依頼 二
「起きろ、瀧宗」
そんな声が耳に届いた刹那。彼はその場から消えた。
駆け出したのでは無く、まるで瞬間移動したかの様に唐突に消えたんだ。
『ど、何処へ……?!』
慌てて戦局に目を向ける。部下達が戦っている所より、更に奥に。
『……!!』
見た瞬間、全身粟立った。
框矢の姿は全く見えない。
なのに白燕の後方勢力の面子が、柔らかい物を斬っているかの様に吐血し、あちこちから血を噴き出し倒れて行く。
それはまるで、目に見えない何かに蹂躙されてるかの様に見えたんだ。
恐ろしい速さで減っていく敵の数。
俺が言った通り、白燕の幹部二人は生きている。
だけど……彼らでさえ、何が起きているのか分からずに茫然としていた。
そして、後方勢力が全滅し、更には部下達が戦っている最中の敵すらも、唐突に吐血し倒れた後。
俺は、漸く框矢の姿を捉える事が出来たんだ。
生きている部下達も、一体何が起きたのか分からない様子で顔を見合わせている。
地面や草、死体にこびり付いた大量の血痕。味方と白燕の無数の死体。
鼻に付く程に血の、鉄臭さが強い中で、框矢は死体を跨ぎ平然と立っていた。
辺り一面、血と死体の海。
その中を、息一つ乱れていない彼は、俺の元へと足を向けて来たんだ。
一歩近付いて来る度に、框矢の姿が明確になって来る。
全身に返り血を浴び、鋒から血が滴り落ちる程に血塗れの、瀧宗を右手に携えた姿。
その眼は情が微塵も感じない程に冷えていて、とても同じ人間の眼とは思えなかった。
「これで良いか」
その声に正気に戻ったが、戻った途端悪寒に似た震えが襲って来た。
「框矢……お前、今、何……した?」
「周价、お前の指示に従っただけだけど?」
いつの間にか、框矢はあの非情な眼では無くなっていて、いつもの物静かな表情に戻っていた。
「俺の役目は終わった。あの幹部をどうするのかは知らないが、俺は影人の所へ帰らせて貰いたいね」
瀧宗もいつの間にか納刀状態。
全く、見えなかった。
瀧宗を抜刀した瞬間も、彼の動きも、瀧宗を振るっている最中も。
「お前は……人間、か?俺達と同じ、人なのか……?」
人で無ければ、一体何なのか。
だが例え人間で無いにしろ、彼に助力を求めたのは他ならぬ俺。
呟く様に声を押し出した、刹那。框矢の目がスッと細く鋭くなった。
「その問いには答えない。交わしたはずだ。俺の一切を詮索しないと」
確かにそうだ。一切を詮索しない、漏らさないと交わした。
だが……余りに人間離れし過ぎている。その体躯に比例しない身体能力、戦闘能力は。
「何も言うな、少なくともこの場所では」
言葉少なに俺に釘を刺し、背を向ける。
その時だった。白燕の李庚が、拳銃を彼に向けたのは。
『よくも、俺の仲間を殺ってくれたなッ!!!』
言うや否や、発砲。と同時に金属音が響いた。
その一瞬の出来事に框矢に知らせる事も出来ず、俺は彼が怪我を負ったと思ったんだ。
恐る恐る彼に目を向ける間にも、ィィィン……と細く金属音が聞こえていた。
『……っ!』
けれど目を向けた先、そこには変わらず平然と立つ框矢が居た。
鋭い威嚇の眼を、抜刀した瀧宗を李庚に向けて。
何故、
何故撃たれて平然と立ってるんだ?!
驚きと怖ろしさで声さえ出ない。
カラカラの喉で、何とか框矢に声を掛けようとして、ふと彼の足元に光る物を見つけたんだ。
……それは二等分された、銃弾、だった。
まさか。
まさか、瀧宗で銃弾を防いだのか……?
