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第十六個体観測録 十五文化圏周縁抄  作者: 黒瀬 量衡


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15/22

補完一の三 スライム 言葉を食うもの

 王国南門の外れに、荷札を読む若い男がいた。


 名を、トルという。


 ただし、その名で呼ばれることは少ない。


 商会の者は、彼を札係と呼ぶ。

 門番は、あの痩せた小僧と呼ぶ。

 荷運びの男たちは、インク臭い奴と呼ぶ。

 溝さらいの者たちは、端を見る奴と呼ぶ。


 彼は、正式な鑑定士ではない。


 魔石の等級を読む資格もない。

 宝石の真贋を断じることもできない。

 貴族家の印を見て、通行を止める権限もない。

 商会帳簿に朱を入れる立場でもない。


 できるのは、荷札を見ることだけだった。


 どこの荷か。

 いつ通ったか。

 誰が検めたか。

 どの門を通ったか。

 紐が結び直されていないか。

 封蝋の端に別の指の跡が残っていないか。

 雨で濡れたのか、汚水で濡れたのか。

 紙の端が痩せていないか。


 中央の文字は、誰でも読む。


 商会名。

 荷主。

 重さ。

 通行印。

 日付。

 行き先。


 だが、端を見る者は少ない。


 紙の端は、よく物を残す。


 濡れ。

 焦げ。

 油。

 血。

 酸。

 ぬめり。

 紐の締め直し。

 封蝋の割れ。


 荷は、中央の文字より先に、端で嘘をつく。


 トルはそう思っていた。


     *


 その日、南門には四つの荷が置かれていた。


 王国下町から出た、古布の包み。


 森の端から来た、乾いた果皮の袋。


 ドワーフ工房から届いた、薄い金属板の箱。


 草原の交易人が持ち込んだ、骨角と羊皮の束。


 別々の荷だった。


 売り手も違う。

 通った道も違う。

 運んだ者も違う。

 荷を検めた者の印も違う。


 だが、荷札の端に似た跡があった。


 雨ではない。


 ただの泥でもない。


 油でもない。


 紙の繊維が、端から少し痩せている。


 インクがにじんでいるのではない。

 線そのものが細くなっている。


 古布の包みでは、紐の下だけが弱い。

 果皮の袋では、底の角が妙に薄い。

 金属板の箱では、青銅の留め具が黒ずんでいる。

 骨角と羊皮の束では、羊皮の縁が白く荒れている。


 トルは、それを同じ欄に書いた。


 酸による痩せ。

 出所、不一致。

 荷、四種。

 経路、別。

 共通、ぬめり跡。


 隣の年上の札係が笑った。


「また端か」


 トルは答えなかった。


「お前は、札の端ばかり見ている」


 見ているのは、端ではない。


 端に残るものだ。


 そう言おうとして、やめた。


 言っても通じない。


 端に残るものを見ない者に、端の話をしても長くなるだけである。


 トルは、四つの荷札を別に置いた。


 まだ告発ではない。

 まだ報告でもない。

 まだ不正の証拠でもない。


 ただ、同じ跡がある。


 それだけだった。


 それだけだから、誰も騒がない。


 彼は、小さな控えにもう一行だけ足した。


 汚れを消すもの、荷を渡る。


 書いてから、すぐに線を引きかけた。


 大げさに見えたからだ。


 だが、消さなかった。


     *


 南門の外れには、古い石の溝がある。


 雨水と、洗い水と、腐った野菜屑と、荷車の泥が集まる場所だった。


 そこに、小さなスライムがいた。


 大きくはない。


 人の頭ほどもない。


 透明でもない。


 淡い灰色で、底に黒い粒が沈んでいる。


 動く時は、水がずれるように見える。

 止まっている時は、ただの濁ったぬめりに見える。


 掃除人たちは、それを潰さなかった。


 小さいからだ。

 溝の汚れを少し食うからだ。

 足に絡むほど増えていないからだ。


 増えれば灰を撒く。

 荷車の車輪へ上がれば石で叩く。

 だが、溝の底にいるかぎりは放っておく。


 そういうものだった。


 トルは、そのスライムを前から見ていた。


 最初に気づいたのは、荷札だった。


 捨てられた荷札のうち、同じ商会印のものだけが、よく痩せていた。


 偶然だと思った。


 次に気づいたのは、灰だった。


 掃除人が灰を撒くと、多くのスライムは動きを鈍らせる。

 だが、その小さなスライムは、灰の山そのものには近づかず、灰の周りに残った紙片だけを食った。


 ただの餌の匂いかもしれない。


 そう考えた。


 次に気づいたのは、声だった。


 荷運びの男が、溝へ滑りかけた子どもに怒鳴った。


「待て!」


 その時、スライムの動きが止まった。


 一瞬だけである。


 子どもが泣き、男が引き戻し、周りが笑った。


