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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第2章 救われたものたち

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第5話 新参信徒

 翌朝、聖光団の施設は驚くほど静かに始まった。


 静か、というより、音の置き方が整っているのだと、ルゥ=イリスはすぐに気づいた。まだ日も高くないうちから、どこかで水を汲む音がする。寝具を畳む布擦れ。板床を拭く手ぬぐいの湿った往復。食堂の方では木椀を重ねる乾いた音がいくつか続き、その隙間を縫うように、小さな祈りの声が落ちる。


 誰も急いでいないのに、誰も滞っていない。


 昨夜、あの地下で耳が落ちる音を聞いた同じ建物だとは、信じにくかった。上階へ戻ってから、ルゥはほとんど眠れていない。瞼を閉じるたびに、銀盆の上の白布が見えた。泣きながら礼を言う女の声と、その奥で何かが削がれていく静かな音が、朝になってもまだ耳の内側にこびりついている。


 それでも施設の朝は来る。

 誰にとっても同じ顔をして。


 大部屋の扉が開き、年配の女信徒が穏やかな声で起床を告げた。


「朝の支度を。手の空いた方から食堂へどうぞ」


 怒鳴りも、命令口調もない。ただ、言われた方が自然に従いたくなる声音だった。寝台から身を起こした者たちも、それに反発する様子はない。あくびを噛み殺す者、寝ぼけ眼のまま毛布を畳む者、痛む膝をさすりながら立ち上がる老人。皆がそれぞれ疲れているはずなのに、空気は不思議と荒れない。


 ルゥは髪を整え、耳を隠すように結び直した。獣人の耳は人より目立つ。昨日、炊き出しの広場で出会ったミナはそれを気にする様子もなかったが、誰もがそうとは限らない。まして今の自分は、新しく保護されたばかりの流れ者だ。目立ちすぎるのは得策ではない。


 部屋を出ると、廊下はもう動いていた。


 朝の白い施設は、夜よりさらに白い。窓から差し込む薄い光が壁を均一に照らし、床板に落ちる影まで整って見える。掃除の行き届いた廊下には、薬草や汗の匂いがほとんど残っていない。人がこれだけ寝起きし、食べ、咳き込み、暮らしているはずなのに、生活の濁りが薄い。


 外の宿屋なら、朝はもっと雑然としている。階段を駆ける足音。誰かが吐く音。喧嘩の名残。昨夜の酒の匂い。角持ちの客が寝台の枠に頭をぶつけて悪態をつく声。翼持ちの旅人が狭い廊下で羽を畳みきれず壁を擦る音。


 ここには、そういう生活の余白が少なすぎた。


「ルゥ」


 呼ばれて振り向くと、廊下の先にミナがいた。


 昨日と同じ、白ではない灰色の作業着姿。腕には畳んだ布を抱えている。額のあたりから覗く小さな角は相変わらず隠しきれていないが、本人は気にしていないらしい。むしろ、隠す努力を途中でやめた人間の落ち着きがあった。


「おはよう」


 そう言う声の奥に、無理な明るさはない。寝不足の鈍さは少しあるが、それだけだ。


「……おはよう」


 ルゥも返す。


 ミナは近づいてくると、抱えていた布束の上から一枚だけ取り分けた。


 「それ、朝の分。新しく入った人は場所がまだ分かりにくいから、先に持ってた方がいいって」


 差し出されたのは、清潔な手拭いだった。昨日見たものと同じ、ところどころ補修された布。丁寧に洗われているが、使い込まれていることは分かる。


「……ありがとう」


「うん」


 それで終わる。

 恩に着せる様子もない。


 ルゥは布を受け取った。やわらかい感触が指先に残る。そのささやかな厚みの中に、この場所が単なる施しではなく、生活を回す仕組みとして動いていることが詰まっている気がして、少しだけ気分が悪くなった。


「今日は最初、食堂の手伝いだって」


 ミナが歩き出しながら言う。


「新参の人は、だいたい配膳か掃除から入るの。身体の具合とか、苦手なこととかを見るために」


「見るため」


「うん。無理なことをさせないため、って言い方をする人もいる」


 そう言ってから、ミナは少しだけ声を落とした。


「あと、向いてる場所を探すため」


 その言い回しが、ルゥには妙に引っかかった。


 向いてる場所。

 聞こえはいい。

 だがこの施設では、やさしい言葉ほど別の意味を隠していそうで、素直に飲み込めない。


 食堂は一階の奥にあった。長机がいくつも並ぶ、簡素だが広い部屋だ。窓は高い位置にあり、朝の光が白い壁を薄く撫でている。既に何人かが働いていた。鍋の蓋を外す者。椀を並べる者。昨夜の残りを仕分ける者。子どもの席に小さな匙を置いていく者。


 入口をくぐった瞬間、音と匂いが少しだけ濃くなる。煮た穀物の湯気。乾いた豆。温めた乳。木椀。鉄鍋。洗い場の水。人の腹が空いている朝の匂いだ。


 それでも、外の安宿や酒場の裏口とは違う。苛立ちが少ない。誰もが不足の中にいるはずなのに、欠乏の音が荒れていない。施設全体が、空腹や不安の角を先に布で包んでしまうように動いている。


