再会 side.鮫島
框矢が、あの青馬衣社長から逃げる為に日本全国を旅する、と俺が全快する前に東京を出て行った事を知った時。
彼は既に数県離れた土地に居た。
あれだけ約束したじゃないか、って歯痒くて仕方なかった。何で破るんだ、って。
でも、影人との電話で……彼らなりに俺を護ろうとしてくれたんだって分かって、怒りに似た感情も日毎治まっていったんだ。
俺にとっては、また俺を巻き込まない様に遠ざけられたんだ、って感じたけれど。
時々、影人を通じて框矢の事を知る事が出来る様になって、任務の合間や休日は隼便が来るのが待ち遠しくなった。
先日三重を通過したとか、今は徳島に居るようです、とか。短いながらも彼が無事なんだって分かってホッとした。
香川の時にはうどんが美味い、と言っていたと付け加えられていた時には思わず笑ってしまった。
ところが、彼が東京を発って一年が経とうした頃、社長がまた框矢を狙っているらしいと、長官から告げられた。
しかも追手まで掛けた、と。
水面下で影人や長官と情報のやり取りをしてるうち、あの男……ロケットランチャーまで持ち出して来た。
慌てて影人にその事を伝えたら、翌日に返事が帰って来たんだ。
“必ず框矢は助けます。この件は、俺に一任して下さい”
その後、彼の相棒が俺の元に来る事は無くて……框矢の安否も知る事が出来ないまま、半年以上経ってしまった。
7月下旬。漸く届いた影人からの便りには、間一髪助けました、と書かれていた。
「そうか、無事だったか。それは何よりだな」
「ええ。案の定、あの男はロケットランチャーで特殊弾を撃った様です。眼をやられ、捕まる寸前で彼の友人が間に合った、と書かれていました」
公務の合間に、框矢の事を長官に報告すれば穏やかな笑みが返って来る。
「それで、彼の負傷した眼に関しては書かれて無かったのかね?」
それは俺も気になっていたんだ。だけど容体については何も書かれてはいなかった。
「いえ、何も書かれていませんでした。次の機会に彼に聞いてみます」
「そうしてくれたまえ。私も気になるところだからな」
「畏まりました」
そう、長官には言ったものの。
俺と影人を結ぶ繋がりは、彼の相棒のあの隼だけ。
彼が俺の元に来てくれなければ、俺には框矢の容体を聞く術が無い。
「どうしたら良いんだ……?」
この腕輪を受け取ったあの駅が、恐らく彼らの根城に一番近いんだろう。
でも俺は、正確な根城の位置は知らない。それにもし探そうとすれば、今後一切の連絡手段を失う事になりかねない。
それだけは避けたいんだ。
それからひと月が経とうとしていても、影人から連絡は無かった。
もしかして、框矢に何かあったんじゃ……。
だけどそんな俺の心配は、杞憂に終わったんだ。
いつものように、休憩で建物の屋上へと上がった。あの隼が来たらすぐわかるように、って。
けれど扉を開けた瞬間、買った弁当を床に落とした事も忘れて屋上の柵に近寄った。
そこには、影人の隼が停まっていたんだから。
「お前……!待ってたんだぞ、ひと月も来ないで……っ」
俺の声には知らん振りの彼は、手紙を銀筒から抜くと舞い上がった。
そうして、俺の頭上を一つ輪を描いてあっという間に去ってしまったんだ。
“すいません、框矢の眼の事をお伝えするのをすっかり忘れてました。助けてから二日経った頃には、眼も体調も全快したんです。
框矢は今、中国香港に行っています。彼の事ですから怪我一つ無く帰って来ると思います。ご心配無く。
彼が帰って来たら、またご連絡します”
ふーん、全快して中国に行ってるのか。
框矢が無事だと分かって、手紙を上着の内ポケットにしまおうとして、ハッとして手紙を再度広げた。
もう一度じっくり読んだ中にあったのは、隣の国、中国香港の文字。
…………。
ちょっと待て、中国の香港だって?!
しかも“怪我一つ無く帰って来ると思います”ってどういう事だ?!
