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第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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第2文化圏 エルフ 森の朝と泉の順

 森の朝は、鐘では始まらない。


 王都のように、城門が軋むこともない。

 門番が槍を鳴らすこともない。

 商人が通行符を差し出すこともない。

 税を取る者が銭の音を聞くこともない。


 それでも、森は朝になる。


 最初に鳥が鳴く。


 次に、葉が揺れる。


 そのあと、木の上に渡した寝床から、子どもが一人、顔を出す。


 まだ眠そうな目で、下を見下ろす。


 地面には、霧が薄く残っている。


 根の間には、昨夜の露がある。


 枝から枝へ渡した細い紐には、乾かした薬草が吊るされている。


 泉の方から、水を汲む音がした。


 エルフの集落では、朝の水を汲む順が決まっている。


 まず、薬を煎じる者。


 次に、幼子の湯を作る者。


 それから、食事に使う者。


 最後に、道具を洗う者。


 誰が紙に書いたわけではない。


 王国のように、木札へ順番を刻むわけでもない。


 だが、誰も間違えない。


 間違えれば、すぐに誰かが歌う。


 責める歌ではない。


 思い出させる歌である。


 この泉は、先に薬の水。

 この泉は、まだ幼子の水。

 灰を落とすのは、下の流れ。

 血を洗うなら、石の向こう。


 森では、命令より先に歌がある。


 歌より先に、古くからの順がある。


     *


 泉のそばでは、若い女が膝をついていた。


 髪には、細い木札が結ばれている。


 母の枝を示す木札である。


 もう一方の耳の後ろには、別の薄い札がある。


 父の枝を示す札である。


 二つの札は似ていない。


 片方は泉の形を刻んでいる。


 片方は弓の弦を刻んでいる。


 それが彼女の立つ場所だった。


 母の枝。


 父の枝。


 水を扱う者の列。


 狩り道を知る者の列。


 エルフの子は、ひとつの名だけで森に立つのではない。


 二つの枝に支えられて立つ。


 そのかわり、どちらの枝からも見られる。


 水を汚せば、母の枝が問われる。


 狩り道を誤れば、父の枝が問われる。


 よい働きをしても、個人だけのものにはならない。


 失敗しても、個人だけのものにはならない。


 森では、名は守りである。


 同時に、逃げ場を減らす紐でもある。


 若い女は、泉の水面に浮いた葉をすくった。


 落葉は一枚だけではない。


 昨夜の風で、いくつも落ちている。


 水は澄んでいる。


 だが、水面の端には、小さな虫がいた。


 若い女は、それを指で払い、ためらった。


 この泉は、古い泉である。


 集落の最初の母が身を清めた泉だと、長老たちは歌う。


 病んだ子に、最初に飲ませる水でもある。


 だが、虫がいる。


 葉も多い。


 昨日の雨で、上の土が少し流れ込んでいる。


 若い女は、水を汲む手を止めた。


 止めたところへ、年長の女が来た。


「何をしている」


「水面に虫がいます」


「払えばよい」


「葉も多いです」


「秋の前はそうなる」


「上の土が流れています」


 年長の女は、泉を見た。


 そして、少しだけ眉を寄せた。


 だが、すぐに言った。


「古い泉だ。悪い水ではない」


 若い女は頷いた。


 頷いたが、水を汲む手はまだ遅い。


 年長の女は、それを見た。


「疑うのか」


「確かめたいだけです」


「古い泉をか」


「古い泉だからです」


 水音が止まった。


 近くにいた者たちが、少しだけ振り向いた。


 森では、大きな声で争う者は少ない。


 だが、静かな言葉ほど、長く枝に残ることがある。


 年長の女は、声を低くした。


「それは、長老の前で言いなさい」


 若い女は、木の椀を抱えたまま頭を下げた。


 その朝、薬の水は少し遅れた。


     *


