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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第1章 決意の日

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第4話 地下の儀式

 施設へ入った初日の夜、ルゥ=イリスはほとんど眠れなかった。


 寝台は思っていたよりましだった。薄いが清潔な敷布、重ねられた毛布、雨風の入りにくい壁、軋みの少ない床。少なくとも、路地裏の安宿で耳を澄ませながら浅い眠りをつなぐよりは、ずっとまともな寝床だった。


 それが、かえって気持ち悪い。


 昼のあいだ、ルゥは新しく入った保護対象として、簡単な説明を受けた。共同生活の規律。食事の時間。奉仕の分担。礼拝への参加。困ったことがあれば相談窓口へ、という案内まである。誰も怒鳴らない。誰も見下さない。必要なことだけを、必要な温度で伝えてくる。


 白い廊下は静かで、掃除が行き届いていて、薬草の匂いさえ薄い。

 壁は白。寝具も白。食器も、祈りの間に敷かれた布も白。

 清潔で、整っていて、余計なものが少ない。


 少なすぎる、と思った。


 外の世界はもっと色が多かった。酒場の染みついた匂い、市場の腐りかけた果実の甘さ、荷車の泥、宿屋の軒先に吊るされた洗濯物、翼持ち向けに少し高く作られた階段の手すり、角持ちのために寝台の頭側を削った部屋。雑多で、うるさくて、不便で、でもちゃんと生きていた。


 ここは違う。

 整いすぎている。


 その整いの中へ、今日から自分も入ったのだと思うと、背中の毛が逆立つような感覚があった。


 ルゥは寝返りを打った。


 大部屋には、ほかにも何人か寝ている。静かな寝息。時折咳き込む音。どこかで布が擦れる音。獣人のルゥの耳には、それぞれの呼吸の違いが薄く分かる。眠りの浅い者、疲れきって沈むように眠っている者、悪夢でも見ているのか、短く息を乱す者。


 その中に、規則的すぎる足音が混じった。


 廊下の向こうを、誰かが歩いていく。


 ひとりではない。

 複数。

 だが見回りの気配とは少し違う。


 ルゥは目を開けた。


 窓の外は真夜中に近い濃い青で、室内の灯りはとっくに落ちている。白く薄い月明かりが床の端をなぞるだけの暗がりだ。そんな中で、廊下を行く足音だけが妙にはっきりしていた。慌ててもいないし、急ぎもしない。ただ、揃いすぎない程度に揃った歩幅で、どこかへ向かっている。


 ルゥは毛布をはがし、音を立てないように起き上がった。


 同じ部屋の誰も反応しない。

 気づいていないのか、気づいていても動かないのか。

 その区別がつかないのが、この場所の嫌なところだった。


 扉をわずかに開けると、廊下の先を白衣の背がいくつか横切っていくのが見えた。寝台の整えられた静けさと、夜の施設の静けさは少し違う。前者は疲れの果てにあるものだが、後者は何かを隠している静けさだった。


 ルゥは裸足のまま廊下へ出た。


 板張りの床は冷たく、石壁からは夜気がじわりと滲んでいる。灯りは落とされているが、角ごとに小さな魔導灯が置かれていて、完全な暗闇ではない。白い衣の影は、曲がり角をひとつ、またひとつと消えていく。


 追うべきかどうか、一瞬だけ迷った。


 まだ初日だ。

 焦るな、と頭のどこかは言う。

 だがもう片方では、こういう夜にこそ、母は何かを差し出したのではないかという予感があった。


 ルゥは息を殺し、影を追った。


 廊下を抜けると、昼間には使われていなかった細い通路へ出た。壁の白さがここでは少し鈍く、床は板ではなく石に変わっている。先へ行くほど、空気が冷える。薬草の匂いが薄れ、代わりに清水と石灰、それから金属に似た硬い匂いが混じり始めた。


 やがて、下り階段が現れる。


 地下だ。


 白衣の列はためらいなくそこを降りていった。

 ルゥも距離を置いて続く。


 一段ごとに、空気が変わる。上の階の、生活のための静けさではない。祈りの前の静けさでもない。もっと硬く、磨かれた、処置のための静けさだ。獣人の耳に届く音も、そこで少し変わった。呼吸の数が増える。遠くで布が揺れる。ガラス器具がかすかに触れ合う。小さな祈りの声が、重ならないよう抑えられて続いている。