何で香港に……?!
また危ない事をしているんじゃないか、と不安になる一方で、また俺を巻き込まない様に、後から知らせてるんじゃないのかと、苛立ちも芽生えた。
おかげで、美味いはずの弁当の味が分からなかったんだ。
「……框矢の奴、どうしてやろうか」
弁当にがっつきつつ、彼に繋がっているだろう空を見上げる。
約束を破ったかと思えば、あの男に追われ、間一髪助かったのに今度は香港だと?
一体何してんだよ、あいつ。
きっと、文句を呟きながら弁当を食ってる俺は、傍目からは変に映るに違いない。
でも呟かずにはいられなかったんだ。直接、框矢を助けに行けなかった歯痒さを消す為には、こうするしか。
***************
「では行って参ります」
「うむ。一体何があったのか、この一年余りをどう過ごしていたのか、具に聞いて来てくれたまえ。鮫島君」
長官の言葉に一つ頷くと、彼から離れてある場所へと向かう。
その日一日の任務が無くなった俺は、久しぶりに会える事になった框矢達との待ち合わせ場所へと、車を走らせた。
初めて影人と会い、この国の隠された史実を聞いたあのカフェに。
少し離れた駐車場からカフェへと歩いて行けば、店の近くに背の高い、男女の二人組が立っていた。
「……影人、か?」
思わずそう漏らせば、彼女は艶かしい笑みを浮かべる。
「ご名答。お久しぶりです、鮫島さん」
初対面の時も女装していたけど、あの頃よりも腕を上げたのは一目瞭然。
相変わらずパンツスタイル。けれど女物を着こなし、艶やかな黒髪の格好の彼は、どこからどう見ても女にしか見えない。
所謂クール系、という奴なんだろう。
「やっぱり鮫島さんには見破られたかぁ」
そんな事を言いながらも、くるっとターンし、似合います?と愉しそうに俺を見て来る影人。
「お前……嫌々で着替えてたんじゃないのかよ」
呆れた口調で聞こえたその声に、ドキリとして、影人の隣に居た男に目を向ける。
懐かしい、でも以前よりも低く大人びた声の主は、紛れも無く框矢だったんだ。
「框矢、だよな?」
久しぶりに見る彼は、声だけで無く、顔つきも大人びて深みを帯びていた。
「はい。お久しぶりです」
穏やかな笑みを見せた彼は、俺とはもう数cmしか違わない。
……前は、俺を見上げるくらいだったのにな。
けれど。しみじみとした感情が去った瞬間、俺は框矢の首を抱えて、拳を側頭部に押し付けていた。
「痛い痛い痛い!いきなり何するんですかッ」
「お前、こっちがどれだけ心配したと思ってるんだ!!連絡は断とうとするわ、またあいつに追い掛けられてるわ、おまけに眼を負傷するしっ」
「あいつは俺のせいじゃ……!」
「煩い!俺がどんなに歯痒い思いをしたか知らないだろ!」
痛いと呻く彼に構わず、グリグリと拳を回す。
「鮫島さん痛いって!!影人!お前笑ってないで助けろよ……っ」
バシバシと俺の腕を叩きつつ、そう訴える框矢を、影人は愉しそうに眺めていた。
「鮫島さん、そろそろ框矢を放してやって下さい。じゃないと本当に倒れちゃいますよ」
少しして耳に届いた苦笑混じりの言葉に、渋々框矢を解放した。
本音を言えば、これくらいじゃ全然足りないくらいだ。
「框矢は鮫島さんだけには絶対、能力は使わないって決めてるみたいですから」