 森の集落には、広場がない。


 王都の市場のような開けた石の場はない。


 代わりに、大きな根の広がった場所がある。


 聖樹の根元である。


 そこでは、朝ごとに小さな合議が開かれる。


 大きな合議ではない。


 森の道を変えるほどの話ではない。


 婚姻線を決める話でもない。


 ただ、その日の水、狩り、薬草、見張り、子どもたちの学びを確認するための合議である。


 誰が上の泉へ行くか。


 誰が南の小道を見るか。


 昨日、鹿の群れがどちらへ動いたか。


 倒れた枝をどこまで片づけるか。


 人間商人が来るなら、どの木陰まで入れるか。


 若い者に、どの薬草を触らせるか。


 その程度の話である。


 だが、その程度の話が森を保つ。


 聖樹の根元には、長老が三人座っていた。


 一人は、古い歌を覚えている。


 一人は、泉の位置を覚えている。


 一人は、他の森との結びを覚えている。


 それぞれが、すべてを決めるわけではない。


 それぞれが、自分の覚えているものを差し出す。


 そこへ、泉の若い女が呼ばれた。


 彼女は、朝に見たものを話した。


 葉が多いこと。


 小さな虫がいたこと。


 上の土が少し流れ込んでいること。


 薬の水に使う前に、しばらく休ませた方がよいかもしれないこと。


 長老たちは黙って聞いた。


 途中で遮らない。


 森では、話を遮ることは、枝を折ることに似ている。


 言葉は、最後まで伸ばしてから見る。


 話し終えると、古い歌を覚えている長老が言った。


「その泉は、最初の母の泉だ」


「はい」


「多くの子が、その水で起きた」


「はい」


「多くの熱が、その水で引いた」


「はい」


「だから、疑う声は重い」


 若い女は、頭を下げた。


 次に、泉を覚えている長老が言った。


「しかし、上の斜面は去年から緩い」


 他の二人が、その長老を見た。


「雨の季に、一度、根が流れた。覚えている」


 古い歌の長老は目を閉じた。


 しばらくして、頷いた。


「覚えている」


 他森との結びを覚える長老が言った。


「西の森でも、古い泉を三日休ませたことがある。薬の水を下の泉へ移した」


「それは、いつのことだ」


「白鹿の死んだ年」


「古い」


「古いが、あった」


 合議は静かに揺れた。


 古い泉を疑うこと。


 古い泉を守ること。


 その二つは、森では同じ根に絡む。


 疑わないことが守ることとは限らない。


 しかし、疑いすぎれば、古い歌を傷つける。


 長老たちは、しばらく黙った。


 そして決めた。


 三日、薬の水を下の泉へ移す。


 古い泉は、葉をすくい、石を洗い、上の斜面を見に行く。


 泉を捨てるのではない。


 泉を休ませる。


 そう歌うことにした。


 若い女は、深く息を吐いた。


 彼女の疑いは、罰にはならなかった。


 だが、歌にもならなかった。


 その日の合議の端に、ただ残っただけである。


     *


 子どもたちは、昼前に森を歩く。


 遊びではない。


 学びである。


 人間王国のように、板に文字を書いて覚えるのではない。


 エルフの子は、歩いて覚える。


 踏んでよい苔。


 踏んではならない苔。


 触れてよい木の皮。


 触れてはならない木の皮。


 折ってよい枝。


 折ってはならない枝。


 食べてよい実。


 鳥に残す実。


 薬にする葉。


 触った手を洗わなければならない葉。


 それらを、声と足で覚える。


 年長の子が先を歩く。


 幼い子は、その後ろを真似る。


 真似ることで、足が道を覚える。


 道が足を覚える。


 森では、それでよいとされている。


 だが、真似ることが下手な子もいる。


 一人の子が、列から少し遅れていた。


 足音が大きい。


 枝を避けるのが遅い。


 鳥の声に気づくのも遅い。


 そのかわり、地面に落ちた小さな木札には、誰より早く気づく。


 子は木札を拾った。


 年長の子が振り返る。


「触るな」


 遅れた子は、手を止めた。