 階段を下りきった先には、広い地下室があった。


 広いと言っても、壮麗な礼拝堂のようなものではない。むしろ医療区画に近い。白い布で仕切られた壁。中央に置かれた細長い台。周囲に並ぶ術具。銀色の盆。清水をたたえた鉢。清潔で、無駄がなくて、だから余計に嫌だった。


 その中央に、ひとりの若い女が座らされていた。


 年は二十を少し越えたくらいか。髪は肩のあたりで揃えられ、顔色は青白い。耳の上にかかる髪だけが不自然に後ろへまとめられていた。両手は膝の上に置かれている。拘束は見当たらない。逃げようと思えば立てるはずだ。


 なのに、立たない。


 女は怖がっていた。

 それは声にならない呼吸の細さで分かる。

 肩の震えで分かる。

 心臓の速さで分かる。


 けれど、その恐怖の奥に、別のものもある。

 期待に似た諦め。

 ここを越えれば楽になれるかもしれない、という弱い希い。


 ルゥは喉の奥がきしむのを感じた。


 地下室の向こう側から、白衣の女が歩み寄る。


 エクラリアだった。


 昼間、広場の中央にいたあの女。湯気と混乱の中で、暴走した少年を鎮めた女。夜の地下でも、その所作に乱れはない。白衣の上に走る銀糸だけが、灯りを受けてかすかに光った。


 その姿を見た瞬間、周囲の信徒たちの呼吸が一段落ち着くのが分かった。信頼、あるいは祈りに近い静けさがそこへ集まっていく。


 ルゥは白い布の陰へ身を寄せ、息を止めた。


 エクラリアは若い女の前に立ち、膝を折る。

 目線を合わせる。

 急がない。


「怖いですね」


 昼間と同じ言葉だった。


 女の肩が震える。

 それでも、逃げない。


「でも、大丈夫」


 エクラリアの声はやわらかい。


「もう苦しまなくていいのですよ」


 その言葉に、地下室の空気が少しだけ沈んだ。

 信徒たちは反応しない。

 誰もそれを不自然に思っていない。


 若い女は唇を噛み、それから小さく頷いた。


「……はい」


 声の奥は怯えている。

 だが、それでも頷く。

 ルゥにはそれがたまらなく怖かった。


 銀の盆が運ばれてくる。清められた布。細い刃。薬液を含ませた綿。どれも用途が分かりすぎるほど分かる。医療の顔をした儀式。儀式の顔をした処置。


 エクラリアは女の耳元へ手を伸ばした。


 触れる手つきは、驚くほどやさしい。獲物に触れる手ではない。壊れものに触れる手だ。痛みを少なくしようと本気で考えている手つきだった。


 だから、余計に気持ち悪い。


「この耳は」


「怒りを聞きました」


「この耳は」


「違いを知りました」


「だから」


「手放します」


 エクラリアは静かに言う。


「これはあなたを奪うものではありません」


「あなたを苦しめてきた壁を、少しだけ薄くするためのものです」


 女は目を閉じた。

 泣いている。

 けれど逃げない。


 周囲の信徒の祈りが低く続く。重ならず、乱れず、地下の白い壁に吸い込まれていく。その音の中で、ルゥの耳だけが別のものを拾っていた。女の呼吸の速さ。歯の震え。布が指に食い込む音。エクラリアの袖がわずかに擦れる音。刃が持ち上げられる音。


 次の瞬間、地下室の空気が薄く裂けた。


 刃の光は小さかった。

 動きも速かった。

 なのに、ルゥにはひどくゆっくり見えた。


 切断そのものは、思ったより静かだった。

 血は出る。

 痛みもある。

 若い女の喉から短い悲鳴が漏れた。

 けれどそれは、昼間の暴走のように激しいものではない。抑え込まれた痛みの音だった。


 白い布がすぐにあてがわれ、処置の手順は淀みなく進む。薬液。圧迫。術式の補助光。祈り。全部が滞りなく噛み合う。その手際の良さが、ここで行われていることが一度や二度ではないと告げていた。