「え?」
唐突に聞こえた影人の言葉に、彼を見ると、彼は框矢をちらっと見てフッと笑った。
「今の框矢は、鮫島さんを一瞬で倒してしまいますよ。嘘でも、例え冗談でも倒したく無いから、あなたに対しては一切の力を抜いてるんです」
「……」
框矢は何も言わない。だけどその表情が、その通りです、と告げていた。
「だからあなたに弄られていても、何もしなかったでしょう?能力の十分の一でも出せば、一瞬であなたを地面にねじ伏せられるのに」
ふぅ、と一息吐くと楽しそうに笑い、場所を移動しますので付いて来て下さい、と歩き出した。
框矢も俺に手招きして、影人と一緒に歩み出す。
俺は、二人を慌てて追っていったんだ。どこに行くのか、さっぱりわからないまま。
くねくねと何度も角を曲がり、いつしか方向感覚も失いかけた頃に辿り着いたのは、郊外の古いビル。
「こちらです」
短く俺に告げて階段を上がると、二階の部屋のドアを開けた。
「ようこそ、俺達の根城へ」
高い位置に唯一付けられた、横長の窓からの光で部屋の全貌を眺める。
テーブルやソファ、古い冷蔵庫やカセットコンロ。壁側の止まり木にはあの、隼が俺を見ていた。
何より一番目が行くのは、キーボード一つに対して画面が三台のパソコン。
ここが、影人と框矢が住んでる根城。
勧められたソファに腰を下ろせば、インスタントコーヒーが出て来た。
「……何も言わないんですね。聞きたい事があるんじゃないんですか?」
影人の声にハッとして、二人を見つめる。向かい側に座る影人達は、腹を括ったかのように静かで。
バサッと羽音と共に隼が窓から出て行っても、振り向きもしない。
「あの男に捕まる寸前で、框矢を助けたんだって言ってたよな?どうやって助けたんだ?」
そう尋ねると、彼らは顔を見合わせて一つ頷いた。
「先ずその話をする前に、俺の仕事の事を話さなきゃいけません。以前、あのカフェで話した俺の仕事。覚えていますか?」
「確か便利屋だったな。頼まれた事を代理でこなす仕事だったはずだが」
「そうです。ですがそれは表の仕事。俺はもう一つ、裏の仕事の顔も持っているんですよ」
裏の、仕事?
「それは、どういう……?」
「情報屋です」
今まで柔和な表情だった影人の眼が、一転、冷徹なものへと変わる。
框矢の殺伐のした武人の気配とは違う、けれど冷やかな仕事人の眼を。
「……本当はバラしたく無かったんですけどね」
「仕方無いだろうしな」
二人して呟き、影人は脚を組むと俺を見てくる。
「裏の仕事ですから、その顧客も当然裏の人物が大半です。海外勢の面子もたまに来ますよ。所謂マフィアであったり、やくざだったり」
薄い笑みを浮かべ、何故か……嗤うなら嗤え、と言っている様にも見えたんだ。
「様々な情報を手に入れ、中立の立場で欲しがる顧客に売り、または買う。その際、必ず誓わせる事があります」
影人の拠点とするこの根城も、彼の性別、身長、特徴……彼の一切を詮索しない、そして漏らさない事。
それさえ守れば、また依頼を受けると言う。
「漏らした組織は今の所、存在しません。だから顧客から俺の事が漏れる事は無いはずです」
「存在しない、じゃねえだろ。お前が殲滅に追い込んだんだろうが」
「……え?」
殲滅に、追いやった?誓いを破った顧客を?
