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第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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第2文化圏 エルフ 森の端の通訳

 森の端に住む者は、朝を二度迎える。


 一度目は、森の朝である。


 鳥が鳴く。


 葉が揺れる。


 泉へ向かう足音が、根の間を静かに通る。


 子どもたちが木の上の寝床から顔を出し、年長の者が短い歌で水の順を思い出させる。


 二度目は、外の朝である。


 馬が鼻を鳴らす。


 荷車が軋む。


 塩袋を積んだ商人が、まだ森へ入れない場所で足踏みをする。


 銅貨袋の口を確かめる音がする。


 王国の言葉で、早くしろ、と誰かが言う。


 リュエンは、その二つの朝の間で目を覚ます。


 森の者から見れば、彼は外に近い。


 外の者から見れば、彼は森の者である。


 どちらも間違っていない。


 そして、どちらも足りない。


     *


 リュエンの耳は、森の形をしている。


 細く、長く、音を拾いやすい。


 だが、彼の帯は王国風である。


 布は王国の市場で買ったものだ。


 結び方も、人間商人がよく使う結びに近い。


 森の奥では、その帯は少し目立つ。


 王国の商人の前では、耳の方が目立つ。


 リュエンは、母の枝を持っている。


 父の枝も、ないわけではない。


 ただし、どちらも強くはない。


 母は森の端に住む薬草採りだった。


 父は外へ出ることの多い木材交渉人だった。


 どちらも森には必要だった。


 だが、どちらも聖樹の根元に長く座る者ではなかった。


 だからリュエンも、根元には近くない。


 合議へ呼ばれることはある。


 しかし、輪の中心には座らない。


 王国商人との取引には立つ。


 しかし、王国の帳には名が残りにくい。


 商人たちは、彼を「エルフの通訳」と呼ぶ。


 森の者たちは、彼を「外へ出す者」と呼ぶ。


 どちらの呼び方にも、少しだけ距離がある。


 それでよい、とリュエンは思うことにしている。


 距離がなければ、間に立つことはできない。


     *


 朝の取引には、塩が来た。


 王国の商人は、袋を三つ降ろした。


 乾いた塩の匂いがする。


 袋の縁には、関所の小印がある。


 荷札には、川沿いの商会名が書かれている。


 森の年長者は、それを直接は読まない。


 読めないわけではない。


 だが、王国の荷札は、王国の言葉で読む者に読ませるのがよい。


 そう考えている。


 リュエンは荷札を見た。


 王国語で読む。


 森の言葉へ直す。


 ただ移せばよいわけではない。


 王国の「三袋」は、森ではただの三つではない。


 薬草と替える三袋。


 冬前に必要な三袋。


 昨年より少し軽いかもしれない三袋。


 そういう意味を持つ。


 王国の商人が言った。


「今年は橋が落ちた。運ぶのに手間がかかった」


 リュエンは、すぐには訳さなかった。


 昨年も、同じ商人は橋が落ちたと言った。


 一昨年は、川が増えたと言った。


 その前は、関所の税が上がったと言った。


 王国の商人にとって、理由は値に乗せるためのものだ。


 森の者にとって、理由は記憶に入れるものである。


 同じ「理由」でも、扱いが違う。


 リュエンは、少し言葉を変えた。


「商人は、今年の道が重かったと言っています」


 森の年長者が、リュエンを見た。


「橋が落ちたのか」


 リュエンは、商人を見た。


 商人は、にやりと笑っている。


 リュエンは、森の言葉で答えた。


「落ちた、と言っています。けれど、去年も似た言葉を使いました」


 年長者は頷いた。


「では、塩は軽く量る」


 商人が眉を寄せた。


「何と言った」


 リュエンは王国語へ戻した。


「森は、袋の重さを確かめたいと言っています」


「疑っているのか」


「確かめたいのです」


 商人は舌打ちした。


 森の年長者は、舌打ちの意味を知らない。


 知らない方がよいこともある。


 リュエンは、それを訳さなかった。


     *


 通訳は、すべてを訳す仕事ではない。


 必要なものを渡す仕事である。


 渡してはならないものもある。


 怒り。


 軽蔑。


 嘲り。


 相手の文化では、ただの冗談に見える毒。


 相手の文化では、毒に見える冗談。


 それらを、そのまま渡せば、交易は壊れる。


 しかし、柔らかくしすぎれば、嘘になる。


 森の者は、嘘を嫌う。


 王国の商人も、損をする嘘だけは嫌う。


 リュエンは、両方の嫌がるものを知っている。


 だから、言葉を削る。


 足す。


 並べ替える。


 沈黙を置く。


 時には、訳さない。


 森の者は、それを知っている。


 王国の商人も、薄々知っている。


 それでも、リュエンを使う。


