22.あれ? 何かが、変だ。
あれ? 何かが、変だ。
目を開けて、わたしは首をひねった。
あたりを見回す。
森だ。
最初にレッサーパンダと出会ったときと同じように、背の高い木々が鬱蒼と生いしげり、青く晴れた空を薄暗く覆い隠している。
細い、けもの道の上に、わたしは立っていた。
地面は、黒く、やわらかく、かすかに湿っている。
周りの様子に、とくにおかしなところはなかった。
だが、なぜだろう。
はっきりとは言えないのだが、どこかに、違和感を感じる。
「ねえねえ。」
どこかにいるはずの、小リスを呼んでみた。
だが、返事は返ってこない。
「ねえってば。」
少し声のボリュームを大きくして、もう一度呼んでみた。
だが、結果は同じだった。
まるで、誰もいないコンサート・ホールのように、わたしの声ばかりがあたりに響き、やがて、すべての音が吸いこまれるように静かになる。
「誰も、いない?」
ふと、気がついて、わたしはジャケットのポケットを探ってみた。頭と肩の上も撫でる。
——いない。
小リスがいない。
木の実が右ポケットと胸ポケットに一つずつ入っていたが、小リスはどこにもいなかった。
それに、そうだ。
わたしは、服を着ている。
——いや、別に、そのこと自体は何もおかしくはないのだが。
大体いつも服は着ているのだが、そういう意味ではなくて。
さっきまで、確かにこの服は、湿ったまま木の枝にくくりつけられていたはずだった。
そして、お恥ずかしい限りだが、わたしはほぼ裸だったのだ。
だが今、わたしはしっかりと服を着込んでおり、それらは全て、さらさらと乾いていた。
「どういうことなの。」
呟きが、気味の悪いほど静かな森に吸い込まれていく。
生あたたかい風が、頬を撫でて通り過ぎた。
なんだか急に寒気を感じて、思わず、自分で自分自身を抱きしめる。
かちゃり、と乾いた金属の音がした。
はっと、自分自身の体を見下ろす。
指先にふれていたのは、あのとき——最初に壁にぶち当たって、死んだとき——に持っていたバッグの金具だった。
いつの間に、戻ってきていたのだろう。
すっかり失くしたと思いこんでいた。
あわてて、バッグの口を開ける。
ひっくり返すと、中身がぱらぱらと散らばった。
携帯電話に、財布、カードケース、キーケース。メイクポーチに、ハンドミラー。ハンカチ、ティッシュ、ウェットティッシュ。ペンケースに、ノート、それから、眼鏡ケース。
間違いなく、全て、わたしのものだった。
それらの、元いた世界のあれこれを見ていると、急に、さっきまでのことが、ひどく非現実的な悪い夢であったかのような気がしてきた。
「もしかして、全部、夢?」
半分、願望をこめて呟く。
だが、きっと違うだろうな、という気がした。
ポケットに残された木の実には、小リスのかじりかけの歯形が残っていた。
それに、コーヒーやコロッケの味も、壁にぶち当たる時の激しい痛みも、全てが夢にしてはリアルすぎた。
——壁。
そこで、わたしは、重大な事実に気がついた。
慌てて、地面に散らばったあれこれを拾い集め、まとめてバッグに突っ込むと、けもの道に沿って、走った。
次第に荒くなるわたしの息と、頼りない足音ばかりが、静まりかえった森の中に響く。
ない。
ない。
走っても、走っても、壁がない。
そのことが、どうしてこんなに不安なのか分からなかった。
わたしが死んだのは、あの壁にぶち当たったせいなのだ。
それからもたびたび、壁にはひどい目に遭わされてきた。
死ぬほど痛い思いをしたり、ぼろぼろにされたり。
やっと壁から逃れられたのだ。
むしろ、喜ぶべきではないだろうか?
