第七話:ペイフォワード
廣樹と諒が寿司屋に向かう所から話が始まります。
私達は廣樹のマンション近くにあるコインパーキングに駐車すると歩き始めた。近くには数棟のマンションや商業施設もある。立地条件が良く駐車場の利用者も多いせいか満車に近かった。
ふと、気になって廣樹に訊いてみた。
「ねぇねぇ廣樹……もしも、近くの駐車場が空いていなかったら……どうするつもりだったの?」
表参道も近い港区南青山の一角にある廣樹が住むマンション。ここは生活するにはとても便利な立地だ。その為、この辺りのコインパーキングにはかなりの需要があるだろう。そのことは不動産に疎い私でも容易に想像ができた。
大学生っぽい腕を組んで歩くカップル、携帯電話に敬語で話しながら歩くサラリーマン、暇そうに路地の端でスマートフォンを弄る若い女性、今、視界に入るだけでも数えきれない程に沢山の人間が大河の流れのように移動している。この中の数パーセントが利用したとしても、この付近のコインパーキングはすぐにでも埋まるだろう。
「もしも、空いていなかったらって? いや、それは絶対に無いよ。だってさ、ココは翔馬さんが地主だもん。それに俺は専用の管理車輌用のカードを貰っているから俺の使う1台分は必ず空いてる訳だし……」
私をチラリと見ると、笑いながら廣樹が自慢げに話をしてきた。
「ふーん! 私そんな話、廣樹からもパパからも一度も聞いて無いんだけど!」
なんとなく、自分が知らないところで談合されたみたいでなんだか面白くない。
「いやいや。だって、諒は金ケチって俺のマンションの来客スペースか、俺が借りてる月極を勝手に使うから、この駐車場を使わないだろ?」
廣樹は私を諭すような口調で話しかけてきた。
「つ、使わないけど……でも! 教えて欲しかったの!」
自分が理不尽な事を言っているのは、自分でもよく解っていた。自覚していることだが、ワガママな私はそれでも知っていたかったのだ。
「……そっか、ごめんな。前にウチに遊びに来た時にでも言っておけば良かったな」
いつもそうだ。廣樹は私の理不尽なワガママにも優しく応えてくれる。なんでこんなに廣樹は人に優しく出来るのだろう? それを自分だけに向いた特別なものと勘違いした事もあったし、きっとこれから勘違いする女も沢山いると思う。それから私達はそんな駐車場の会話をしながら、タクシーを拾う為、大通りへと向かって歩き出した。
私はこの道がとても好きだ。今になって思えば、あの頃は車の話がすべてだった。当時、廣樹とこの道を歩きながら沢山の車話をした。私にとってブローカーのスタートラインになったこの道はとても大切な思い出だ。そして今も廣樹とこの道を二人で歩いている。もしも、今夜が二人の恋のスタートラインになったのなら……それはどんなに素敵な事だろう。最近、私が女らしく在りたいと思うことが多いのは、きっと、廣樹にもっと可愛いとか綺麗と思われたいからだと思う。
「諒ってさ、なんか……最近、雰囲気が変わったよな? 女らしくなった……って言うか、色っぽくなったっていうか……出会ったばかりの頃はガサツなところや口調もあったけど、今は女らしくなったよ」廣樹が前触れも無く私に話しかけてきた。
「そ、そうかなぁ……もし、そうならそれは廣樹の影響だと思うよ?」
廣樹の横を歩きながら話した。ちょっとワザとらしく笑顔を作ってみた。
「……そっか」
廣樹は私をチラ見すると、少しの沈黙後に少し照れた感じで口を開いた。
「なんかさ……別に……大して深い意味は無いんだけどさ、女子にそう言われると……男としては気分的にちょっと嬉しいな」