 木札には、細い切り込みがある。


 道しるべにも見える。


 何かの数にも見える。


 ただの傷にも見える。


 遅れた子は、それを見つめている。


 年長の子は、少し苛立った。


「それは見なくていい」


「誰かが残した」


「鳥の傷かもしれない」


「鳥は、こんなふうには削らない」


「長老が言っていないものは、覚えなくていい」


 遅れた子は、木札を置いた。


 だが、目はまだそこに残っている。


 森では、覚えるべきものが多い。


 だから、覚えなくてよいものも決められる。


 覚えなくてよいものを拾う子は、少し困られる。


 その子が何を見たのか。


 木札の切り込みが何であったのか。


 その場では、誰も確かめなかった。


 列は進んだ。


 森は、子どもの小さな疑問を、葉音の中へしまい込んだ。


     *


 昼、王国から商人が来た。


 森の外縁までである。


 集落の中へは入らない。


 人間商人が立てる場所は決まっている。


 大きな根の手前。


 白い苔の線の外。


 水音が聞こえるが、泉は見えない場所。


 そこで取引する。


 王国からは、塩、針、薄い鉄鍋、麻布、小さな鏡が来る。


 森からは、薬草、香木、弓材、乾かした果実、細工した木片が出る。


 商人は、いつも森の奥を見たがる。


 だが、見せられない。


 見せれば、次は入りたがる。


 入りたがれば、禁忌に触れる。


 禁忌に触れれば、怒りが生まれる。


 怒りが生まれれば、交易路が細くなる。


 だから、最初から見せない。


 それが森の知恵である。


 通訳に立つのは、森の端に住む若い男だった。


 耳はエルフの形をしている。


 だが、服の帯は王国風である。


 森の歌も知っている。


 王国の銭の数え方も知っている。


 枝には結ばれているが、根元には近くない。


 王国の帳には、エルフ商人の代理とだけ書かれる。


 森では、外へ出す者、と呼ばれる。


 どちらにも名はある。


 どちらにも、中心の名ではない。


 商人は塩の袋を出した。


「今年は少し高い」


 通訳が森の言葉へ直す。


 エルフの年長者は、静かに聞いた。


「なぜ」


「川の橋が落ちた」


「どの橋」


「南の石橋」


「去年も落ちたと言った」


 商人は笑った。


「今年は本当に落ちた」


 通訳は、そのまま訳すのを少しためらった。


 そのまま訳せば、森の者は不快に思う。


 だが、柔らかくしすぎれば、商人の軽さが消える。


 通訳は言葉を選んだ。


「商人は、去年の言葉を軽く扱い、今年の言葉を重くしたいようです」


 年長者は、少しだけ目を細めた。


 商人は、何を訳されたか分からない。


 ただ、通訳の声が長かったことだけは分かった。


「何と言った」


「橋のことを、確かめたいと言っています」


「疑っているのか」


「確かめたいのです」


 商人は鼻を鳴らした。


 森の者は、橋のことを歌に残す。


 王国の商人は、橋のことを値に乗せる。


 通訳は、その間に立つ。


 どちらの嘘も、どちらの本当も、彼の舌を通る。


 森の端に住む者とは、そういう者である。


     *


 午後、古い泉の石が洗われた。


 泉を休ませると決まったためである。


 若い女だけではなく、年長の女も来た。


 長老も一人来た。


 子どもたちも少し離れて見ている。


 神聖な泉を洗うという言い方はしない。


 泉を休ませる準備をする、と言う。


 言い方が違えば、森の受け止め方も違う。


 水を捨てるのではない。


 泉を責めるのでもない。


 泉が長く働いたから、休ませる。


 そう歌う。


 若い女は、石に積もった葉をすくった。


 年長の女は、上の斜面の土を見た。


 長老は、古い歌を短く歌った。


 歌の途中で、言葉が少し変わった。


 それまで「いつも清い泉」と歌われていたところが、「休みを知る泉」と言い換えられた。


 誰も大きく反応しない。


 だが、そこにいた者は聞いた。


 森の記憶が、ほんの少し変わった。


 紙に書けば、一行である。