 誰も溝を見ていない。


 トルだけが見ていた。


 ぬめりが止まった。


 水の揺れではない。

 石に当たったわけでもない。

 火に怯えたわけでもない。


 声のあとに、止まった。


 トルは控えに書いた。


 声に反応、要再見。


 すぐに線を引いた。


 馬鹿げている。


 そう思ったからだ。


 スライムに言葉はない。


 王立学術院の分類にも、そうある。

 商会の帳簿にも、そういうものとして扱われる。

 掃除人も、誰も、スライムが言葉を分かるとは思っていない。


 だから、トルもそう思うべきだった。


 思うべきだったのに、目は溝へ戻った。


     *


 翌日、トルは古い荷札を三枚持ってきた。


 仕事で不要になったものだった。


 一枚には、火、と書いた。


 一枚には、灰、と書いた。


 一枚には、待て、と書いた。


 もちろん、スライムが文字を読むはずはない。


 これは試しではない。


 そう自分に言い聞かせた。


 ただ、紙の痩せ方を見るだけである。


 火の札を、溝の右へ置く。

 灰の札を、中央へ置く。

 待ての札を、少し離して左へ置く。


 小さなスライムは、しばらく動かなかった。


 それから、ゆっくりと灰の札へ寄った。


 紙の端に触れる。


 すぐには食わない。


 縁をなぞるように、ぬめりが広がった。


 灰、という字の下の方から紙が痩せる。


 トルは息を止めた。


 火の札には、近づかない。


 待ての札にも、すぐには寄らない。


 灰の札だけを、ゆっくり食っている。


 偶然だ。


 そう思った。


 灰の匂いが残っていたのかもしれない。

 トルの指の汚れが違ったのかもしれない。

 置いた場所の湿りが違ったのかもしれない。

 紙の厚さが違ったのかもしれない。


 だから、次の日は札を入れ替えた。


 火を中央へ。

 灰を左へ。

 待てを右へ。


 スライムは、また灰へ寄った。


 三日目には、文字を書かずに、同じ紙を置いた。


 スライムは迷うように広がり、どれにも触れた。


 四日目には、別の紙に同じ文字を書いた。


 また、灰へ寄った。


 トルは控えを増やした。


 灰の札、三度。

 位置を替えても同じ。

 紙を替えても同じ。

 匂いか、字か、不明。


 不明。


 その字を書いて、トルは羽根ペンを止めた。


 不明なら、まだよい。


 分かったと書けば、危うい。


 スライムが文字を読むなどと書けば、自分が笑われる。


 笑われるだけならよい。


 札係の仕事を失うかもしれない。


 王立学術院へ知らせるほどのことでもない。


 商会に報告すれば、余計なものを見るなと言われる。


 だから、トルは不明と書いた。


 だが、次の日も溝を見た。


     *


 スライムは、言葉を持たない。


 声もない。

 目もない。

 耳もない。

 指もない。

 口も、歯も、舌もない。


 それなのに、紙を食う。


 紙を食えば、字が消える。


 字が消えれば、荷の名が消える。

 荷の名が消えれば、行き先が消える。

 行き先が消えれば、責任が消える。

 責任が消えれば、荷は別の名で動く。


 スライムは、それを知っているのか。


 トルには分からない。


 知っているのではない。


 ただ、食っているだけだ。


 そう考える方が正しい。


 だが、ただ食うだけにしては、選び方が妙だった。


 火の札は避ける。

 灰の札は食う。

 待ての札には、声をかけた時だけ近づかない。


 トルは五日目に、待ての札を溝の近くへ置いた。


 スライムが寄る。


 ぬめりが札の端へ触れそうになる。


 トルは小さく言った。


「待て」


 動きが止まった。


 ほんのわずかだった。


 水面の揺れのようにも見える。


 風のせいにもできる。


 だが、止まった。


 トルは、もう一度言った。


「待て」


 スライムは動かない。


 今度は少し長い。


 彼は喉が乾くのを感じた。


「よし」


 そう言うと、スライムは札へ触れた。


 待て、という字の端が、ゆっくり痩せていく。


 トルは、しゃがんだまま動けなかった。


 分かっているのか。


 分かっていないのか。


 声に反応しているだけなのか。

 息の湿りに反応しているのか。

 口から飛ぶ唾に反応しているのか。

 音の震えに反応しているのか。

 それとも本当に、待て、という音を区別したのか。


 答えは出ない。


 秤がない。

 証人がない。

 同じ条件で測った記録がない。

 別のスライムとの比較もない。


 帳簿なら、差し戻す。


 それでも、トルはその場で控えを開いた。


 待て、二度。

 よし、後に接触。

 原因、不明。

 知性、記載不可。


 記載不可。


 そう書いた瞬間、彼は自分で笑いそうになった。