いつもと違い、照れながら話す廣樹が少し可愛く思えた。廣樹は誰かに束縛される様な人間では無いけれど、そんな台詞を言われたら……つい束縛したくなってしまうのが、女というものだろう。今の自分ならその女心を痛い程にわかる。
廣樹は通りに出ると道路に向かって手を上げた。通りには賃走中のタクシーが何台も連なり走っていた。一台一台が国道を同じ方向に向かって走っていく、それはまるでイエローフラッグを振られたサーキットを追い越し出来ずに定速走行しているような光景だった。近くで降りる人がいたので、私たちは運良く一台のタクシーを捕まえることが出来た。廣樹は私を先に乗せると、タクシーに後から乗り込み、運転手に目的地を伝えた。車内にはラジオが小さな音量で流れていた。私は全く興味が沸かないプロ野球の中継だった。子供の頃から、何故、大人がプロ野球に夢中になるのか不思議で仕方なかった。
「ねぇ? 廣樹もプロ野球が好きなの?」ふとした疑問から訊いてみた。
「ん? 俺か? 俺は嫌いじゃないけど……好きでもないかな。ただ、母校は野球強かったぜ。だからって、別に甲子園の応援はしなかったけどさ。純也と京子も同じだったな」
質問の反応からあまり野球に興味が無さそうに思えた。野球にそこまで興味が無い事を確認できた。タクシードライバーは気分は知らないが、廣樹の気分を害さないと確信したので、もっと思った事を訊いてみることにした。
「そっか。なんで大人の男って、野球が好きなんだろうね?」
「そりゃあ、自分が諦めた夢を重ねてるんだろ? 人それぞれ違うけれど、プロ野球選手の活躍とか、格闘技の強い男とか、自由に生きているヤクザがカッコよく見えたりするんだろ? 男ってさ、単純な思考回路だから、誰だって好きな女や家族、それに知り合いの前ではカッコよくありたいんだよ」
「……そっか。なんか……説得力ある回答」
廣樹の答えは、まるで水に入れ溶ける砂糖のように、私の中にあった長年の謎を解いてくれた。いつも思うが廣樹は私の質問には必ず答えてくれる。人が知らないような事も知っている。それにコミュニケーション能力が高くて、すぐに誰とでも仲良くなる。今もそうだ。タクシーの運転手と天気の話から始まり、気づいたら私も一緒になって最近の政治家の話で盛り上がっていた。そう言えば、私も廣樹と初めてあの公園で出会った日、一時間もしたら……幼い子供とはいえ仲良くなっていたっけ。そんな事を思い出したせいもあり、思わずクスりと笑ってしまった。
それから二十分程走ってタクシーを降りた。まだ街の整備が終わりきっていない路地を、少し歩くと夜の街に紛れた雑居ビルの隅に小さく佐助と書かれた看板があった。入った店は外観からの予想に反して中はウナギの寝床のように細長い造りだった。
「相良さん、今日は何がおすすめ?」
廣樹はこの店舗に余程通っているのだろう。相良と呼ばれた男の前に通されると迷いもなく座った。寿司屋で大将の前に通され座る事を許される客は少ない。なぜなら、殆どの寿司屋の大将は常連としか話さないからだ。和服が似合う綺麗な女性が手慣れた仕草で、お茶と小皿を二人分用意し、一度店から出るとすぐに戻り会釈しながら一度奥に消え、再びカウンターに戻った。廣樹が割り箸の紙を手慣れた仕草で折ると、あっという間に箸置きになった。その仕草を見て思わず慣れてるなと感心した。
「オススメですか? そうですねぇ……今日はイワシと本マグロの赤身が良いですよ。それに廣樹さんが好きな氷下魚の卵と、良いカジキが入ってますね。でも……廣樹さんはいつも僕にお任せでしょう?」
相良はそう言うと笑いながら何かを握り始めた。
「はじめまして。私は芹沢と申します。今日はよろしくお願いしますね」
