。
また、優哉は故・恭子さんの実家に再婚することを報告したところ、位牌と遺品を引き取りたいと言われたそうだ。
恭子さんのご両親が見えた日、優哉の指示で私は春菜を連れて家を空けていたので詳細は分からないが、位牌と仏壇の他はスーツケース1杯分の形見を持っていった様子。
家に戻ると、室内は空き巣が入った時みたいに散らかっていた。
「恭子さんって服いっぱい持っていたんですね。かわいいお洋服がいっぱい」
「うん。公務員で収入は多かったし、派手好きだったから……」
「少しもらっていい? 私、服あまりもっていないから」
「それは勘弁してよ。美幸にはこんなド派手なの似合わないし、恭子のこと思い出しちゃうから。服なら買ってあげるよ」
…………そうでしたね。
本やCD、アクセサリーなど多少の形見は頂いた。
拘置所にいる龍郎から離婚届の用紙が届いたので、市役所に出しに行った日の夕方。優哉が
「再婚のことを上司に報告したら……」と沈んだ声で話し始めた。
「奥さんもらったんだったら子どもさんは大丈夫だよね。今度のツアー、出てくれないかな?」と言われ、さらに他の運転手からも「奴が日帰り行程ばかりなので、その分のしわよせが自分たちに」とあからさまな不満の声が出ていることを明かされたとのこと。。
「優哉さん、仕事だから仕方ないです。春菜ちゃんなら大丈夫」と、送り出したのだが…………
春菜ちゃんを寝かしつけた後、何気なく取りだしたDVD。
生前の恭子さんが写っていた…………
どこかの遊園地で撮影されたものらしく、恭子さんと春菜ちゃんが楽しそうに戯れていた。春菜ちゃんが幼稚園に入る直前の画像らしい。
私はハッとなった。
私がこうして幸せに暮らしているのは、私が恭子さんを殺したから…………?
胸の鼓動が高くなった。
「ママ、これ乗りたいよ」ビデオの中で春菜ちゃんの声がした。
「急流滑りはもっと大きくなってからでないと……春菜が大きくなったらママと一緒に乗ろうね」優しそうな恭子さんの声。
「うん、ママと一緒に乗るの楽しみだね、約束だよ……」「指切りげんまん……」
でも、春菜ちゃんは恭子ママと一緒に乗ることは二度とできない。私が恭子ママを殺したから。
「恭子さん、申し訳ありません。」
私は、テレビに向かって土下座した。テレビの中からは恭子さんの歓声が聞こえていて、涙が溢れてきた。辛い……辛すぎる。もうだめだ。
「うわーん」私が耐えきれずに大泣きすると…………春菜ちゃんが起きてきた。DVDは何とか停めたが、涙は止まらなかった。
「ママ、ないているの?、はるながなぐさめてあげる」
「春菜ちゃん、寝なさいよ、ぐすっ」
「いや。寝たくない。ママばかり辛い思いさせたくない。今日はパパがいないから、ママが泣きやむまで起きている」
「春菜ちゃん…………ママは大丈夫だから……寝てよ」
「いやっ、はるな、寝たくない!!」
結局、春菜を抱きしめた私が泣きやんだのは夜中の2時。次の日、私も春菜ちゃんも寝坊して保育園をお休み。電車に乗って都市公園に遊びに行って、マックを食べてきた。
優哉がツアーから戻って、春菜ちゃんはそのことを優哉に話した。
「ねえ、パパぁ。夜は帰ってきてよ。ママかわいそうだよ」と。
私は情けなかった。一時の感情で母親が為すべきことができなかった。母親失格だ。
私は「優哉さん、留守を守れなくて申し訳ありません」と土下座しかけたが、優哉は
「母親が子どもの前でそんなことするんじゃない!」とすすり上げる私の上体を抱え上げてくれた…………が、不機嫌だった。その晩は抱いてもらえなかった。
次の日。会社から帰ってきた優哉は思いがけない話をした。
「今の観光バス会社を辞めて、路線バスの会社に移る」と。
上司に相談したところ「そんなに泊まりが嫌ならウチは無理だよ。ウチはこれからツアー部門に力を入れるんだから。まあ、こんなのがあるけど」と路線専門の会社を紹介してくれた。有給をもらって早速面接に行くと、確かに泊まりがけの仕事はないとのことで、その場で内定を出された、と。(時々、最終〜始発の行路があって仮泊しなくてはならないが、仮泊明けの午前中には帰宅できる)
ただ、給料は下がるので贅沢はできないかも、と優哉に言われた。
優哉は「どのみち社宅は出なきゃいけないから、(保険金で)家買っちゃおう。却ってその方が経費掛からないよ」と言い、次の休日、隣町で売り出していた売れ残りの小さな建売住宅を本当に即金で買ってしまった。
更に、次の週には引越。新緑がまぶしい住宅地の一軒家に入居した。