框矢が呆れた風に溜息を吐き、そう言うと、影人が言うなよっ、と彼の肩を叩く。
「そこは和えて伏せておいたのに……」
あーもー、何でバラすかな……と頭を掻き、顔を手で覆う影人。その様子を尻目に、框矢が徐に口を開いた。
「影人の一切を詮索しない、漏らさない。更に顧客は素性を明かす……依頼者には不利な条件ですが、情報を求めて来る客が途絶える事は無いんです。こいつの腕が一流だから。
昔、影人を甘く見て、漏らした奴が居たそうです。けれど……そいつが所属する組織を、影人はその敵対組織に有利な情報を渡し、殲滅させてしまいました。更には影人の事を知った関係者も」
「!!」
不意に、一瞬だけど……目の前の二人が恐ろしくなったんだ。
もしかしたら、影人と框矢はとんでもない事に首を突っ込んでいるんじゃないか。それでいて平然と笑っているのは、裏側に染まってしまっているからなんじゃないか、って。
「……その、情報の入手方法は?」
「それは企業秘密ですね。いくら鮫島さんでも、こればかりは言えません」
クスリ、と意味深長な笑みと共に、影人は人差し指を自身の唇に当てる。
「あのカフェでお話しした時、鮫島さんは首を傾げてましたよね。便利屋だけで、生活出来るものなのか、と。
正直、金には困って無いんですよ。情報屋の稼ぎがでかいので。勿論、大事になる様な方法はとってませんので安心して下さい」
「だが……」
「鮫島さん」
俺の言葉を遮る様に、口を開いたのは框矢。
「以前にも言いましたが、俺達は警察の庇護が無くても生きていけます。それは、言い方を変えれば庇護があっては生きにくいと言う事でもあるんです」
「?」
それは……どういう意味だ?普通は警察の庇護があった方が良いに決まってるのに。
「俺はあいつに追われ、影人は情報屋をしている。どちらも、見方によっては警察に目をつけられる可能性が高いんですよ。
そんな事になれば、俺達は日本から逃げなくてはいけなくなる。……察して下さい」
察して下さい、と言われても。
だけど、頭が漸く彼らの話に追い付いて来ると、言いたい事が分かって来る。
「それは……、二度と俺とは会わないと、言う事か」
「会わない、では無く会えないんです。どこから足が付くとも限りませんから。あなたはもうあの組織の人間では無いけれど、気の弛みが命取りになりかねない」
小さく息を吐くと、俺を見据える様に見る框矢。
「俺達は、決して裏に染まった訳じゃ無い。ただ、自分の出来る事で生計を立てた結果、影人は情報屋、俺はSPを辞めて今の状態になっているだけです」
「……」
何も、言えなかった。嗤うなんて事、欠片も出来なかったんだ。
俺や他の同世代の奴よりも、影人達は大人で、ずっと先の先を見て今を生きているんだ、って分かったから。
不意に、さて、と影人の明るい声に現実に引き戻された。
「框矢を助けた方法が知りたいんでしたよね?
……実は、ある男の力を借りました。あなたは驚くかもしれませんが、彼の助力でヘリで框矢を助けに行ったんです」
一体誰だ?
しかもヘリで助けに行った……?
「框矢の各県を跨ぐ速度、追手の進む速度。そして彼が俺を乗せる為に、ヘリを連れて来る日数を計算し、助けに行ける当日に、框矢がどの辺りを通るのかを予測したんです。
そして、框矢を助けたのが北海道十勝の広大な草原。ま、運が良かったんです。一発で框矢を見つけられたし」
「それで、その助力した男って誰だ?」
「俺の、裏の顧客の一人です」
何だって?!
……それは、裏の組織の人間に助力を頼んだと言う事か?
影人からそんな衝撃的な話を聞いた直後、窓から帰って来たのは、彼の相棒の隼だった。
「あぁ、ありがとう。ラプター」
隼の頭を撫でて手紙を銀筒から取ると、影人はそれを読んで框矢に渡す。
「あー……良いのか?この今のタイミングで」
「良いんじゃねえの?もう警察じゃないんだし」
二人して手紙に目を落とし、そんな事を交わすのを、俺はただ見てるしかなくて。
チラッと俺を見た框矢の仕草に、更に心の波が揺れる。
「……まあ、向こうの返事次第、ってところか」
「そうだな」
頷き合い、返事を書いたかと思うと、隼に持たせてしまった。
「俺が警察じゃなくなったのが、何かあるのか」
「今返した手紙の相手は、さっきお伝えした助力を頼んだ男なんです。時々、框矢と手合わせしたいと言って来るんですよ。中々都合が付かなくて、手合わせ出来てないんですけど。
彼が良いと言えば、彼の事を教える事が出来るのですが……返事待ちですね」
「……」
もしかして、俺には教えるつもりが無いのか?なんて事も頭を過ったけど、今はただ、その男からの返事を待つしか出来なかったんだ。
影人達と談笑する気分でも無く、静かな時間だけが過ぎて行く。
框矢と言えば、ソファに横になって寝息を立ててるくらいで。
影人も背もたれに寄り掛かってうつらうつらしていた。そんな二人を見ていたら、俺まで何だか眠くなって来て、いつの間にか寝てしまっていたんだ。
「……うです。はい、お願いします」
うとうとと微睡みの中で、誰かが電話をしているのが聞こえた。
「すみません、無理を聞いて頂いて。では明後日の晩には、必ず戻れる様にしますので……」
一体何を、誰と喋ってるんだ……?