私は、一応、挨拶だけはしておこうと思った。人との挨拶は大事だ。だが、廣樹と出会ったばかりの私はそんな社会人として当たり前の事も知らなかった。今になって思えば、まともな職に就けなかったり、仕事で苦労したのは自業自得だと思う。社会人とは真面に挨拶も出来ない人間とは付き合おうとしないものだ。
「はじめまして。店主の相良と申します。こちらは妻になります。でも、廣樹さんが女性の方をお連れするなんて……珍しいですね」
大将の相良は私に自己紹介をした後に廣樹に話を振り、廣樹は出されたおしぼりで手を拭きながら相良にいった。
「あれ? そうだっけ? 今まで寿司好きなツレがいなかっただけじゃない?」
「えー。本当にそれだけですか?」
相良はそう言ってクスりと笑うと、続けて何かを握り始めた。
「あら? そうでしたっけ? 廣樹さん、前にウチは自分の隠れ家的な特別な場所だから、彼女か親友しか連れて来ないって前に話してましたよ?」
相良の妻が後ろから話に混ざるように廣樹に話しかけてきた。
「あ、わかった! 廣樹さん、可愛い彼女さんだから照れてるんでしょ?」
「女将さん、可愛いって誰の事を言ってるの?」
廣樹は茶を啜りながら女将さんの方を見た。
「そんなの芹沢さんに決まってるでしょ?」
廣樹は私の頭を優しく撫でながら話しかけてきた。
「だってさ、良かったな諒。女将さんが可愛いってよ」
私は少し照れながら、勢いで廣樹に訊いてみた。
「……廣樹はどう思ってるの?」
廣樹に訊いたまでは良かったが、その直後から胸の鼓動が速くなるのが自分でもよくわかった。
「俺?」
廣樹はそういうと私を横目で見て、微笑しながら急に敬語で続きを話した。
「諒さんは……いつでも可愛いんじゃないですか?」
なんだか微笑して言われると、イマイチ説得力に欠ける。それでも嬉しかった私は煙草を吸って高鳴る気持ちを落ち着かせたかった。しかし、寿司屋で煙草は禁忌だ。
「……あ、ありがとう」
私は照れてしまい、俯きながら小さな声で答えると店内に一斉に笑い声が広まった。それから大将の相良さんは、この手の店に不慣れな私に丁寧に説明し、色々な寿司を握ってくれ事細かにお薦めの食べ方まで教えてくれた。廣樹が箸の包みを折り紙みたいに綺麗に折って作った箸置き。気になって尋ねると、廣樹は箸置きの折り方を笑いながら一から丁寧に教えてくれた。これが次から出来ると思うと食通になったみたいで、なんだか無性に嬉しかった。しばらくして横で廣樹が日本酒の飛露喜を頼んだ時、廣樹が飛露喜なんてまるで洒落みたいで思わず笑ってしまった。
飛露喜は、廣樹達が住んでいた東北地方にある福島県会津坂下町にある廣木酒造本店の日本酒で、古くから「泉川」の銘柄で親しまれてきて、廣木健司という人が家業を継ぎ、平成十一年に世に送り出した新ブランド「飛露喜」(ひろき)は瞬く間に日本酒界を席巻したそうだ。甘み、旨み、香りが三位一体となった、いつ飲んでも旨いオールマイティな日本酒らしい。ちなみに飛露喜は「喜びの露が飛び散る」ということを相良さんが教えてくれた。日本酒が苦手な私でさえも、この日本酒だけは好きになれる気がする。喜びの露が飛び散るなんて、まるで幸せを周りに与えている廣樹みたいなお酒だなと思ったがあえて口にはしなかった。廣樹が生まれたから世に出た日本酒だからあり得ないが、廣樹の名前の由来はこの日本酒からきてるのではとまで思えた。
食事が済んでしばらくした時、廣樹がマネークリップから二万円を引き抜いた。お会計と言う言葉を聞いた時に時間が気になり、壁の時計を見たら午後九時半くらいだった。この時にやはり腕時計は無いと色々と不便だと改めて実感した。