汗が、額からしたたり落ちる。
額だけではない。全身から、気持ちの悪い汗が噴き出し、流れ落ちる。
せっかく乾いていた服も、すっかり湿ってしまった。
「逃げて。」
どこかから、声が聞こえた。小リスだろうか。
激しく風が吹き、森全体がざわめく。
「早く。逃げて。」
見上げると、生いしげる木の枝の隙間から、空を飛ぶ黒い鳥の姿が見えた。
「まだ、ここにきてはいけません。まだ、洗えません。」
洗うって、何を?
それに逃げろと言われても、どこに逃げればいいのか分からない。
「壁を呼んで。あなたの壁を。」
「さっきから、意味がわからないんですけど!?」
耐えきれなくなって、わたしは叫んだ。
親切心から忠告してくれているのだろうが、そんな、神のお告げみたいな、ふわふわしたことを言われても困る。
もっと具体的に手順を説明するか、わたしができそうなところまで手伝ってくれるかしてほしい。
ほのかにパワハラ臭の香る、青い鳥の姿が頭に思い浮かんだ。
確かに彼も何やら意味深なセリフを濫発していたが、ちゃんと自ら手本を見せてくれたし、最後まで手伝いもしてくれた。
面食らったように、黒い鳥の羽ばたきが乱れた。
木の枝に引っかかり、ばたばたともがいたあと、何とか再び空へと舞い上がる。
「あなたは、勇者ではないのですか?」
ああ、みんな最後にはそれだ。
そんなことを言われても、わからないものはわからないのだ。
勇者だのレベル2だのと言われてはいるが、実際に自分の目で確かめたわけではない。
わたしに読めた文字は、壁と卵、ただそれだけだったのだから。
「ああ、時間がありません。それなら早く、こちらへ。」
業を煮やしたのか、黒い鳥は空から舞い降りると、わたしの上をぐるぐると旋回した。
「木に、登ってください。なるべく高くまで。」
「えっ?」
「早くしてください。帰れなくなってもいいんですか?」
鳥の目は、鋭く釣り上がっている。
どうやらかなり苛立っているようだ。
仕方がない。木登りなんて、何年ぶりだろうか。
えっちらおっちら、木の根元をよじのぼっていると、たまりかねたように、鳥が下からお尻を押してくれた。
「あ、すみません。」
「いいから。しゃべる暇があったら、手足を動かせ。」
鳥のキャラが変わってきている。わたしは大人しく口をつぐみ、必死に木を登り続けた。
もうこれ以上は登れない、というところまで登り終えた時、それはやってきた。
「あれは——、」
思わず呟いたわたしを、鳥が鋭い目で一瞥した。
おそらく、黙れしゃべるな死にたいのか、と言っているのだ。
この数分で、それくらいには鳥のことが理解できるようになっていた。
森の向こうに見える、黒い山が、揺れている。
山が揺れるたび、そのふもとから黒い波が地面に広がり、こぼれたコーヒーのように広がっていく。
その波を形づくっているのは、無数のもじゃもじゃだった。
だが、私が見たもじゃもじゃとは違って、透きとおっている。
まるでもじゃもじゃの幽霊のようだ。
第一の波が過ぎ去ってしまってから、私の隣の枝に留まっていた鳥が、やっと口を開いた。
「かなりの量が、あふれ出していきましたね。
あれらが、壁の世界の動物たちに憑き、悪しき魔物に変える元凶なのです。」
鳥のキャラが元に戻った。
内心ほっとしつつ、神妙に頷く。
鳥は、ばたばたと翼をはためかせた。
「……ああ、よかった。どうやらうまくいったようです。」
鳥の視線を追い、振り返ると、背後にあったのは、ミニサイズの白い壁だった。
壁は、中空に浮かびながら、ぺたりとわたしの背中に張りついた。
「それではまた。次はもっとレベルを上げてからお越しください。」
背中から、ぐにゃりと壁に吸いこまれる。
鳥の呟きが聞こえた。
「なぜ、今だったんだ……。明らかに、早すぎたのに。」
次回の更新は、21日(月)の予定です。
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