そんな馬鹿な、と混乱する頭を何とか鎮めようとする俺に、框矢が顔を向けて来た。
「殺しはしない。動けなくだけさせて良いか」
それは李庚達、白煙の幹部を指して言った言葉。
声が出ず、ただ首肯すれば、またその場から消えた框矢。
直後、二種類の呻きが耳に届いたんだ。そして、次の瞬間には俺のそばに、二人を抱えた彼が立って居た。
***************
香港の本拠地に帰って来た俺達。誰も口を聞かず、その日は李庚達を縛り上げて、皆早々に寝てしまった。
無理も無い。框矢の高過ぎる戦闘能力を見てしまったのだから。
俺ですら、平常心を取り戻すのに、本拠地に戻ってから数時間も掛かった。
「……」
「……」
そして今、俺は框矢の部屋を訪れていた。
表情……眉一つ動かさず、ベッドの上で壁に寄りかかる彼。お互いに何も話さない。
と言うよりは、何から話せば良いのか分からないのが正直な所。
「周价。……何しに来た」
十分程して聞こえた、框矢の低い声。俺は寝たいんだけど?と欠伸混じりに告げ、腕組みをして俺を見てくる。
「……影人は親友なんだってな。お前の身体能力、戦闘能力を知って、それでも親友なのか?」
「何が言いたい」
一段低くなる声音に、背筋に震えが走った。明らかに苛立ちと、威圧感が増したから。
「普通の人間なら、お前の実力を知った時……先ず避けるだろう。人では無い、自分達とは別次元の存在が居る、と。
影人は確かに情報屋として様々な情報を把握し、それなりに物事を受け容れる精神や度胸もあるだろうが、そういう事は無かったのか?」
静かに、だが鋭く感じる威圧に耐えながら口を開けば、威圧の鋭さが和らいだ。
「影人はそういう事は無かったな。あいつの相棒を助けたせいもあるんだろ。
だからこそ信頼が置ける」
「それから……白燕と対峙する直前、お前、“リミッターを外す”と言ったな。どういう意味だ?」
「詮索は無しだと言ったはずだが?」
俺の問いには答えず、そう言葉を返して来る。どうやら答える気は無いらしい。
「俺の内だけに留めておく。腹心の部下にも、勿論トップにも一切話さないと誓っても良い」
気付いたらそう口に出していた。
詮索も、漏らす事もしないと交わしたものの、やはりどうあがいても知りたくて堪らなくなるんだ。
もし、彼程の実力を持った者が一人でも組織内に居たなら。
きっと、無敵を誇るだろうから。
「……」
暫く俺を眺め、探る様な眼をしていた框矢。不意に宙を仰ぐと、盛大な溜息を漏らした。
「容易に引き受けるべきじゃ無かったな……」
しくじったな、と後頭部を掻きながら、暫く黙り込んで俯いていた彼。眠そうにしながらも、何か考えている様にも見える。
こっちは聞くまで粘ってやるからな!
“リミッターを外す”の意味が気になって気になって、逆に目が醒めてしまうんだ。
「諦めてはくれないか。
悪いが俺は、これ以上自分の過去を知る奴を増やしたく無いのでね」
それに、と欠伸を噛み殺すと、俺を見てくる。
「知った所でお前に何のメリットがある?俺が抗争に手を貸すのはこの一回のみなんだぞ」
確かにメリットは特に無い。知った事で框矢の弱味を握れるのかと言えば、多分そうはならない。
弱味になると判断すれば、彼自身のあの戦闘能力で、俺達なんてあっと言う間に殲滅されてしまうだろう。
「確かにメリットは無いだろうな。…….俺はただ、あの戦闘能力、身体能力の高さの理由が知りたいだけだ」
「……諦めてくれよ」
「嫌だね。聞けるまで粘るからな」
ガキかよ、と呆れの溜息と共に伸びをする。
それから一時間。部屋を去らない俺に、框矢はとうとう折れてくれたんだ。
「……分かったよ、簡単にだけ話してやる。だけど一言でも他人に話してみろ、その時は黒白龍の最期だと思え」
まるで脅迫。それでも知りたい気持ちが勝り、頷くと、彼は緩慢に口を開いた。
「俺は15歳まで実験台だったんだよ。物心ついた時には既にそうだった。
数日置きにワクチンを打たれ、お陰でこんな身体能力を持たされた」
「?!」
実験台……?!それは、人間で生体実験をしていた、と言う事か?
「それは……、日本では違法なんじゃ無いのか」
「違法さ。完全にな」
框矢は、当たり前の事を聞くなよ、と頭の後ろで手を組み、俺を見据えてくる。
「死んだ奴も数え切れない程居たさ。生き延びた奴を数えた方が早い。同じ実験台にされてた仲間が苦しみ、悶え死んで行くのを、ずっと目の前で見て来たんだ。
俺は運が良かっただけ。たまたま生き延び、理解ある人に巡り会い、今ここに存在している。それだけだ」
俺から目を逸らし、宙を眺めて緩慢に言葉を紡ぐ。
「俺みたいな奴は、日本じゃ“マガイモノ”と言うんだとさ。お陰で仕事も辞めなきゃいけなくなった。
出来るもんなら普通の人間として生きたかったが、今となっちゃ、それも難しいだろうな」
ぽつりと至極つまらなそうに漏らすと、盛大に欠伸をする。
「……お前を実験台にしてた奴らは?」
「死んだよ。警察の秘密組織に殲滅された」
あいつらが殲滅されたからと言って、恨みが晴れたわけじゃ無いけど、と尚も漏らす。
「もう良いか?俺は眠いんだ」
そう言ったかと思うと、ベッドに横たわり、直後に聞こえたのは静かな寝息。
「おい、ちょっと待て!まだ聞きたい事があるんだぞ……っ」
幾ら何でも寝付くの早過ぎだろ!