「相良さん御馳走様、相変わらず美味しかったです」
いくら廣樹が値段も見ない客とはいえ、こんなに良い店なのに私達が来てから誰も来ない。それで商売出来るのは不思議だった。しかし、暖簾を潜るとその理由はすぐに解った。入る時は営業中だった看板が、貸し切りに変わっていた。
「廣樹って凄いなぁ。こんな店でも特別扱いなんだ」
私は素直にそう思った。裏路地を表通りに向かう途中、その事を話すと予想外の答えが返ってきた。
「いや、確かに常連だけど、別に特別扱いって事はないよ。相良さんがバイクの事故で怪我して入院してた事があったんだ。それで店をやれない間に銀行のローンを返せない期間があってさ、その時に銀行と交渉する為に純也を紹介したんだけど……それで女将さんと一緒に銀行に行ったら、純也さ、行員の威圧的な態度が頭にきたらしくてさ「分かりました。今日時点の利息含めていくらですか? ウチに借り換えてもらうので自分が一括で払います。口座から金を出すんで引き出しの紙くれますか?」と言って相良さんが借りた金を払ったんだよ。だからさ、俺はあんまり関係ないんだけど、純也を紹介してくれたって相良さん夫妻に感謝されて、こうなった訳なんだ。それにしても、その行員は上司にどんな弁明したんだろうな?」
「あはは。なんだか……純也くんらしいね? でも、廣樹が立て替えれないような額だったの?」
「何百万だから立て替えることは出来たけど、俺は純也と違って俺は金融免許持ってないからさ。最悪、払えなくなった時に関係が壊れたり、ややこしくなるからさ。それに金融免許取るには国家資格も要るし、五千万円以上の純資産額も必要だから」
「ははは……そうなんだ。それじゃあ……仕方ないね」
私は金融免許を取る為、その額を用意できた純也くんを改めて尊敬した。
私達は人の疎らな路地を抜け、一本外れた通りをしばらく歩いた。二軒目は廣樹がよく行くという地下のバーで飲む事にした。店はカウンターがメインでL型の作りだった。満席で十二、三人というところだろう。店にはカップルが一組いたが、私達が来ると会計を済ませて出ていった。廣樹は話していた通りこのバーの常連らしく、カウンターに座ると女性バーテンダーが親し気に話しかけてきた。セミロングの髪を後ろで結わいていた。見た感じ、彼女の年齢は私より少し下だろう。
「あら、廣樹さん。今日は違う友達とご一緒ですか?」
バーテンダーはグラスを拭きながら親し気に話かけてきた。
「違う友達って……ちょっと! 女連れてる男にアンタいきなり失礼じゃない?」
カチンときた私はお酒が入っていたこともあり、思わず声を荒げてしまった。
「すみません。でも、廣樹さんお連れの方は自称彼女の方が多いので……。それに廣樹さんからも、女性にはこう言ってくれと頼まれてますから」バーテンダーは笑顔になると意味深に答えた。
「ふーん、廣樹ってモテるもんねぇ~」
「……ありがとうな」少し呆れ気味な口調でゆっくりと話した。
デニムのポケットからマルメンを出すとZIPPOをカチャンと鳴らし火を点け、煙草を深く吸い込み紫煙を吹き出した。
「今日のオススメカクテル二個作ってよ。あと、自分用に好きなの作って」
バーテンダーに一杯ごちそうするなんて、実に廣樹らしい。カクテルを作りながら、まるで思い出した様に話しかけてきた。
「そういえば……一人だけいらっしゃいましたね? 私にそう言われて笑って「違います」とおっしゃった方が……」
「えッ? 誰それ?」その台詞に私は思わず食いついた。
「あのー、廣樹さん?」
バーテンダーは廣樹に話して良いか、と尋ねるような表情を向けた。
「別に話して良いよ。コイツもよく知ってる人間だし……」