ぼんやり框矢の声だとは分かったが、それでも一体何を誰と会話してるのか、までは分からなくて。
だけど框矢の最後の言葉に一気に目が覚めたんだ。
「はい。ありがとうございます、長官」
長官?!
バッと起きると、通話を切った彼と目が合った。
「あぁ。起きたんですか、鮫島さん。おはようございます、良く寝てましたね」
「今何時だ?!」
帰らないといけないのに……!
明日も仕事なのに、と慌てて立ち上がる俺に、大丈夫ですよ、と影人が抑えたんだ。
「今、框矢が長官に連絡して、明後日まで時間を頂きましたから」
「え、?」
時間を、貰った?
「今は20時を過ぎたところです。昼間、助力を求めた男に手紙を出したのは覚えてますよね?その返事がさっき来たんですよ」
影人が、ポケットから取り出した紙を顔の横で示す。
「俺達が信頼する奴なら構わない、だそうです。もう暫くしたら到着するそうなので、その間に晩飯でもどうですか?」
頭が追い付いていない俺を他所に、バッテリーに繋いだ炊飯器の中を確認し、コンロにフライパンを乗せる影人。
手際良く炒め物を作っていく様子を、框矢は彼のそばのソファに座って眺めて居た。
その表情は凄く穏やかで。時々フライパンからつまみ食いしては、影人からの文句に楽しそうに言葉を返していた。
それは二人の間には、確固たる信頼、友情が存在するんだと良く分かるものだったんだ。
そうして、どうぞ、と差し出された炒め物と飯に、箸をつける。
「美味……」
「当たり前です。影人の飯が不味い訳が無いでしょう」
その美味さに目を丸くすれば、当然です、と框矢が一言。
「お前が言うなよ。作ったの俺だぞ?」
呆れた様に言う影人の言葉に、ニヤッと笑うと二人して晩飯にがっついた。
そうして数十分経ったか、と言う頃。
コンコン、とドアがノックされ、俺はビビって湯呑を落としそうになった。
「あ、来たのか」
「そうみたいだな。……周价、どうぞ入って来て下さい」
影人の声に徐にドアが開いたと思うと、そこには黒スーツの短髪の男と、その部下らしいスキンヘッドの男が立っていた。
框矢は部下の方に視線を投げると、小さく溜息を吐く。
「なんだ……お前か」
『何だとは何だ、それはこっちの台詞だ』
框矢が彼を見て漏らした呟きに、部下が英語で応える。
そんな短いやり取りに、周价と呼ばれた男が苦笑した。
『お前がついて来たいと言ったんだろうが。何でそう、喧嘩腰になりかけてるんだ?』
『あ、いえ……』
その時、不意に吹き出した笑い声が聞こえてきて、その主に目を向けると、影人が愉しそうに笑っていたんだ。
「部下の方、まだ框矢にねじ伏せられた事を根に持ってるんですか?」
『根に持ってる訳じゃ無いが……』
何処か不満げな部下を他所に、影人と框矢はソファから立つとどうぞ、と席を勧めた。
そもそも何で、英語と日本語で会話が成り立つんだろうか。
英語なら英語で、日本語なら日本語で話せば良いのに。
「鮫島さん」
不意に呼ばれて、影人に顔を向ける。
「彼が框矢を助ける為に助力してくれた、周价です。香港マフィア黒白龍の幹部で、No.2の地位にあります。黒白龍幹部内で一番明敏な人です。日本語も堪能ですから、日本語で話しても大丈夫ですよ」
やっぱり、裏組織の人間だったのか。
恐らくそうだろう、と違っていて欲しい、と言う相反する思い。
まさか、裏側の人間と知り合いになろうとは思わなかった。
「彼の組織はヘリを所有してるので、框矢を助ける為に借りたんです。俺はパイロット免許を持ってないので、周价と彼の免許を持つ部下にも同行してもらいました」
「鮫島武司と言う名前だそうだな。……框矢から数少ない、全幅の信頼を置ける人物だと聞いている」
俺が、全幅の信頼を置ける人間?
