426 肉料理:レーヴェ・フロムダール(20)
「バートリ?」
「以前むやみに解答するなと命じられておりますので」
「誰に?」
真下を向いた切れ長の目がすっと細められる。夕焼けのような無性に恋しい瞳が、ほんの少しまどろむ。
「貴方様ですよ」
「……」
「……覚えていらっしゃらないのでしょう」
「うん。でも言いそうね。私負けず嫌いだもの。あとで書斎に行って調べるわ」
「掲載されている本をお教えします」
「あんなにたくさんの字典があるのに覚えているの? 貴方、私の先生になってくれればいいのにっていつも思うのよ」
「遠慮しておきます。これ以上規律を増やされては困ります」
「あ~!」
頬を膨らませて抗議していると、廊下の奥から前掛けをした恰幅の良い女性が走ってきた。厨房を統べる王様・厨房長は抱えていた芋入りの麻袋を床に置くと、腰に両手を宛てたままズイズイと女性陣に迫った。
「騒ぎを起こしたって!? またあんたかい!? どうしてこう何度も何度も問題を起こすんだかね!? なにをしたんだい?! 言ってみな!」
直立した女中たちは硬直して視線だけを行き来させた。使用人の間では雷や嵐や無給になることよりも厨房長が怖く、彼女の叫びは力強さのあまり、聴く者を卒倒させることがしばしばあった。
「ちょっとした不注意ですよ。声を抑えてください、お嬢様がおられます」
「お嬢様だって?! こんなところにいるわけ、お、お嬢様!」
ぶんと音が鳴るほど尻尾をしならせ勢いよく振り返ったので、リーリートは反射的に仰け反ってしまった。厨房長は前掛けで両手を拭い、リーリートの前で恭しく片膝をついた。
「かわいいお嬢様、私たちの愛するお嬢様がどうしてこんなところへいらっしゃったのです。ようそこおいでくださいました。でもいやですよ、狭くって危ないものばっかり置いてあるんですから、来てはいけません。こんなところ。ほらあんたたち…! 何だいそりゃ、柘榴をどうしたのさ! お嬢様のお好きな焼き菓子をつくろうって用意したもんだよ! それをあんたたちは、ばかだね!!」
声を差し挟ませない勢いに目を見開くリーリートだったが、厨房長が女中たちの方へいった隙にバートリが両耳を塞いでいたので水中に在るように不鮮明な音を聴いていた。
厨房長のこめかみの血管が膨れ上がり、血を噴き出すのではないかと心配になるが、家政婦長の顔はわりと穏やかだ。二人は旧知の友人のように肩を寄せている。けれども勢いはなかなかおさまらず、たまらず耳元の武骨な手に小さな手を重ねると、バートリが頭上で何かを言った。女性陣が振り返る、慌ててよってくるところを見ると苦言を呈したのだろうか。聞こえないので「大丈夫」と微笑んでもバートリの手はなかなか離れなかった。
ー
「お嬢様、こちらへお掛け下さい。バートリさんもどうぞ」
「結構です」
「そうですか。紅茶とお菓子をご用意致しますので、少々お待ちください」
婦長室は書棚と事務机があるだけの簡素な部屋だった。けれど花瓶があり、真っ青な花が一輪飾られている。入室と共に点火された角灯がぼんやりと熱を持ち、単色の、わびしい色をまとう。
部屋に一か所ある天窓からは淡い陽射しが斜に入り、ひんやりとした冷たい空気を和らげて、清潔で整った地下に辛うじて侵入を果たしていた。
上階には自分が生活する地上階があるが、まるで別の家にきたような感覚がある。地下に住まう使用人たちは日に何度も螺旋階段を利用して、食事を運んだり、重たい掃除道具を持って移動している。椅子にこじんまりと座りながら、慣れない部屋で天井を見上げる。自分はきっと手箱の中に詰められた石の中で、唯一の異質な石なのだ。天井を覆う馴染みのない板は、自室の天井とは何もかも違う。だけど婦長室にはロラインの匂いがしみこんでいるように感じられた。
(私には……しみついているかしら、ロラインの……におい)
振り返るとバートリと目が合う。だが不思議と心の接触は拒んだ。自分にロライン家の資格があるのか訊ねても答えは決まっている。バートリの能力は疑わないが、彼は必ず肯定する。
バートリは私から視線を外すと扉を開けた。銀盆を持った家政婦長が「あら、声をかける前によくわかりましたね」と入ってくる。
「どうぞこちらを。胡桃のマフです。バートリさんも、どうぞ」
「お気遣いなく」
「バートリ、いただいて」
彼は茶器だけを持ってすぐに壁際に下がった。まさかひと息に飲むのではと思って、くすくすと笑うと眉間に皺が寄るのが振り返らずともわかった。バートリと豪奢な茶器という組み合わせにはにかみつつ、マフを一切れすくいとる。




