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リリィ 思いつくままに書きとめたささやかな覚書と一切の崩壊。無力な愛、ひとつの不幸、ただ愛を愛とだけ欲したある価値の概念  作者: 夜行(やこう)


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425 肉料理:レーヴェ・フロムダール(19)

荷馬車を見送ったあと「ご休憩していかれますか」とお誘いを受けたので、通用口を通り抜けて婦長室へ向かった。厨房では夕食の仕込みが始まっており、戸棚や竈の前で数名が作業に没頭している。

女中たちはリーリートが横を通ってもすっかり集中していたが、鎧が擦れる独特な音に一人が反応を示した。外套から白銀の鎧をかすかに覗かせるバートリに女性の瞳は釘付けとなっている。遅れて発せられた甲高い声にさしもの温厚な婦長も足を止め、厨房に駆け込んだ。リーリートは家政婦長の背中越しに覗き込んだ。


「なんですか貴方は、そんな大声を出して。何かありましたか?」

「いっ、いえ! 申し訳ございませんっ!! あのっ私、なんてことを」


彼女は勢いよく低頭したが、刃物を持ったまま膝に触れたので勢い余って己の体を切り裂くところだった。「危ない!」とリーリートの声が飛ぶも、それにもまた驚いて後ずさったので、腰で台座をしたたか弾き、皿が跳ねて、周囲の物が散乱することとなった。食器が落ちる音は特に響き、廊下の各部屋から小姓たちが顔を出しした。


「誰が癇癪を起こしてんだ?」

「えっ、あれお嬢様じゃないか…!」

「お嬢様…!?」

「んなわけあるかよ」

「見てみろって! おい! おい!!」


小姓たちは靴磨きの最中だったらしく腕まくりをして手巾を片手に持っている。年齢の近い男の子たちに熱い視線を贈られ、リーリートはにこりと微笑んで手を振り返した。だがすぐにバートリに引き寄せられて声や視線は遮られてしまう。


「バートリ?」

「なんでしょうか」

「なんでしょうかって……」

「まぁまぁよくもこんなに盛大に……お嬢様、中は危険ですから、そこでお待ちください」と婦長が振り返った。


背後に立つバートリに押さえられて一歩も動けなかった。羽交い絞めにされているわけでもなく、片手を肩に乗せられているだけだ。バートリは頷くと、外套の前を広げてリーリートの体をすっぽりと囲った。仕方がないので、腰に少し寄りかかった。帯剣している彼の腰は革紐や鋲のついた帯が重ねられていて、馴染みのない不思議な匂いがする。すん、と無意識に鼻を鳴らしてしまい、はしたないと両手で覆うと、バートリの手が頭を一撫でして元に戻った。兄のように何度も往復するものではなくほんの一瞬だったけれど、彼は確かに慰めようとしたのだ。


果実や道具を拾い上げる家政婦長は、惨状の真ん中で失態を悔いる女性の腕を掴み、硝子片が残っていないか服を上下にはたいて確かめる。


「泣くんじゃありませんよ。落ち着きなさい。怪我はしていませんか? 答えられますね?」

「ありません。でもお皿を、申し訳ございません。本当に申し訳ございません…申し訳ございません」

「何をそんなに……あぁ、もしかして貴方…」


一瞬家政婦長がバートリを見た。だがすぐに他の女中を手招きして「まず片づけましょう。ほら、貴方たちもお願いしますよ」と言った。何か無言で通じ合ったものを感じたが、見上げても髭の無い男の首筋が見えるだけだ。彼はいつも通り無表情で室内を注視している。


落下したものの中には夕食の仕込みもあって、いくつか駄目になったようだ。代わりの食材や料理名があがり、謝罪が混じったが、食材は多めに買い付けてあるため今すぐに買い出しに出かける必要もないという結論になった。時間と手間はかかるが対応できるとわかり緊張が和らぐ。


女中たちは件の彼女の腕を小突いて「おっちょこちょいなんだから、今節なんどめかしら」「またお給金から天引きされるわ。あっちで靴磨きでもしてきなさい」「それか残って竈の掃除ね」と、わざと憎らしく茶化した。決壊寸前の暗い顔もパッと笑顔が咲いた。


安堵を伝えるためにバートリの手をぽんぽんと叩いてみると囲いが緩んだ。

「お戻りになりますか?」と訊ねるので「お誘いを受けたもの。これからよ」と返した。

彼はめずらしく不機嫌な空気をまとい、独り言をいった。


「逼塞させられるとは」

(……ひっそく? 知らない言葉だわ)


誰に対する言葉なのかもわからなかった。彼女だろうか。自分だろうか


(もしくは私かしら)


バートリは兄二人より年上で、年齢はお父様とほど近い。使う言葉は古めかしく感じられ、規律を好む性格からして、雑談も避けるので冗談もひとつだって聞いたことはない。書斎に入り浸っているリーリートでさえ、数千回捲った頁の中で「ひっそく」と出逢うことはなかった。彼がそうして知らない言葉を使うたびに、重ねた時間の厚みや豊かさを突きつけられてとても心地よく、愛おしく思っていた。


「バートリ、"ひっそく"ってどういう意味なの?」

彼は真下を覗き込むも、すぐに私に顎を見せた。






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