428 肉料理:レーヴェ・フロムダール(22)
彼女はその男がロライン家末娘の護衛だと遅れて気づき、二度目の絶叫をあげた。そして今日、さきほど聴いたのは三度目の絶叫なのだろう。どうして悲鳴をあげたのか問いかけると「一目惚れだそうですよ」と家政婦長が微笑む。
礼を告げたくともバートリは護衛の任務に就いているし、宿舎は男女別で異性の交流は禁止されている。使用人用の広間では自由時間を過ごしたり、手仕事をしながら雑談をすることもできるが、バートリの性格上そういった場所に顔を出すことはないのだろう。
だからこの胡桃のマフは彼女の感謝の気持ちなのだ。これを食せば少なくとも"何かしら礼をしたい"という一方の気持ちは終着する。甘い物を苦手とするバートリの気持ちは蔑ろにされるが、往々にして両者の思惑が合致することは少ないものだ。こうして人との関わり合いを避けるような人が相手であれば特に難しい。彼女はきっとバートリのことをよく知らない。でもこのマフをきっかけに念願達して二人で連れだつ日がくるかも知れない。これからのことは誰にもわからないのだから。
「食べられない訳じゃないのだからそんな顔をしたってだめよ。好き嫌いはだめってお兄様に叱っていただかなくては」
善行と悪行の間をゆく痛快さが笑顔となって頬にのる。外を求める私をいつも言葉で、時には体を張って邸に縫い止めているのは彼だ。言葉の裏に"仕返し"がにじんで、バートリは目を細めて私を睨んだ。といって、私はすぐにそんな事を言った自分を愚かしく感じた。
ロライン家の武官らしく気高く精神まで堅固な彼と、なんの取り柄もない私はあくまで養女と武官に過ぎない。彼の方がよほど役に立ち、美徳を体現していた。護衛とは名ばかりの世話役を命じられて嫌に思う事もあっただろうに、そうした文句を一度も吐いたことはない。
父や兄よりも濃厚に、時には大して意味のない孤独すらも受け取ってくれた人だ。彼はロライン家に忠誠を誓う一人の兵士として自らを勘定しているが、リーリートの目には他の誰とも同じには見えなかった。
「おっしゃる通りですが、食べたいとは思いません。これからもそうでしょう」
もしかして相当な偏食なのかしらと見当違いをしていると「じゃあ…」と言い募る頬に手が伸びてくる。眉間に深く寄った皺から「摘ままれる」と思った私は横を向いて頬を差し出した。
大仰な籠手が触れる。氷のような冷気と熱気が同時に感じられて、ほんの少し肩をすくめると首筋に入り込む冷たい風が底ごもる気配があった。瞳をたぐるとそこにあるのは緊張から解放された柔い笑みだった。はっとする。そんな顔なんて見たことがなかった。
「……どうか一口でお許しを。甘ったるくて敵いませんよ」
「ふふ……そうね、バートリ」
硬質な鎧には日に灼けたこともない白い肌がうつりこんでいるだろうか。指の腹がすこしだけ頬を擦過し、くすぐったさにはにかむ。そのまま頬をすり寄せると、首筋に掛かる髪をよけて静かに離れていった。
リーリートは皿を遠ざけると今度は家政婦長の手をとった。好意からあらゆるものを受容する笑顔をみせて、彼女は「あらあら」と膝を寄せる。
彼女の手を握ると記憶の奥の母の幻影をみられるような気がした。遠方に佇む母の姿はぼやけて、リーリートはいつも存在を疑うのだった。母を知らないまま、父とも兄とも血がつながらず、ひとりぼっちの自分を感じる。こうして誰かを求めることは「自分」の形を知るためには必要な行為だった。
「あたたかい……この手が好きよ。バートリのことも。みんなが私のお母様になって、お父様にもお兄様にもなってくれるから……わたし…ここに……」
居てもいいっていわれているような気がするの―――そうはどうしたって言いきれなかった。
吐きだした瞬間に多くの愛を裏切るとわかっていた。これは本心であって本心でない。不安、恐怖、孤独、焦燥。愛といっしょに混ぜっ返された自分だ。言葉にしてしまえば本当になってしまう。だから続きは言えない。目の前の二人には偽りのない言葉だけを伝えたかった。
邸のみんなが私を守ろうとしてくれていることも、気遣ってくれることも、いろいろなことを壁に感じながら、いつだって苦しく思っていた。こうした気持ちは養女である子供の常として抱える問題なのかも知れない。どれだけ気遣いが行き届いていても、愛を捧げられても、まるで鎧のように心を覆う不安は拭えない。だけど心はいつまでたっても停滞しているだけではない。こうしてあたたかい手がそばにある。人のあたたかさを感じることができる。人助けをしたバートリに捧げられた女中の感謝も、村のお祭りに向かった従者たちを羨ましく思いながら「私も」と言い出すこともできない私をこうして気遣ってくれる婦長も、身近に愛が存在していることの証なのだ。
(愛が循環している―――私も、その輪の中で誰かを愛してみたい……)