 何をしているのか。


 南門の札係が、溝のスライム相手に、知性と書かないための控えを作っている。


 だが、笑えなかった。


 ぬめりは、まだ札を食っている。


 文字が消えていく。


 言葉が、食われていく。


     *


 噂は、小さく広がった。


 南門の溝に、変なスライムがいる。


 灰の札を食う。

 火の札を避ける。

 札係の声で止まる。

 同じ印の荷札ばかり痩せさせる。

 紙を食って、字だけを残すことがある。

 字を食って、紙だけを残すこともある。


 もちろん、話はすぐに変わった。


 人の言葉を喋るらしい。

 商会名を覚えるらしい。

 悪い荷だけを食うらしい。

 餌をやれば主人になるらしい。

 金貨を食わせると宝石を吐くらしい。

 強くなれば人の姿になるらしい。


 どれも嘘だった。


 少なくとも、トルはそう思った。


 スライムは喋らない。


 主人も選ばない。


 宝石など吐かない。


 人の姿にもならない。


 ただ、食う。


 紙を食う。

 字を食う。

 封蝋を舐める。

 紐を弱らせる。

 同じ印に寄る。

 声で止まるように見える。


 それだけである。


 だが、人はそれだけでは満足しない。


 弱いものが、実は賢い。

 汚れを食うものが、実は世界を知っている。

 誰にも数えられないものが、実はすべてを覚えている。


 そういう話にしたがる。


 その方が面白いからだ。


 その方が救いがあるからだ。


 貧民街の子どもは、こっそり古い札を持ってきた。


「これ、食うか」


 トルは止めようとした。


 だが、その前にスライムが動いた。


 札には、古い通行印があった。


 門番が棄てた失敗印である。


 スライムは、印の縁だけを舐めた。


 紙は残った。


 印だけが崩れた。


 子どもは喜んだ。


「印を食った」


 トルは喜べなかった。


 印だけを食った。


 その意味が、子どもには分からない。


 印だけを食えるものは、荷を別物にできる。


 通行証を別物にできる。

 商会印を別物にできる。

 封蝋を別物にできる。

 責任の線を、薄くできる。


 それは、危ない。


 便利である以上に、危ない。


 トルは、子どもから札を取り上げた。


「もう持ってくるな」


「なんで」


「溝のものだからだ」


「言うこと聞くのに?」


「聞いていない」


「止まった」


「止まったように見えただけだ」


「でも、待てって言ったら止まった」


 トルは答えられなかった。


 子どもは笑って走っていった。


 溝の中で、スライムはゆっくり動いた。


 まるで、その会話の後を追うように。


 もちろん、そんなはずはない。


     *


 商会の荷が一つ、消えた。


 正確には、消えたのではない。


 別の荷になった。


 北門を通るはずの薬草袋が、南門で干し皮として通っていた。


 荷そのものが変わったわけではない。


 荷札が変わっていた。


 商会印は薄くなり、別の封蝋が上から押されていた。

 元の行き先は読めない。

 重さの数字も端が痩せている。

 紐は一度ほどかれ、結び直されていた。


 門番は怒った。


 商会の者も怒った。


 札係たちは互いに責めた。


 誰が見落とした。

 誰が通した。

 誰が札を濡らした。

 誰が印を替えた。


 トルは、荷札の端を見た。


 ぬめり跡がある。


 南門の溝のものと似ている。


 だが、まったく同じではない。


 人の手が入っている。


 スライムが食ったところへ、人が印を押し直した。


 そう見えた。


 トルは言った。


「溝のスライムを使った者がいます」


 場が静かになった。


 すぐに笑いが起きた。


「スライムを使う?」


「荷を盗むのに?」


「お前は端ばかり見て、頭まで溶けたか」


 トルは黙った。


 笑われることは分かっていた。


 だが、言わなければならなかった。


「印の端だけが食われています。紙全体は残っている。自然に濡れたなら、こうはなりません。灰を混ぜた紙で誘って、印の縁を食わせたあと、上から押し直しています」


「証人は」


「ありません」


「見たのか」


「見ていません」


「なら、ただの推測だ」


「はい」


 推測である。


 それ以上ではない。


 帳簿なら、差し戻す。


 しかし、推測しなければ次も起きる。


 トルは続けた。


「南門の溝をさらってください。底までではなく、印紙の破片が残る程度に。灰を入れすぎないでください。火は近づけすぎないでください。動きが散ります」


「お前が命じるのか」


「いえ」


「札係が溝さらいに口を出すな」


 トルは頭を下げた。


 その場では、それで終わった。


 だが、夜になって、年老いた掃除人が来た。


「底までさらうなと言ったのは、俺たちだ」