「こちら、新しく入ったルゥです」


 ミナが、背の高い女信徒へ声をかけた。


 その女信徒は三十代半ばほどに見えた。肩幅が広く、動きに無駄がない。白衣の上からでも鍛えられた身体つきだと分かる。だが声は静かだった。


「ルゥさん。朝は椀拭きからお願いできますか」


 問いというより、確認に近い。

 拒否の余地がないほど強くはなく、拒否しづらいほど穏やかだ。


 「……できます」


「ありがとうございます。こちらへ」


 女信徒はそれ以上余計なことを言わない。ルゥの耳や身なりを気にする視線もない。ただ、新しく来た労働力として扱うのではなく、場に組み込むための一員として配置していく。その手際の良さが、昨日の地下室と地続きに思えて、ルゥは内心で身構えた。


 桶の隣に座ると、まだ少し湿った木椀が積まれていた。布で一つずつ水気を取り、割れや欠けがないか確かめながら拭いていく。単純な作業だ。隣では幼い信徒が匙を並べ、その向こうでは足の悪い老人が豆を器へ取り分けている。年齢も種族も混じっているのに、不思議と作業は噛み合っていた。


 しばらく無言で手を動かしていると、食堂の奥から小さな歌声のようなものが聞こえてきた。


 歌ではない。祈りだった。


「Cael の御名において、今日の糧に感謝を」


 低く、抑えた声。

 ひとりが唱え、何人かが小さく応じる。


 ルゥは手を止めかけた。


 Cael。

 昨日、広場では聞かなかった名だ。

 施設に入って初めて耳にする。


 周囲の信徒たちは、その名を何の違和感もなく受け取っている。特別な緊張もない。日常の中に染み込んだ名前なのだと分かる。


「……Cael」


 ルゥが小さく繰り返すと、隣で匙を並べていたミナが振り向いた。


「うん?」


「今の」


「ああ」


 ミナは手を止めないまま答える。


「朝の祈り。ごはんの前とか、処置の前とか、たまに言うでしょう」


「教祖様の名前?」


「そう」


 ミナはさらりと言った。


「Cael に救われた人、たくさんいるから」


 その言い方はあまりにも自然で、ルゥは逆に訊き返すタイミングを失った。

 救われた人がたくさんいる。

 それなのに、昨日まで広場の誰もその名を口にしていなかった気がする。


「会ったことあるの」


 ルゥが何気ないふりをしてそう尋ねると、ミナは少しだけ首を傾げた。


「会った……というか」


 そこで言葉が曖昧になる。


「直接、っていう人はあんまりいないと思う。でも、救われたって話はいっぱいあるよ」


「どんな話」


「人によって違う」


 その答えもまた、妙だった。


 ミナは真面目に考えているらしく、少し視線を宙へ泳がせた。


「熱が下がったとか。暴走が鎮まったとか。夢の中で声を聞いたとか。あと、すごく苦しい時に、Cael がちゃんと見てくれてるって分かったとか」


 どういうこと、と言いかけてルゥは言葉を切った。


 食堂の朝に、そんなことを深追いするのは不自然だ。

 だが、どこか引っかかる。

 救われた記憶の話ばかりがあって、輪郭はどこか曖昧だ。


 もっとも、今はそれより優先すべきことがある。

 この場所の動きを知ること。

 誰が何を決めているのか。

 どこで人がやさしく包まれ、どこで削られるのか。


 女信徒が鍋の前で手を打ち、朝食の列が整い始めた。昨夜の炊き出しほど逼迫した空気ではないが、それでもここにいる者たちは、たいていどこかで行き場をなくした人々だ。痩せた子ども。古傷の多い男。仕事を切られたらしい翼持ち。指先に火傷の痕が残る火属性持ちの女。白衣の信徒たちは彼らを席へ誘導し、湯気の立つ粥をよそっていく。


 その中に、ひとりの幼い子がいた。


 獣人の子だ。耳がまだ大きく、頭に対して少し不格好なほど目立つ。落ち着きなく視線を泳がせ、食堂のざわめきに耳を伏せている。椅子へ座ることさえ怖いらしく、入口近くで立ちすくんでいた。