 だが、森では一行では済まない。


 歌う者が覚える。


 聞いた者が覚える。


 次の水汲みで、また歌う。


 子どもが真似る。


 何年も経ってから、最初からそうだったように扱われる。


 森の変化は遅い。


 遅いが、変わらないわけではない。


 ただ、変わる時に音を立てない。


     *


 夕方、狩りの組が戻った。


 獲物は少ない。


 鹿を一頭見たが、放ったという。


 まだ若く、群れを連れていたためである。


 代わりに、罠にかかった小さな獣を二匹持ち帰った。


 肉は燻す。


 骨は道具にする。


 皮はなめす。


 内臓は、薬にするものと捨てるものに分ける。


 捨てるものは、集落の下流へ持っていく。


 森では、捨てる場所も決まっている。


 何もかも土へ返せばよいわけではない。


 返してよい土と、返してはならない水際がある。


 若い狩人が、獣の血を近くの流れで洗おうとした。


 年長の狩人が、その手を止めた。


「そこは子どもの水だ」


 若い狩人は、手を引いた。


「下へ行け」


 若い狩人は頷き、獣を抱え直して下流へ向かった。


 森の衛生は、こうして守られる。


 だが、それは完璧ではない。


 誰かが止めなければ、間違いは起きる。


 誰かが見ていなければ、血は子どもの水へ入る。


 森が清いのではない。


 清くしようと見る者がいる。


 その見る者の名も、ほとんど歌には残らない。


     *


 夜が近づくと、集落では小さな火が灯る。


 王国のように大きな炉を焚かない。


 森では、火は便利であると同時に危うい。


 火のそばで、子どもたちは今日覚えたものを言う。


 踏んではならない苔。


 触ってはならない葉。


 白い虫がいた枝。


 鳴かなかった鳥。


 下の泉へ移された薬の水。


 休むことになった古い泉。


 年長の者たちは、それを聞く。


 間違いがあれば直す。


 足りなければ足す。


 余計であれば、歌に入れない。


 昼に木札の切り込みを見つけた子が、口を開きかけた。


 しかし、隣の年長の子が首を振る。


 言うな、という意味ではない。


 今ではない、という意味だったのかもしれない。


 遅れた子は、口を閉じた。


 火が揺れる。


 森の夜が降りてくる。


 すべてを言えばよいわけではない。


 すべてを黙ればよいわけでもない。


 その間で、森の記憶は形を作る。


 ただし、形にならなかったものは、落葉の下へ沈む。


 木札の切り込み。


 誰かが残したかもしれない合図。


 若い者が見たが、まだ言えなかったもの。


 そうしたものもまた、森の一部である。


 ただ、まだ名がない。


     *


 第2文化圏の一日は、歌で閉じる。


 誰が水を汲んだか。


 どの泉を休ませたか。


 どの狩り道を使わなかったか。


 どの獣を放ったか。


 どの薬草を採ったか。


 どの枝の子が、どの根元へ戻ったか。


 どの商人が塩の値を上げたか。


 どの通訳が、その言葉を森へ渡したか。


 ただし、すべてが歌になるわけではない。


 泉を疑った若い女の最初のためらいは、歌にならない。


 商人の軽い笑いは、歌にならない。


 通訳の舌の迷いも、歌にならない。


 木札の切り込みを拾いかけた子の目も、歌にならない。


 年長の狩人が血を止めた手も、歌にならない。


 森は多くを覚える。


 だが、森の覚え方にも順がある。


 聖樹。


 泉。


 枝。


 歌。


 合議。


 禁忌。


 そして、その端で、まだ歌にならないものを見てしまう者がいる。


 王国の帳に載らない者がいたように、森にも、歌に入らない者がいる。


 周縁者は、城壁の影だけに生まれるのではない。


 葉の影にも生まれる。


 泉の縁にも生まれる。


 歌い継がれなかった小さな疑いの中にも、生まれる。


 森は静かである。


 だからこそ、そこからこぼれる声は、とても小さい。

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