 彼なしでは、塩は森へ入りにくい。


 薬草は王国へ出にくい。


 弓材は商会倉へ届きにくい。


 香木は王都の神殿へ届きにくい。


 リュエンは道である。


 ただし、道は、踏まれるためにある。


     *


 昼前、森の子どもたちが外縁の近くを通った。


 学びの列である。


 年長の子が先を歩き、幼い子がその後ろを歩く。


 踏んでよい苔。


 踏んではならない苔。


 声を出してよい木陰。


 声を潜める木陰。


 触れてよい葉。


 触れてはならない葉。


 そうしたものを、声と足で覚えていく。


 列の少し後ろに、一人、足の遅い子がいた。


 足音が大きい。


 枝を避けるのが遅い。


 鳥の声に気づくのも遅い。


 そのかわり、地面の小さなものへすぐ気づく。


 その子が、根元に置かれた木札を見つけた。


 木札には、細い切り込みがある。


 リュエンは、それを遠目に見て、少し息を止めた。


 ただの傷ではない。


 切り込みには、向きがある。


 数がある。


 間隔がある。


 それは、かつて北東の森で噂になった若者が残した印に似ていた。


 古い結び歌を、音ではなく印として読もうとした者。


 森の合図を、木札の切り込みで残そうとした者。


 長老たちに才を認められ、同時に嫌がられた者。


 次の雨の季に消えた者。


 リュエンは、その若者を一度だけ見たことがある。


 森の端で、王国の紙を持っていた。


 紙には、木札の切り込みを写した跡があった。


 歌ではない。


 帳でもない。


 森の記憶を、別の形にしようとしていた。


 リュエンは、その時、危ういと思った。


 だが、同時に、少しだけ分かるとも思った。


 森の歌に入らないものは、消える。


 王国の帳に載らないものも、消える。


 ならば、どこへ置けばよいのか。


 その問いに、あの若者は切り込みで答えようとしていたのかもしれない。


 子どもの列の年長者が言った。


「触るな」


 足の遅い子は、木札から手を離した。


「誰かが残した」


「鳥の傷かもしれない」


「鳥は、こんなふうには削らない」


「長老が言っていないものは、覚えなくていい」


 リュエンは、口を挟まなかった。


 挟めなかった。


 それは、森の子どもたちの学びである。


 外へ出す者が、軽々しく触れるべきではない。


 だが、木札の切り込みは、リュエンの目にも残った。


 見てしまったものは、通訳しなくても残る。


     *


 昼過ぎ、泉の話が合議にかかった。


 古い泉を三日休ませるという話である。


 リュエンは合議の中心には座らない。


 だが、人間商人との取引に関わる水場の話でもあるため、根の外側に控えていた。


 長老たちは静かに話す。


 泉を責めるのではない。


 泉を捨てるのでもない。


 泉を休ませる。


 その言い方にする、と決まった。


 リュエンは、その言い方を聞いて、王国ならどう書くかを考えた。


 薬用水源、一時使用停止。


 水質不審。


 上斜面土砂流入の疑い。


 三日後再確認。


 王国なら、そう書くかもしれない。


 だが、森ではそうは言わない。


 古い泉を悪い水とは呼ばない。


 不審とも書かない。


 休ませる、と歌う。


 それは嘘ではない。


 だが、王国の言葉に直せば、少しぼやける。


 森の言葉のままにすれば、王国の者には伝わらない。


 リュエンは、また間に挟まった。


 この森は、水を疑える。


 だが、疑うという言葉は嫌う。


 この王国は、水を止められる。


 だが、止めるという言葉ばかりが残る。


 どちらも、本当の半分である。


 半分と半分を合わせても、完全にはならない。


 ただ、道になるだけである。


     *


 午後、王国の商人が、森の奥を見せろと言った。


 毎度のことである。


「少しだけでいい。薬草の場所を見れば、来年の値が分かる」


 リュエンは、森の言葉へ訳さなかった。


 森の年長者が、リュエンを見た。


「今の言葉は」


「奥を見たい、と」


「理由は」


「値を決めるため、と」


 森の年長者は、静かに首を振った。


「見せない」


 リュエンは王国語へ戻した。


「森は、外縁での取引を望んでいます」


「断るのか」


「外縁での取引を望んでいます」


「同じことを言うな」


「同じことを言う必要があります」


 商人は不満そうに袋の口を結び直した。


「森の者は頑固だ」


 リュエンは訳さなかった。


 森の年長者は、商人の顔を見て、訳されなくても何となく察したらしい。


 少しだけ笑った。


「王国の者は、いつも奥を見たがる」


 リュエンは、それも訳さなかった。


 訳さない言葉は、リュエンの中に溜まる。


 商人の舌打ち。


 森の皮肉。


 長老のため息。


 子どもの小さな疑問。


 通訳しなかったものは、消えるわけではない。


 ただ、どちらの記録にも入らず、リュエンの内側へ積もる。


 彼は時々、自分が小さな沼のようだと思う。