廣樹は煙草の灰を灰皿にポンポンと落としながら答えた。
「……確か……京子さんと言う方で、「違います。元カノですから」とおっしゃられていましたね」
その名前を聞き、ヤキモチを感じた自分がバカみたいに思えて、お腹を抱えて笑ってしまった。
「なるほどね……京子か、そりゃあそうだよね。本当に元カノなんだから」
出されたカクテルは綺麗な水色で、スカイブルーというオリジナルだそうだ。飲んだ感じはさっぱりして飲みやすいし、アルコールも低めで数もイケそうだ。私も煙草に火をつけると、紫煙を天井に向かって吹いた。まさかここで親友の名前が出てくるとは想像もしなかった。だが、よく考えれば簡単にわかる答えだった。
「廣樹、今って何時? 私さ、翔馬さんにメールする用事があったんだ。まだ起きてるかな?」
廣樹は右手に付けた腕時計を見ると、だいたい十時四十分くらいだと教えてくれた。時間を聞いた私は、忘れないうちにと急いでメールを打ち、すぐに翔馬さんに送信した。
「諒さ、時間を気にするくらいなら、腕時計くらいは着けたら?」呆れた口調で話しかけてきた。
「うん。いつもは着けているんだけど、今日は時計の電池が切れちゃってさ。前に廣樹が貸してくれた本に書いてあった、必要な時に必要な物が使えないマフィーの法則ってヤツかな?」
私は笑いながら話し、時計の電池切れに気づかなかった自分のズボラさを誤魔化した。
「そっか、人生のあるあるってヤツね」
廣樹は再び腕時計を見ていた。おもむろに右手から腕時計を外し、おしぼりでガラス面を拭くと私の前にそっと置いた。
「コレ、俺のお古だけど諒にやるよ。これはチタン製で軽いし、サファイアガラスだから傷もつかないし、電波ソーラーだから電池が切れないし、時間合わせすらも必要ない。おまけにタイドグラフもついてるから潮の満ち引きまでもがわかる優れものだ。俺のサイズだから少し緩いかもしれないけど、そこらの時計屋でサイズは調整してもらえよ」
「え? ほんとに? 本当に良いの? 言ったな! もう返さないからね!」
そう言うと私は早速着けてみた。確かに緩いが、ブレスレット感覚で考えればこのままで良い。パープルグレーの文字盤をしたクロノグラフで文字盤の色も綺麗だし、留め金も継ぎ目がわからないオシャレなデザインだ。私はすぐに気にいった。
「それ……あげちゃうんですか? その時計、私も好きだったのに……」
バーテンダーは残念そうに私の腕を見ていた。こんな事を言うと、器が小さいと言われるかもしれないが、自分がまるで廣樹の彼女みたいな気がして優越感を感じていた。
「へぇ、そうだったんだ。このオシアナスは十万くらいで買えるけど、だいぶ前の廃盤のモデルだからな。それに、もう諒にあげちゃった時計だしな……」
廣樹は煙草を吸いながら、何かを考えている様子だったが急に明るい顔になった。
「そうだ! 諒に売ってもらったら? 諒もその金で新しい好みの時計を買えるし……」
「イヤ! 絶対にヤダ! この時計気にいったし、絶対に売らない!」
廣樹から貰ったプレゼントで、デザインも気にいったのに冗談じゃない。それに廣樹が着けていた付加価値もあるのだから尚更だ。本当に廣樹という男は女心ってモノを全然理解していない。
「そっか、我ながらいいアイデアと思ったんだけどなぁ。今度型番教えるから探してみたらって言いたいけど、当時雑誌で見た俺も、この時計探すのに何件も回ったからな……」
「そうなんだ。じゃあ見つからないかもしれないし、違うの買った方が早いね」
人間が小さい私は同じ腕時計が見つからない事を心から願った。
廣樹は私をチラリと見ると呆れ気味に小さな溜め息をついた。