不動産屋に春菜の通う幼稚園を紹介してもらい、入園手続きをしたあとは近所の隣保班への挨拶回り。その時優哉は「家内の美幸と娘の春菜です」と挨拶していた。
「私、まだ籍入れていないのに……」
「いいじゃん。前の社宅では『彼女』と言い繕っていたけど、ここでは初めから女房と言うことにしようよ」
挨拶回りも最後の1軒。立派な構えをしたその家は、二世帯住宅なのか門標に表札が2枚ついている。
呼鈴を押すと………………出てきたのは、晩酌をしていたらしく、真っ赤な顔をした年輩の男性。
「えっ」
「あれ? 美幸さんと戸部さんのご主人……お揃いで……どしたの?」
龍郎が事故を起こしたとき、担当してくれた年輩の刑事さんだった。
優哉が簡単に説明したら刑事さんは上機嫌で大爆笑。「そうか、戸部さんのご主人、あの酒飲み野郎の奥さん、取っちゃったのか??」
「はい……」
「ところで、春菜ちゃんの幼稚園は?」
「緑ヶ岡幼稚園にお願いしてきました。今度、年中で編入します」
「あれ、うちのと一緒だ…………お〜い、淳子!!、愛沙連れて玄関に来なさい」
刑事さんのお孫さんとお嬢さんが濡れた髪を拭きながら出てきた。お嬢さんは、いかにも肝っ玉母さんという感じの恰幅のいい人だ。
「うちの娘の淳子と、孫の愛沙だ。愛沙も今度年中組だし、淳子は今年、PTAの副会長をするそうだから何でも相談してくれ」
「はい……」
その家を後にしたとき、私はへたり込んでしまった。
私の過去を知っている人がいる。私が人殺しだということをあの刑事さんは知っている。
お嬢さんとは幼稚園も一緒なんて…………どうしよう。
翌日。早速、淳子さんが愛沙ちゃんを連れて遊びに来てくれた。
春菜と愛沙ちゃんはお庭で遊んでいる。
淳子さんは幼稚園のことや、町内の話をしたあと
「私、父からあなたのこと、聞きましたよ」と続けた。
私は顔から血が引いた。かつて、近所の人たちや職場の同僚から「人殺し」と呼ばれた記憶が蘇る。
「私、あなたのこと凄いと思うよ。普通じゃできないよ!!えらいよ」と涙声で言った。
「父からあなたの話を聞いて久々に泣いちゃった。そこまでして償わなくてもって思ったけど…………すごいよ。それでいて、あなた達ちゃんと幸せそうにしているんだもん」
「…………」
「私、父から言われたの。『全力で守ってあげてくれ』って。」
「すいません……」
「どんな小さな困りごとでも、すぐに私か父に言ってね。父は警察官で正義感だけは人一倍強いし、私、これでも幼稚園では顔が効くのよ。」
私は、うれしくて叫び出しそうだった。
「ありがとう、ありがとう」と何度も言ったら「もう、そんなに泣かなくっても」といきなりハグしてくれた。淳子さんの大きな胸に顔が埋まった。…………
新しい幼稚園。春菜にはお友達がいっぱいできた。
私より年上ばかりのママさんたち、最初は怖かったが、淳子さんに連れられる形で母親たちの輪の中に入っていった。
継母であることはすぐに知れ渡ったし、中には事情に気がついた人もいたが、変な噂になりそうになると淳子さんが上手に抑えてくれた。
そんなことよりも、春菜のお友達が小さな家に溢れそうになるぐらい集まることがあって、楽しかった。
元保育士の私はよその子の相手も慣れているし、母親たちも安心して預けてくれるのがうれしかった。
そして、ゴールデンウイークのある日。弁護士立ち会いの許、龍郎と暮らした家の引き払い作業が行われ、家は不動産屋に引き渡された。
龍郎との思い出の品が詰まっている例のスーツケースは、弁護士指定の産廃業者に引き取られ、厳重な機密管理下で処分されるという。優哉も黙ってうなずいていた。
これで、龍郎との関係は完全に絶たれた。優哉は「おめでとう」って言ってくれるのかと思ったら
「何か悲しいね」と寂しそうに言った。
「どうして?」(喜んでくれるかと思ったのに)
「俺も、美幸も……長年連れ添ってきた相手に『さよなら』も言えないで別れてしまったから……切ないね」
私は、優哉に勧められるまま、刑務所の中にいる龍郎に、最初で最後のお別れの手紙を書いた。
第一話が衝撃的だったと思いますが、実際はあんなものではないと思います。
うっかりミスのスピード違反や一旦停止無視と違い、飲酒運転は「酒」+「ハンドル」という、ドライバーの意志が積み重なって起こるもの。その点では悪質です。
厳罰化で減ったとは聞きますが、まだまだあるようです。
そして、刑務所に入る本人はもとより、家族も大変なことになるのです。
難しい話におつきあいいただき、ありがとうございました。