第38話 絶望の男
【仲根涼子視点】
客の怒号が飛び交い、大炎上状態となった『|SunSunDiner』の店内。
私は、レジカウンターの端に立ち、目の前で繰り広げられる地獄絵図を氷のように冷ややかな目で見つめていた。
「金返せ! こんな生焼けの肉、食えるわけないだろうが!」
「保健所に通報してやるからな! バイトの態度も最悪だ!」
次々と押し寄せる客からのクレームに対し、社長である潤は完全にパニックに陥り、顔を真っ赤にして言い訳を叫んでいる。しかし、接客業をしたことのない彼の言葉は火に油を注ぐだけで、店内は収拾のつかない混乱状態に陥っていた。
エプロンのポケットの中で、スマートフォンがけたたましく連続振動を続けている。
画面をそっと開くと、表示されているのは、かつて私たちが結成した『秘密の同盟♡』というグループLINEだった。しかし、そこに以前のような馴れ合いは微塵もない。
『モモが床のストロー刺したのが悪いんじゃん!私関係ないし!』
『はぁ!?莉乃ちゃんが動画アップしたせいで炎上したんでしょ!?全部莉乃ちゃんのせいじゃん!』
『てか社長が生肉出したのが一番の理由でしょ!あの無能マジで使えない!』
かつては潤をチヤホヤし、競うように愛人の座を争っていた女たちのグループLINEは、今や互いに責任をなすりつけ合い、罵倒し合うだけの醜悪な地獄絵図へと変貌していた。
私は、フンと鼻で笑い、スマートフォンの電源を落とした。
「馬鹿な女たち。こんな泥舟で言い争って、何の意味があるの」
損得勘定に長けた私の冷徹な頭脳は、すでにこの先の展開を完全に弾き出していた。
極上のハンバーガーを作り出していた紗枝が抜け、仕入れ業者にも見放されたこの店に、もはや再起の道はない。おまけに、衛生管理法違反まがいのバイトテロ動画が拡散され、社会的信用も完全に地に落ちた。
そして何より、目の前で汗だくになって客に怒鳴られているあの男には、莫大な慰謝料と損害賠償という名の巨額の借金だけが残されているのだ。
「お金のない男には、もう用はないわ」
私は誰に聞こえるでもなく、冷たくそう呟いた。
客が次々と返金を求め、怒り狂って店を出ていく中、私は一切の感情を排した無駄のない動きで、レジスターの前に立った。
潤は、フロアの真ん中で泣き喚く桃華と莉乃に囲まれ、「お前らのせいだ!」と怒鳴り散らすのに夢中で、レジの方など全く見ていない。
私は、レジの引き出しを静かに開けた。
中には、本日の釣り銭用の準備金と、わずかばかりの初期の売上金が入っている。大した額ではないが、手ぶらで帰るよりはマシだ。
私はためらうことなく、そこにある数万円の札束をすべて鷲掴みにし、素早く自分のエプロンのポケットへと滑り込ませた。
一番早く潤を見限り、店の資金をこっそりと持ち逃げする。それが、最も計算高く冷淡な私の選んだ「退職金」の受け取り方だった。
「……おい、涼子! 何ぼーっとしてるんだ! お前も手伝え!!」
ようやくレジ前にいる私に気づいた潤が、血走った目で叫んだ。
私は、抜き取った紙幣が入ったポケットを軽く手で押さえながら、潤の方へとゆっくりと向き直った。
私の瞳は、彼がかつて知っていた「従順な愛人」のものではなく、路傍の石を見下すような絶対的な冷ややかさを帯びていた。
「手伝う? 私が? どうして?」
「どうしてって……俺は社長だぞ! 今までお前に、どれだけ高いブランド品を買ってやったと思ってるんだ!」
「それは、あなたが私にとって都合のいい『ATM』だったからよ」
私の氷のような宣告に、潤は息を呑んで硬直した。
「経営センスも才能もない。ただ奥さんに寄生して見栄を張っていただけの、借金まみれの無能な男。……お金のないあなたになんて、もう一ミリの価値もないわ」
私は、首から下げていた店のロゴ入りエプロンを外し、油で汚れた床の上にポイと投げ捨てた。
「あの二人なら、グループLINEで絶賛、責任のなすりつけ合い中よ。せいぜい、慰謝料の支払いと炎上の事後処理、頑張ってね。私は抜けるから」
私は、潤が止める間も与えず、バックヤードへと通じる扉を開けた。
振り返ることなく勝手口から外へ出ると、私はすぐさまスマートフォンの操作を始めた。
『秘密の同盟♡』のグループから抜け、潤の連絡先を完全にブロックする。一切の未練も後悔もなく、私は冷たいヒールの音を響かせて、泥舟からいち早く姿を消した。
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【潤視点】
バタン、と。
バックヤードの重い鉄扉が閉まる音が、絶望の鐘のように店内に響いた。
「あ、あいつ……逃げやがった……!」
俺は慌ててレジスターの中を確認した。
空っぽだった。札が綺麗に抜き取られている。涼子の奴、最後に店の金まで持ち逃げしやがったのか。
「社長ぉ! モモ、もうこんな店辞めますぅ! 慰謝料なんて絶対に払わないからね!」
「私だって払わないし! 動画の件で訴えられたら、社長のパワハラのせいにしてやる!」
フロアでは、桃華と莉乃が泣き喚きながら、俺に罵声を浴びせかけている。
「うるさい! お前ら全員、俺の金でいい思いをしてきたくせに……っ!」
俺は怒鳴り返したが、もはや彼の言葉には何の力もない。
客は一人残らず消え失せ、残されたのは、焦げ臭い生焼けの肉の匂いと、床に散乱したゴミ、そして、自分を軽蔑し罵倒する愛人たちだけだ。
ポケットの中のスマートフォンは、今もなお、SNSの炎上を知らせる通知で狂ったように振動し続けている。
信用も、金も、従業員も、そして客も。
自分が「社長としてのカリスマ性」で手に入れたと信じ込んでいたすべてのものが、ただの砂上の楼閣であったことを、俺はついに理解した。
「あ……ああ……っ」
膝から力が抜け、油で黒ずんだ床の上に、ドサリと崩れ落ちた。
虚ろな視界の先、店の大きなガラス窓越しに、大通り沿いの広場が見える。
そこには、紗枝のキッチンカーに並ぶ、途切れることのない人々の大行列があった。
彼女が作ったハンバーガーを手に、客たちが満面の笑みを浮かべている。そしてその中心で、紗枝は、かつて俺が見たこともないほど生き生きとした、料理人としての誇りに満ちた美しい笑顔を咲かせていた。
紗枝が取り戻した完璧な光の世界と、自らの傲慢さが招いた、薄汚く暗い絶望のどん底。
残酷すぎるその対比を突きつけられながら、俺は誰もいない閑散とした店内で、ただ惨めに頭を抱えることしかできなかった。