「なんか……喉が渇いたな。タンカレーのジントニック一つ作ってよ。諒は何が良い?」
私はメニューを見ようとしたが辞めた。
「じゃあ、私もそれで」
タンカレーの話で盛り上がった流れで、昔、このバーのタンカレーを全て飲み尽くした女性がいるという話が出てきた。飲み干したと聞いた時は驚いたが、それが酒豪の京子と知った時は何故か納得出来た。私もきっと廣樹となら安心して酔いつぶれる事が出来ると思う。廣樹の横顔を見ながら私はそんな事を思った。
廣樹は店内を見渡すとバーテンダーに話しかけた。
「ところでマスター……今日休み? 久しぶりに藤田さんに会いたいから来たのに」
「はい。マスターは臨時で今日は休むそうです」
「……オッサン、また客に手を出したのかよ」
「……アハハ、手を出したなんて……人聞きが悪いですって。でも、今日はお連れ様もいますし……逆に良かったんじゃないですか?」
「いや、別に俺は……構わないけど」
それからしばらく飲むと、廣樹は今までのカクテルではなく、急にウイスキーをロックで頼んだ。バーテンダーは氷をアイスピックで丸めてグラスに入れると、ウイスキーの響を注ぎ、ビールジョッキに注がれた特大のチェイサーと一緒に廣樹の前にそっと置いた。
それを見て私は飲んでいたジントニックを吹き出しそうになった。普通、チェイサーと言えばグラスだろう。廣樹のチェイサーは特大過ぎだ。
「ちょっと! 何よソレ! サイズが特大過ぎでしょ!」
「だって、ロックだとキツイからさ」
「……だったら、飲まなきゃ良いじゃない」
まるで廣樹に助け船を出すようにバーテンダーがいった。
「まあまあ、別に廣樹さんらしくて良いじゃないですか」
私達三人はその後、世間話でしばらく盛り上がった。財布に携帯電話、当時に流行ったゲームなど色々な話で盛り上がった。
廣樹が煙草を持ちながらまるで呟くように話し出した。
「よくVシネマとかでさ、ヤクザがカウンターの隅でコレを一人でチビチビ飲んでるんだけど、なんかカッコイイと思ってさ、たまについつい真似しちゃうんだよな」
そんな事を言うなんて、お酒がだいぶ回ってるんじゃないかと少し心配になった。
「ちょっと、廣樹ってば大丈夫? 少し飲みすぎなんじゃないの?」
「いえいえ、廣樹さんはいつも最後はそう言って、〆るので大丈夫ですよ。もしかして、廣樹さんとお酒飲むのは今回が初めてですか?」
バーテンダーはクスクスと笑うと、半分ほど飲んだジョッキとは別に、大きめのグラスにミネラルウォーターを入れて廣樹に差し出した。なんとなくだが、女の勘で今までのバーテンダーの行動を見ていると廣樹に対して特別な感情がある気がした。
廣樹はウイスキーを少し残すと、そのグラスの水を一気に飲み干した後、ちょっとトイレと言って席を離れた。廣樹がトイレに入るとバーテンダーは急に私に優しい声で話しかけてきた。
「あなたは廣樹さんの彼女になりたいですか?」
こうゆう時に限って、女の嫌な勘はよく当たるものだと実感した。
「私は……」
本当は頷きたかった。だが、何故かその続きの声が出なかった。
「……私はなりたいです。廣樹さんみたいに人を喜ばす事が本当に好きな人ってなかなかいませんから。私は廣樹さんなら……きっと、お付き合いしている人を心から幸せにするんだろうなっていつも思いますから。……でも、廣樹さんは鈍感だし……私は半分諦めてますけどね?」
笑って話したバーテンダーの気持ちが、痛いほどわかって何だか親近感が沸いてきた。
「私も……彼女になりたいな」
今度は声を出していう事が出来た。
「私も廣樹の事がとても大好きだから」
正直な気持ちも声を出して言えた。廣樹の優しさは本当に女を傷つけると改めて思った。