「……本当の事を言っただけです。俺が信頼、そして信用してるのは、恩師と影人、周价、長官、そしてあなただけですから」
框矢の静かな声に、彼を見れば穏やかな微笑を浮かべていた。
「助力を依頼した代わりに、彼らが俺に新たに持って来る依頼を三件、無償で受けました。それから框矢の力を借りたいという事で、框矢は黒白龍の本拠地へ行っていたんです」
「!」
それで、手紙に香港に居る、と書いてあったのか。
漸く合点がいった。けれど、一体何の為に本拠地へ?
その後、四川の彼らとはどうなりました?と影人が明るく尋ね、それに答える周价をぼんやり見ながら、新たな疑問に首を捻る。
「框矢がなぜ俺達の本拠地に行ったのか、気になるか?」
周价の声に彼を見れば、俺を見ていてドキッとした。
気になる、と答えれば、徐に一つ頷いた彼。
「俺達は裏組織だ。だから当然、他の組織と抗争することもある。……以前、影人に白燕という組織について依頼し、俺達はその買った情報を元に、奴らを殲滅一歩手前まで追い込んだ。
その残党が勢力を回復し、俺達に復讐しようと、こちらも向こうも総勢一万を超える抗争を仕掛けて来たんだ。框矢には、抗争に手を貸して貰ったのさ」
バッと框矢を見れば、僅かに首肯する。
「それは……、框矢が瀧宗で戦ったと、言うことか」
あの時。
奥路地の開けた空地で、あの男の部下に撃たれ……あの時見た框矢は、人が変わった様に恐ろしかった。
もう二度と、あんな風に能力を使わせたく無いと思っていたのに。
「抗争に手を借りたという事は、それ以外の意味は持たない。おかげで黒白龍が勝つ事が出来た」
「……」
「白燕の半数以上が、框矢が倒した者。……俺は彼が抜刀する所も、白燕の後方へ移動する瞬間も、瀧宗を振るっている時すらも眼で捉える事は出来なかった。
姿を捉えられたのは白燕の勢力全てが倒れた後だし、最後に残った白燕幹部が放った一発も、框矢は瀧宗で防いでしまった」
周价が、淡々と言葉を次いでいくのを聞きながら、框矢の戦闘能力があの時よりも数段以上、跳ね上がったのだと感じた。
「……鮫島さん」
周价の言葉が途切れ、代わりに聞こえて来た框矢の声。顔を上げると、さっきと同じ、穏やかな微笑の彼が俺を見ていた。
「自分を責める事だけはしないで下さい。確かに、俺が表で能力を使うきっかけになったのはあなたですが、俺はこれで良かったと思ってるんです。
いつまでも隠し通せるものでも無かったし、そもそもはあの男とFARMが悪いんですから。俺は今を楽しんで生きてます。それで良いじゃないですか」
「だけど……」
本当にそう思ってるんだろうか。
俺に気を使って言ってるんじゃないか、そんな考えがどうしても抜けなくて。
「嘘じゃありません。それにあなたと同じ様に、俺の能力を見ながらも興味を持って避けないで居てくれてるんですよ、周价は。
鮫島さんは表の人間だから難しいけど、彼は裏の人間だから時折相手になる事も出来ます。俺の身体の怠け防止にもなるでしょう」
黒白龍の面子には恐れられてしまいましたけどね、と笑う框矢は、随分と人間味を帯びた気がした。
「出会った頃よりも、だいぶ人間らしい感情表現をするようになったんですよ。それって、凄い進歩だと思いませんか?鮫島さん」
影人の言葉に、今度は彼に顔を向ける。
「出会った当初、こいつは能面かってくらいに無表情で、他人と殆ど関わりを持とうとしなかった。笑うどころか、微かな笑みでさえレア物だったんですよ?それが笑う事も増えたし、死ぬ事を怖いと言うまでになった」