 銀の盆の上に、それは置かれた。


 耳だった。


 ルゥの視界が一瞬だけ白くなる。

 吐き気が、遅れてせり上がる。


 若い女は泣いていた。頬を濡らし、呼吸を乱し、痛みに身体を強張らせながら、それでもエクラリアを見上げている。恨みでも憎しみでもない目だった。もっと厄介なもの――感謝と、安堵に近い揺れがそこにある。


「終わりました」


 エクラリアが言う。


「よく頑張りましたね」


 女の唇が震える。


「ありがとう、ございます……」


 その声を聞いた瞬間、ルゥの背筋が冷えた。


 昼間の少年と同じだ。

 痛みのあとで、礼を言う。

 救われた顔をする。


 地下室の空気が、そこでひどく静かになった。いや、静かになったのではない。ルゥには、女の中から何かが薄く切り離されていく音が聞こえた。暴走の時のような激しい軋みではない。もっと整った、もっとやさしい喪失の音だ。


 それは母の最後の「大丈夫」と同じ場所へつながっている。


 ルゥは口元を押さえた。

 胃の奥がひっくり返りそうになる。


 母も、こういう場所にいたのだ。

 こういう白い地下で、やさしい声をかけられたのだ。

 苦しまなくていい、と言われ、痛みを薄くするふりで、何かを差し出させられたのだ。


 壁に手をついた指先が震える。

 逃げたい。

 けれど目を離したら、母の最後の音まで失う気がして、できなかった。


 地下室の信徒たちは、泣いている女を支えながら、ひどく丁寧に寝台へ移そうとしていた。誰も乱暴にしない。誰も満足げに笑わない。ここにいる全員が、本気でこれは救いだと思っている。そのことが、刃そのものより残酷だった。


 エクラリアは銀の盆を一瞥し、短く祈りの言葉を落とした。

 白い布が、切り落とされた耳の上にかけられる。


 見せびらかすことさえしない。


 ルゥはもう限界だった。

 白い布の陰から身を引き、音を立てないことだけに全神経を注ぎながら、通路へ戻る。階段へたどり着いた瞬間、ようやく押し殺していた息が漏れた。


 冷たい石壁に肩をぶつける。

 喉まで上がってきたものを、ぎりぎりで飲み込む。

 飲み込めず、数段上がったところで膝をつき、吐いた。


 胃の中はほとんど空だった。酸っぱい液だけが石段を濡らす。耳の奥ではまだ地下室の音が残っている。白い祈り。やさしい声。短い悲鳴。礼を言うかすれ声。そして、あまりにも静かな喪失。


 母も、こういう顔をしたのだ。


 そう思った途端、吐き気とは別のものが胸の底からこみ上げた。


 怒りだった。


 悲しみと、嫌悪と、置いていかれた子どもの傷が、そこで初めてきちんと怒りの形を取った。母はただ消えたのではない。自分からいなくなったのでもない。こういう場所で、こういうやさしさの中で、少しずつ削られていったのだ。


 ルゥは石段に手をついたまま、しばらく動けなかった。


 夜の施設は静かだ。

 上階では誰かが眠り、誰かが祈り、誰かが明日も救済の準備をする。

 ここだけが異常なのではない。

 この静かな施設全部が、この地下につながっている。


 それを理解した時、背筋に別の冷たさが走った。


 壊すべきは、刃だけではない。

 あの女だけでもない。

 この白さ全部だ。


 ルゥはゆっくり顔を上げた。


 階段の上には、生活のための灯りがある。

 その上で、人は眠り、祈り、明日も椀を配る。

 その下で、人は削られ、礼を言う。


 その繋がりを、もう見間違えない。


 石段に残った吐瀉の跡を袖で乱暴に拭い、ルゥは立ち上がった。膝はまだ少し震えていたが、頭の中だけは妙に冷えていた。ここへ入った時より、ずっとはっきりしている。


 信じるわけがない。

 救われるわけがない。

 祈るふりなら、いくらでもできる。


 白い施設の上階へ戻りながら、ルゥは心の中で静かに言葉を結んだ。


 神を信じるふりをして、神を殺しに行く。

 

第1章 終

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