慌てて彼を揺さぶるが、その後何度揺さぶっても起きる事は無かった。
マガイモノって何なのか、瀧宗に掛けた“起きろ”って言葉の意味を聞きたかったのに。
それに、俺と一度手合わせして貰いたいと思ってたんだ。きっと框矢には敵わないだろうが、自分の実力を知る事は出来るはずだから。
だけど結局、瀧宗やマガイモノの意味を聞く事も、俺と手合わせして欲しいという願いも何一つ叶うことはなく、框矢は日本へと帰って行った。
余りの彼の戦闘能力の……いや、身体能力の高さに、他の幹部も部下も、更には琳嬰中も恐怖が勝ってしまったからだ。
トップにまで早く日本に帰って貰え、と言われては従わない訳にはいかなかった。
「悪いな。抗争の勝利の立役者なのに、特に何もしてやれなくて」
「気にはしてない。……いつもの事だし。お前みたいな俺に興味を示す方が珍しいくらいだ」
物静かな表情を崩さず、淡々と返して来る。
「黒白龍の代表としてでは無く、一個人としてでのお前なら、手合わせしても良い」
「え、?」
俺は一言も手合わせして貰いたいとは言ってないのに。框矢は、気付いてたのか……?
「何だ、違うのか?俺と手合わせしたかったのかと感じたけど。違うならそれはそれで、まあ良いさ」
彼と影人の根城のビルの屋上で、俺と話す彼の顔に、フッと小さな笑みが浮かんだ。
「最後に一つ。お前、両利きだろ」
「?!」
な、何故知ってるんだ?!
「右利きそうに見えたけど、本当は左の方が使い易い。右はそれなりに素早く敵に反応して撃てるけど、左右に照準が毎回ズレてる。違うか?」
違わなくは無い。確かに、框矢が言った通りなんだ。
練習場でも、実際の抗争でも。拳銃を扱うのはいつも右手。
左の方が正確に照準が合わせれるけど、撃つ速度は右が早い。
抗争なんかの時は、照準よりも速度を重視するから左では撃たないんだ。
「折角良い腕してるのに、もったいない。左に重点を置いて鍛えたらもっと良くなると思うけどね、俺は」
腕組みした框矢の、どこか愉しむような響きを伴った声音が耳に届く。
「それは、両手使いになれと?」
そう返せば、ああ、そう言う手もあるな、とやはり愉しそうな彼。
「右は照準を正確にする練習を、左は先ずは筋トレかな。右で拳銃、左は短刀って手もある。そこは、お前が好きなようにすりゃあ良いさ。
俺と手合わせしたいなら、鍛えてから来れば良い。……目の前で全て防いでやるよ」
框矢は不敵な微笑を浮かべ、俺と握手を交わすとビル内へと去って行った。
『周さん……、彼と何を話していたんですか?』
パイロットの腹心の部下に聞かれ、さっきの話を言えば、心配そうな表情になる。
『あまり、外部者の話は受け容れない方が宜しいのでは?幾ら彼が強いと言えど……』
そんな部下の言葉に小さく笑いが零れる。
『彼の指摘は、的確に俺の弱い所を突いていたんだ。本当は両利きだって事も、右よりも左の方が使い易いこともな。
黒白龍は今のままではダメだ。折角、四川省最大の組織から手を組もうと言われたのに、内部……それも末端の奴らに問題がある。更には横行の件も何とかしないといけないからな』
『……』
『やる事は山積してるんだ。お前の力も借りたい。手伝って貰えるか?』
『はい!もちろんです』
俺は部下の返事を聞きつつ、ファイエン、横行、末端の奴らの裏切りの事に考えを巡らせながら、香港の本拠地へと戻ったんだ。
裏切りは本当だったし、横行の件も、確かに影人は約束を守ってくれた。
無償で情報提供してくれ、何とか無事、全てを収める事が出来たんだ。