 ルゥの手が止まる。


 その子の仕草は、昔の自分を思い出させた。


 白衣の若い男がすぐ気づき、子どもの前にしゃがんだ。


「ここ、少しうるさいね」


 そう言って、壁際の席を示す。人の出入りが少なく、音も少し遠い場所だ。


「こっちなら、大丈夫かもしれない」


 男は耳に触れない。

 勝手に撫でようとしない。

 ただ、音の少ない席を差し出す。


 獣人の子は一瞬迷い、それから小さく頷いた。


 ルゥの胸の奥で、何かがざらついた。


 こういう配慮ができる場所なのだ。

 雑に「慣れろ」と言わず、音の多さを苦痛として扱う。

 そういう小さなやさしさの積み重ねが、人をこの施設へ縛る。


 嫌なほど、よく分かる。


「ルゥ」


 ミナが小声で呼んだ。


「次、こっちお願い」


 差し出されたのは、拭き終えた椀を運ぶための木箱だった。ルゥは無言で立ち上がり、それを持つ。思ったより軽い。二人分なら何とかなる程度の重さだ。


 ミナが反対側を持った。


「そこ、端を持って」


「分かってる」


「うん」


 それだけの短いやり取りなのに、妙に自然だった。


 二人で箱を運びながら、ルゥはミナの横顔を盗み見る。昨日、炊き出しの場で出会った時と同じく、この少女は人の小さな不調や困りごとによく気づく。誰かが落とした匙を拾い、熱すぎる椀を子どもの前から少し引き、手の空いた信徒へ無言で布を渡す。目立たないが、途切れない動きだ。


 利用できるかもしれない。

 昨日そう思ったのは間違っていない。


 ただ今朝、その思いだけでは片づかないことも分かり始めていた。

 ミナ自身が、この場所に救われている。

 そのことが、声の奥で分かる。

 感謝は本物で、依存もまた本物だ。


 朝食が始まると、食堂はようやく人の食べる音で満たされた。匙が椀を打つ音。熱い粥に息を吹きかける音。空腹の腹が温かさへほどけていく、小さな沈黙。誰も大声では話さない。だが、昨日まで路上にいた者たちの顔に、少しだけ血色が戻っていくのが見える。


 白衣の信徒の一人が、入口で新しい紙札を掲げた。


 奉仕参加希望者、午前のあいだに申請。共同生活継続希望者、午後面談。


 その下に、小さくもう一行。


 Cael の導きが、今日もあなたにありますように。


 祈りとも案内ともつかない、その文句を見ながら、ルゥは木箱を机へ置いた。


 この場所は、ただ腹を満たすだけでは終わらない。

 次の居場所を与える。

 役割を与える。

 必要とされる形を与える。

 そうやって人を救い、そして、おそらく削っていく。


 ルゥは食堂の端で列を整える女信徒たちを見た。誰が命じ、誰が従っているのか、一目では分からないほど自然に役割が回っている。教祖の名は祈りに出るが、実務は目の前の人間たちが淡々と担っている。その事実だけが、かえって妙に不気味だった。


「考えごと?」


 またミナの声。


 ルゥは肩越しに振り返る。


「別に」


「そういう顔してる」


 ミナはそう言って、少し笑った。からかうような調子ではない。観察した事実をそのまま口にしただけの声だ。


 その率直さに、ルゥは答えを濁した。


「ここ、変な場所だなって思ってただけ」


 ミナは一瞬だけ目を丸くした。

 それから、少し考える。


「……うん」


 意外にも、否定しなかった。


「変な場所だと思うよ。たぶん、ずっといた人も、ちょっとはそう思ってる」


「でも、いる」


「いるね」


「何で」


 問いかけるつもりはなかったのに、口から出た。


 ミナは椀を一つ持ち上げ、残った水滴を布で拭った。その手つきは丁寧で、けれど少しだけ迷う。


「ここでは、人として扱われるから」


 小さな声だった。


 けれど、その声の奥には嘘がなかった。


 外の世界には、ギルドも宿屋もある。仕事も、寝床も、酒も、市場もある。差異に合わせた道具も売っているし、工夫された部屋もある。だが、すべてに金が要る。条件が要る。適性が要る。普通に近い者ほど少し生きやすいように出来ている。その少しの差が、追い詰められた者には命取りになる。


 ここは違うのだろう。

 少なくとも入口では、先に人として扱う。


 それがどれほど強いかを、ルゥは知っている。

 知っているから、余計に嫌悪した。


 ミナは拭き終えた椀を重ねる。


「だから、みんな残るんだと思う」


 その言葉を聞いた時、ルゥの中で何かが静かに決まった。


 外から見ているだけでは足りない。

 この場所がどうやって人の居場所になるのか。

 どうして救いが、そのまま削る理屈へ繋がるのか。

 それを知るには、もっと内側へ入るしかない。


 食堂の向こうで、女信徒が新しい名簿を開く。

 共同生活継続者の確認。

 奉仕配置の相談。

 処置対象者ではない、生活者としての仕分け。


 それもまた、この施設の力なのだろう。


 ルゥは手の中の布を強く握った。

 白い布は清潔で、よく洗われていて、少しだけ温かかった。


 やさしい場所ほど、壊れていた時に厄介だ。

 その厄介さの中心へ行く。


 今はまだ、誰にも見抜かれていないふりをしながら。

 救われたい側の顔をしながら。

 人として扱われたことに戸惑う新参者の顔をしながら。


 ルゥは食堂の白い光を見渡した。


 信仰の名を借りたこの共同体の中で、神は姿を見せない。

 それでも人は、救われたと言う。

 ならば、その救いの形そのものを暴くしかない。


 白い椀を配りながら、ルゥは心の中で静かにそう決意した。


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