「死ぬ事が、怖い?」
それは人として、持っていて当たり前の感情なのに。……影人は何を言おうとしてるんだろうか。
「俺は、今まで死ぬ事に抵抗はありませんでした。FARMでは毎日、必ず誰かが目の前で死んでましたから。
俺にとって、死はとても身近なものだったんです」
「……!」
「明日死ぬのは俺かもしれない、もしかしたら気の合ったあいつかもしれない。ずっとそう怯えながら生きてたんです。その原因は全て、FARMの大人。だから幾ら良くされても、大人を信用出来ませんでした」
顔から微笑が消え、そばに来た隼を撫でながら淡々と話す框矢。
「特別嬉しい事、楽しい事があるわけでも無いこの世界に、別段生きる意味なんてないと思ってたんですよ。こんな能力持たされて、学歴があるわけでも無いし」
スッと目を細め、隼を撫でるのを止めると、止まり木へ移った彼を眺める。
「今でも、腕一本を身代わりに攻撃を防ぐ事に躊躇いはありません。高層ビルから飛び降りる事も、特に怖いとは思いません。が、自分の周りの人間が死ぬ事には怖いと思う様になりました」
そう思わせたのは鮫島さん、あなたなんですよ、と俺に目線を移す。
「あの時、奥路地の空地であなたが重症を負い、この部屋に運ぶ間。床を蹴る度、意識不明のあなたの頭が不安定に揺れるのが凄く恐ろしかったんです。
自分の所為で死ぬんじゃ無いか、って事が頭を掠めて」
腕一本、犠牲にする事も躊躇わない?
「自分の身体なんだから大事にしろよ……」
「正直今更、って気がするんですけどね。あれだけ実験台として弄られたんですから。それに脚には気を付けてますよ?」
思わず漏れた言葉に、あっけらかんと言う。俺が言いたいのは、そういう事じゃないのに。
框矢はたかが腕一本、と言うが、斬られ、千切れた腕は二度と元通りにはならない。他人の腕をくっ付ける訳にはいかないし、例えくっ付いた所でその腕を自分のものとするには、相当な月日が掛かる。
上手くいかなければ、腐ってしまう事だってある。
「そんな辛そうな顔、しないで下さい。……出来るだけ、そうはならない様に気を付けますから」
いつの間にかすぐそばに立ち、俺の顔を覗き込んだ框矢が苦笑した。
それから二時間程、俺は周价達と共にこの一年半余り、框矢が全国でどんな過ごし方をして来たのかを聞いたんだ。
各都道府県の名産品を食べた感想だったり、その土地の暮らし方だったり風景だったり。
暮らしやすいのは九州地方だとか、海産物なら北陸と函館辺りが良かったとか。
東北、北海道の豪雪には参ったと、でもそれでも傍目からも楽しそうに話を紡いでいく彼を見て、俺も嬉しかったんだ。
「……そろそろ行きますか」
「そうだな。今の時間なら、早朝までには着くだろう」
影人と周价の会話に、框矢が俺に顔を向けて来た。
「鮫島さんも来たら良いと思います。以前言ってましたよね?俺の全力が知りたい、って。
全力になるかは分かりませんが、まともな状態で、俺の戦闘を見た事は無いでしょう?あの時は撃たれて、意識朦朧としてましたし」
そんな前の話を憶えていたのか、框矢は。少なくても二年は前の話なのに。
「そうだな、見てみたい。
出来れば姿が捉えられる程度の素早さで、動いてくれるとあり難いんだけどな」
「それ、既に手加減してるスピードじゃないですか」
ふっと笑うと、俺を連れて屋上へ向かう。
そこにはヘリが停まっていて、月も無い闇の中を中国へと、俺達を運んで行った。




