「兄心」
翌日。
いつもどおり霞祥と彩花とで朝の参拝に向かった茗凛。門前ではやはり珂惟が掃除をしていた。
なんとなく足が鈍る。こちらに気づいた珂惟の手も遅くなる。目が合った。
「おはよ……」
珂惟が言いかけるが、茗凛は「ふんっ!」と横を向き、足早に境内に入った。反射的にそんな反応をしてしまった自分に驚いていると、背後から、「ちょっと茗凛ったら。ごめんなさいね」という霞祥の声が聞こえ、罪悪感でいっぱいになる。
よくよく考えてみたら、あそこまで怒らなくてもよかったのだ。確かに珂惟の冗談なのか本気なのか分からない発言に思い悩んでいたけれど、自分が勝手に悩んでたわけで、それを彼のせいにするのは八つ当たりでしかない。そう思ったのに、もうどうしたらいいのんだか……茗凛はなんだか泣いてしまいたくなった。
ため息混じり観音菩薩に手を合わせる。白檀の香りが満ちる堂内に入ると、いつもなら気持ちが穏やかになるというのに、今日のこの乱れようといったら……心なしか、普段は柔和な観音菩薩の表情に、やや険があるようにみえる。自分の尖った心が現れているのかもしれない。
沈んだ気持ちで本堂を出る。きっとまだ珂惟は門前にいるだろう。いったいどんな顔をしたらいいんだろう……思いながら俯きがちに石段を降りる茗凛の前を行く霞祥が、声を上げた。
「あら、思按さま」
目を上げると、そこにはいつも以上に怖い顔をした兄が立っていた。
「おまえ、最近珂惟と城内を歩き回っているそうだが、本当か?」
キッとまっすぐな目が向けられる。この目に睨まれると、全て見透かされているようで、嘘がつけない。茗凛はおずおずと頷き、
「本当、だけど」
とたんに思按が大きく息を吸い込んだ。怒り出す直前の兆候だ。茗凛は慌てて、
「だって珂惟はこの寺で自由にできないんでしょ? 上座は敦煌観光でもしてろって言ったそうだし。彼はこっちに知り合いもいないし、一座を助けてくれた恩もあるわ。城内を案内するくらいいいじゃない。あんな薄暗いボロ宿にこもってたら病気になっちゃうわ」
「そうですわ。それに、いつも二人で、ということではないですよ。珂惟さんはうちの若い衆とも仲良くして下さってますし、おかみのお気に入りでもあります。昼と夕方の舞台の合間の、ほんの短い時間のことです。思按さまがご心配なさるようなこと、ないと思いますけれど」
霞祥がそっと助け舟を出してくれた。おかげで思按は何かを言おうとしたものの、口をつぐんだ。きっとうまく言い返せないのだろう。兄さんは霞祥姉さんには弱いのだ。
一つ大きく息を吸い、どうにか気を取り直した思按は、
「そういうことなら、分かりました。ただ、口さがないことを言う者もいる。誤解を招くようなことがないよう、きちんと心得ておきなさい。おまえは少々、無邪気が過ぎる」
そう言うと、霞祥に一礼を残し、思按は踵を返した。足早に向かうのは門前である。
珂惟を叱るつもりだ――そう思ったとき、茗凛の足は自然と門へと向いていた。
門前では、参拝者を避けるように寺の壁に寄った二人が立っていた。背筋正しく兄の前で、箒を地に置いた珂惟は、神妙な顔をしている。
「――確かに、上座のなさることは私にも解せないところはある。だからといって、遊び呆けてばかりというのはいかがなものか。次回の試験こそは合格するように、身を正さねばならぬのではないか? 仮にも『大覚寺の双璧』と呼ばれる身なのだろう?」
「大覚寺の双璧――って誰が? 珂惟が?」
思わず声を上げてしまった茗凛を振り返った思按は、
「おまえの出るところではない、さっさと帰るがいい!」
と一喝する。たちまち体が強張るが、この場を逃げ出す気には、どうしてもなれない。茗凛は、追いかけてきた霞祥と彩花を振り返り、
「姉さん、彩花、先に帰っていて。私もう少しお参りしていくから」
「何を言ってるんだおまえは!」
「お参りすることの何が悪いの? じゃあ」
茗凛はバっと身を返し、再び寺に入る。「勝手にしろ」という思按の尖った声には、「ええ、勝手にしますよ」と小さく答えた。「じゃあ私も……」という彩花の声も聞こえたが、後を追ってこないところをみると、霞祥姉さんに止められたのだろう。