 トルは顔を上げた。


「はい」


「だが、印紙を食うとは聞いていない」


「私も、分かりません」


「分からんものを見るな」


「見ないと、また荷が変わります」


 掃除人は、しばらく黙った。


 それから言った。


「灰は少なめだな」


「はい」


「火は」


「遠くに」


「ぬめりが散るからか」


「たぶん」


「たぶんで人を動かすな」


「すみません」


「だが、今夜だけだ」


 その夜、南門の溝は静かにさらわれた。


     *


 溝の底から、荷札の欠片が出た。


 細かいものばかりだった。


 商会印の端。

 通行印の半分。

 重さの数字の切れ端。

 行き先の一文字。

 封蝋の薄い膜。

 紐の弱った結び目。


 スライムは、石のくぼみに寄せられていた。


 潰されてはいない。


 年老いた掃除人が、灰を少しだけ撒いた。


 スライムは縮んだ。


 だが、逃げなかった。


 トルは、溝のそばにしゃがんだ。


 手には、また三枚の札がある。


 火。


 灰。


 待て。


 年老いた掃除人が眉をひそめた。


「まだやるのか」


「最後にします」


「言葉が分かると思うか」


 トルは答えなかった。


 思う、と言えば笑われる。


 思わない、と言えば嘘になる。


 スライムは、ぬめりを少しだけ広げた。


 灰の札へ寄る。


 掃除人が低く言った。


「待て」


 動きが止まった。


 トルだけではない。


 掃除人も見た。


 少し長い沈黙があった。


 それから掃除人は、わざと別の言葉を言った。


「進め」


 スライムは動かなかった。


「食え」


 動かない。


「よし」


 スライムが、灰の札へ触れた。


 掃除人の顔から、ゆっくり表情が消えた。


「……偶然だ」


「はい」


「癖だ」


「はい」


「匂いだ」


「たぶん」


「そう書け」


「はい」


 トルは控えに書いた。


 灰へ接触。

 待て、停止。

 よし、接触。

 証人、掃除人一。

 原因、不明。

 知性、記載不可。


 掃除人が覗き込み、最後の行を読んだ。


「記載不可か」


「はい」


「賢いな」


「私がですか」


「いや」


 掃除人は、溝の中を見た。


「それがだ」


 スライムは何も答えない。


 答える口がない。


 だが、灰の札を食いながら、火の札には触れなかった。


 待ての札にも触れなかった。


 ただ、灰の字だけが、ゆっくり消えていった。


     *


 翌朝、南門の不正は小さく処理された。


 荷札をすり替えた荷運びの男が捕まった。

 商会は罰金を払った。

 門番は注意を受けた。

 札係たちは、荷札を濡らさないようにという新しい注意を言い渡された。

 溝さらいの回数も、一つ増えた。


 スライムについては、何も書かれなかった。


 当然である。


 スライムは証人になれない。


 契約もできない。

 告発もできない。

 罪にも問えない。

 功も持てない。


 ただ、溝の底にいる。


 トルの控えだけが残った。


 汚れを消すもの、荷を渡る。

 印を食うもの、責任を痩せさせる。

 待てで止まり、よしで食う。

 知性、記載不可。


 その日の夕方、トルは最後にもう一度、溝を見た。


 小さなスライムは、石のくぼみにいた。


 少し小さくなっている。


 灰を撒かれ、溝をさらわれ、餌が減ったからだろう。


 トルは、不要になった小さな荷札を一枚置いた。


 何も書いていない札だった。


 スライムは、動かなかった。


 トルは、そこに一文字だけ書いた。


 名。


 スライムが、ゆっくりと寄ってきた。


 触れる。


 名、という字の端が痩せる。


 トルは見ていた。


 その字は、すぐに読めなくなった。


 スライムは、名を食った。


 名を理解したのか。


 名という形に残った墨を食っただけなのか。


 それは分からない。


 分からないから、書けない。


 書けないから、分類は変わらない。


 王立学術院の分類に、スライムの文化圏はない。


 スライムに家名はない。

 部族もない。

 長老もいない。

 王もいない。

 契約もない。

 歌もない。

 通行証もない。


 そして、名もない。


 だが、名を食うものはいた。


 言葉を持たないまま、言葉に触れるものはいた。


 民ではないものが、民の印を溶かす。


 文化圏ではないものが、文化圏の荷を渡る。


 知性なしと書かれたものが、待てで止まり、よしで食う。


 それでも、表は閉じられる。


 スライムは、ただのスライムである。


 汚れを消すもの。


 残毒を置くもの。


 そして時々、言葉を食うもの。

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