「じゃあ、ライバルですね。私は木村愛花って言います」
「私は芹沢諒。女には絶対に負けられない戦いがあるってヤツ?」
お互いの自己紹介を済ませ大笑いした後、私たちはビールで乾杯した。乾杯したビールはまるで何かを祝う様に金色に輝き、冷たさが喉を抜ける爽快感は格別の味がした。私達が気分よくいっきに半分くらい飲んだ直後、廣樹がトイレから戻ってきた。
「あれ? どうしたの? 二人ともいきなり仲良さそうじゃん」
「ヒ・ミ・ツ」
二人でハモるように答えた。私達は半分ほど飲んだグラスで、音をたててもう一度乾杯した。
「ふーん。俺は仲間外れか」
そういうと廣樹は残り少ないウイスキーをチビチビと飲みだした。それから一時間ほど三人で他愛もない話に華を咲かせた後、お開きにする事にした。廣樹はマネークリップから二万円出すとカウンターに置いた。
「じゃあ、これで会計して。御釣りは要らないから」
そう言って再びトイレの方向に歩き出した。
「ね? 廣樹さんってカッコいいでしょ? あの人って絶対に女性にお金を払わせないんですよ」
愛花が私にウインクしてきた。
「確かにそうね。あんな風に言われたら割り勘なんて言えないもんね」
普通はキザな男と思う仕草でも、恋心があるとそれがカッコよく見えるから女心は不思議だ。
廣樹はトイレを出るとこちらを見てから、ゆっくりと出口に向かって歩き出した。
「また来るから。その時は二人でゆっくり話しましょう」
私はそう言うと、愛花に笑顔を返して廣樹を追いかけた。
再び地下から地上へと出てきたが、通りは時間が時間なだけに人はまばらだった。それから私達は何気ない会話をしながら、少し酔いを醒ますようにゆっくりとした歩調でアテもなく彷徨うように街を歩いた。たどり着いた小さな公園で、自販機で買ったペットボトル入りのミネラルウォーターをベンチに座りながら飲んでいた。先に口を開いたのは私だった。
「これからどうしようか?」
「そうだなぁ……流石に朝まで飲むわけにはいかないし、俺も結構酔ったからな」
廣樹はポケットを漁り煙草を取り出し、ゆっくりと煙草を咥えると火つけた。
「ふー、ホントどうしよっか?」
「……ホテル……行く?」
酔っていた私は、素面だったら言えないような言葉を普通に言ってしまった。
煙草を咥えたまま、私をチラリと見た廣樹は、クスっと鼻で笑った後、紫煙を吐き出しながらゆっくりと口を開いた。
「アハハ、もちろん……行かない。もし、そんな事したら……きっと……俺は……諒に……いや、やっぱり何でもないや」
「続きを言いなさいよ。そんな事言われたら……誰だって気になるじゃん!」そういって言葉の続きを求めた。
「やっぱり……言わないと……駄目?」
廣樹は煙草を地面に落とすと、靴でグリグリと消した。
「当たり前でしょ! 男なんだからそんなの駄目に決まってるじゃん!」私は強く続きの言葉を求めた。
「……そっか。男だからか」
廣樹はしばらく黙った後で話し出した。
「そうだよな。やっぱ……男らしくないよな」
廣樹は軽く溜息をついた。
「そんな事したら……俺は……諒に……もう……心から……好きだって……言えなくなっちゃう……気がするんだ……よね」
「え? なんで?」私は驚きから思わず声が出た。
廣樹の口から「好き」なんて言葉を聞くとは予想もしていなかった。
「……なんで言えなくなるの?」
「……だってそうだろ? ……もし……二度目の関係を……ちゃんと付き合う前に持ったら……それがあったから……付き合ったって言い訳になっちゃうだろう?」
その言葉を聞いた私は嬉しさが溢れだしそうだった。横に座りながら話す廣樹は酔いのせいか少し虚ろな瞳で私を見ていた。