 流れ込む言葉は多い。


 出ていく言葉は選ばれる。


 底には、沈んだものが残る。


     *


 夕方近く、足の遅い子が一人で戻ってきた。


 学びの列から抜けたわけではない。


 何かを落としたと言って、年長の子から許されたらしい。


 子は、昼に見つけた木札の方へ行こうとしていた。


 リュエンは、声をかけるべきか迷った。


 森の子に、外へ出す者が何を言うのか。


 長老へ知らせるべきか。


 それとも、見なかったことにすべきか。


 子は、根元に膝をついた。


 木札を拾う。


 今度は、触るなと言う年長の子はいない。


 子は、切り込みを指でなぞった。


 リュエンは近づいた。


「それを、どうする」


 子は驚いて振り向いた。


 逃げはしなかった。


「見ているだけ」


「長老に見せるのか」


「分からない」


「なぜ」


「長老が知らないものは、覚えなくていいと言われた」


 リュエンは、木札を見た。


 細い切り込み。


 三つ。


 少し離れて、二つ。


 その下に、短い斜めの傷。


 道しるべにも見える。


 水の注意にも見える。


 誰かの名の欠片にも見える。


「君には、何に見える」


 子は少し考えた。


「歌になれなかったもの」


 リュエンは黙った。


 子どもの言葉は、時々、長老の言葉より深く刺さる。


「誰かが、忘れないようにしたんだと思う」


「そうか」


「でも、誰も覚えるなと言う」


「覚えるな、ではないかもしれない」


「では、何」


「今はまだ、どこへ置けばよいか分からない、ということかもしれない」


 子は木札を見つめた。


「どこへ置けばいいの」


 リュエンは答えられなかった。


 森の歌か。


 王国の帳か。


 長老の記憶か。


 子どもの手の中か。


 どこも正しいようで、どこも足りない。


 リュエンは言った。


「まず、見たことを忘れない」


「それだけ?」


「それだけでも、すぐにはできない」


 子は木札を元の場所へ戻した。


 隠しはしない。


 持ち去りもしない。


 ただ、葉を一枚だけどけて、切り込みが見えるようにした。


「これなら、忘れにくい」


 リュエンは頷いた。


「そうだな」


     *


 夜、森の端で小さな火が焚かれた。


 王国商人は、森の外へ戻った。


 森の者は、泉の歌を少し変えた。


 子どもたちは、今日覚えたものを年長者へ言った。


 リュエンは、少し離れた場所でそれを聞いていた。


 彼の仕事は、今日の取引を明日の荷札へつなげることである。


 森から出す薬草の束。


 香木の本数。


 塩の袋。


 交換する針の数。


 商会へ伝える日。


 それらを王国語で控える。


 しかし、その横に、彼は小さく森の言葉を書いた。


 古い泉、三日休む。


 子、木札を見る。


 歌にならぬ切り込みあり。


 誰に見せるか未定。


 それは、王国の帳ではない。


 森の歌でもない。


 リュエン自身の控えである。


 誰かに提出するものではない。


 誰かに認められるものでもない。


 ただ、見てしまったものを、すぐに沈めないための小さな印である。


 書きながら、彼は少しだけ笑った。


 あの北東の森の若者も、こういう気持ちだったのかもしれない。


 歌に入らないものを、どこかへ置きたかった。


 森に嫌がられても、王国に理解されなくても、消える前に印をつけたかった。


 リュエンには、その危うさが分かった。


 分かることは、時々、近づくことより危ない。


     *


 森の端に住む者は、二つの名を持つ。


 森へ向けた名。


 外へ向けた名。


 だが、どちらの名も、すべてではない。


 森の歌は、リュエンを完全には覚えない。


 王国の帳も、リュエンを完全には載せない。


 森にとって、彼は外へ出す者。


 王国にとって、彼はエルフの通訳。


 その間に、彼自身の沈黙がある。


 訳さなかった言葉。


 訳せなかった迷い。


 見たが、歌に入れられなかったもの。


 書いたが、帳へ出せなかったもの。


 それらが、少しずつ彼の内側へ積もっていく。


 周縁者とは、必ずしも追い出された者だけではない。


 必要とされながら、中心へは呼ばれない者もいる。


 道として使われ、家としては見られない者もいる。


 リュエンは、火のそばで控えを閉じた。


 森の奥では、古い泉を休ませる歌が小さく続いている。


 外の道では、王国商人の車輪が遠ざかっていく。


 そのどちらの音も、彼には聞こえる。


 どちらの音も、彼だけのものではない。


 それでも、二つの音が重なる場所で、彼は今日も息をしている。


 森は、多くを覚える。


 王国は、多くを書き残す。


 だが、そのどちらにも入らないものを、ひとまず胸の内に置く者がいる。


 森の端とは、そういう場所である。

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