「今まで……誰かに対して……こんな気持ちになった……経験があまり無いからさ……よくは解らないけれど……俺は……たぶん……自分でも……よくわからなけれど」
廣樹は再び煙草に火を点けると、深く吸い込み紫煙を吐き出した。
「……諒に……恋してる……そんな……気がするんだ」
言い終わると、今度は煙草を深く吸い込み紫煙を地面に向かいゆっくりと吐き出した。
「……なにそれ? ……酔ってる時に言うなんて……そんなのズルいよ」
私にとってその言葉は、どんな酔い覚ましよりも強力だった。
「……ごめんな。俺ってビビりだからさ……これくらい酒でも入ってないと……こんな気持ち……」
廣樹は短くなった煙草を吸いながら話を続けた。
「……諒に言えなかったんだ。……本当に……ごめんな」
私は気づくと立ち上がり、廣樹と長いキスをしていた。廣樹が使うオードトワレのマリンウッディノートの香りと唇から感じた水の冷たさが心地よかった。
「……勘弁してよ。……こんな事されたら……気持ちに……歯止めが効かなくなるじゃない」優しくゆっくりとした声で囁いた。
「……俺さ……どこかで勝手に決めてたんだ。……付き合うにしても……諒が……ブローカーって夢に……心から……満足するまでは……どれだけ……かかっても……良いから……待っていようってさ」
廣樹は酔った眼差しで、まるで子供を見守る親のような優しい笑みで私を見ていた。
「……男なら……責任を取らないと……いけないだろ?」
廣樹は再び煙草に火を点けると、ゆっくりとそして深く煙を吸い込んでから吐き出した。
「好きな女が……描いた夢も……初めての関係も……さ」
そして、もう一度煙草を吸うと軽く吹き出し続けた。
「俺ってさ……欲張りだから……もし……夢に満足したなら……ずっと……隣で笑っていて欲しいんだ」
「私……よーく解ったよ? 廣樹って男の器のデカさがさ」
私は廣樹の方に寄りかかり、煙草に火を点けて軽く吸った。そして手に持った煙草を見つめながら聞いてみた。
「……廣樹は私に煙草を辞めて欲しい?」
「ん? どうしたの急に? そんな事を聞いてさ」
廣樹は不思議そうに私の事を見た。そして次の瞬間、左右に首を振った。
「……言わないよ。自分がヘビースモーカーなのに……異性にそれを求めるなんてアンフェアだろ?」
「ウフフ……たぶん……そう言うと思った」
私は煙草を深く吸い込むと紫煙を思い切り夜空に吐き出した。
「私もね、欲張りで……ワガママだから……夢を追いながら……廣樹も手に入れたいんだ」
「……なんだそれ? ……諒さんは相変わらず……ワガママちゃんですね?」
廣樹は私の肩に手を回すと軽く撫でながら話を続けた。
「なんか……気持ちが……すごいスッキリしたよ」
「……これからどうする?」私は廣樹に寄りかかったまま聞いた。このまま時間が止まればいい、そんな事を思った。
「……どうしよっか?」
廣樹は星も見えない都会の夜空を見上げながらゆっくりと話した。
「質問に、質問で返すのは禁止です」
廣樹の方を見て今夜は廣樹にとことん付き合おうと思った。
「そう来ましたか。じゃあ、そろそろ帰ろうか?」
廣樹は私の頭を撫でながら話した。
「……じゃあ、今日も廣樹んちにお泊りしようかな。シルビアも停めてある事だしさ」
そう言って私はベンチから立ち上がった。続いて廣樹が立ち上がると私は腕を絡ませてみた。
「……なんかさ、すごく歩きづらいんだけど」
廣樹が私を見ながらポソリと話してきた。
「……良いじゃん! 別に」私は笑顔でそう答えた。
自分が好きな車を題材にしました。自分の小説は基本同じ時間軸の同じ登場人物になります。