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君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第12章 君の耳は、もう要らない

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第49話 苦しみとともに

 露出した核は、白い座の手前に浮かんでいた。


 物質ではない。

 祈りと制御と接続が、かろうじてひとつの形を保っているだけの結び目だった。

 床いっぱいに広がった術式線のすべてが、そこへ集まり、そこからまた分かれていく。空席の座は、誰もいないくせに中心として機能していて、その手前に剥き出しになった核だけが、この巨大な儀式の喉元みたいに脈打っていた。


 壊すなら、もうあそこしかなかった。


 ルゥ=イリスは息を吸った。

 肺の奥へ入った空気が、白い粉塵と焦げた術式の匂いでざらつく。

 儀式は一度大きく軋んでいる。ミナが名に反応したこと。祈祷列がずれたこと。祈りの揃いが乱れ、媒介の接続が偏り、空席の中心を支えていた均衡が露出したこと。


 だが、まだ終わっていない。


 祈祷師たちは立て直しに入っている。

 白衣の補佐は乱れた術式帯を再接続しようとしている。

 エクラリアは白い座の脇で、術式盤へ片手を置いたまま、最後の均衡を保ち続けていた。


 今止めなければ、整い直す。


 ルゥは走った。


 床の白い線が足元で跳ねる。

 崩れた術式片を踏み越え、倒れかけた補佐の肩を抜ける。

 横合いから伸びた手を払い、祈祷列の外周を肩で押し崩す。

 背後で何人かが声を上げた。

 悲鳴ではない。

 崩れつつある秩序を、それでも立て直そうとする者の焦りの声だ。


 視界の先には、核と、エクラリアがいた。


 ルゥは走りながら悟る。

 核だけでは駄目だ。

 あれを維持している側、最後に意味と方向を与えている者を外さなければ、この儀式は別の形でなお立ち上がる。


 白い座の手前。

 空席の中心に最も近い位置。

 エクラリアは、最後までそこから動かない。


「やめなさい」


 エクラリアの声が響く。


 叫びではない。

 怒鳴りでもない。

 ただ、ここで止めるべきだと本気で思っている人間の声だった。


「それを壊せば、戻らない者が出る」


 ルゥの足が一瞬だけ鈍る。


 戻らない者。

 ミナ。

 他の媒介たち。

 祈りの輪の中で削られ、薄められ、それでもここへ繋がれている者たち。


 戻らない。

 そんなことは、とっくに知っている。


「もう、とっくに戻れなくしてるだろ」


 ルゥは低く言った。

 走りながら吐き出すように。


「今さら何言ってんだよ」


 補佐のひとりが前へ出る。

 白い術式板を盾のように構え、ルゥの進路を塞ぐ。

 ルゥは勢いのままその肩へぶつかり、板ごと身体を横へ流す。

 術式の制御線がぶつかった瞬間、一筋の光が裂けて火花のように飛ぶ。


 熱が頬を掠める。


 エクラリアの指先が術式盤の上で鋭く動く。

 核を守る最後の封が走る。

 白い座と核のあいだへ、膜のような術式障壁が立ち上がる。

 それは硬い壁ではない。

 祈りそのものが集まってできた皮膜のようだった。


「まだ間に合うの」


 エクラリアは言う。


「何がだよ」


「苦しまない未来に近づくことが」


 その答え方が、ルゥの中の怒りをさらに強くする。

 正しいことを言っている声だった。

 少なくとも、本人にとっては。

 それが何より嫌だった。


「苦しみを減らせば、生き延びられる子がいる。怖れなくて済む人がいる。自分を嫌いにならずに済む人がいる」


 ルゥは知っている。

 第二階梯で見た。

 翼持ちの青年も、角持ちの老女も、共感に疲れ切った者たちも、みんな切実だった。

 普通の部屋で眠りたいという願いが、どれほど小さく、どれほど残酷かも知っている。

 世界が先に人を削っていることも。

 制度が遅いことも。

 国家が足りないことも。

 教団がその空白へ入り込んでしまう理由も。


 分かっている。

 分かっているからこそ、厄介だった。


「分かるよ」


 ルゥは言った。


 声は掠れていたが、はっきりしていた。


 エクラリアの目が、ほんの少しだけ細まる。


「分かる」


 ルゥはもう一度言う。


「分かるけど、認めない」


 その一言で、エクラリアの表情が初めてわずかに揺れた。

 怒りではない。

 理解されて、それでも拒絶された者だけが見せる静かな傷だった。


「どうして」


 その問いには本気があった。

 勝ち負けではなく、なぜそこまで苦しみを残す側に立てるのか、本当に知りたいという響き。


 ルゥはそこで一歩だけ進路を変えた。


 核ではない。

 白い座でもない。

 エクラリアそのものへ向かう。


 エクラリアはその動きの意味をすぐに理解した。

 彼女の指先が一瞬だけ止まる。


「苦しみがあることと」


 ルゥは前へ出ながら言う。


「苦しんでる人間を薄くしていいことは、同じじゃない」


 床の術式線がまた強く明滅する。

 崩れと立て直しのせめぎ合いで、空間そのものが脈打っている。


「生きやすくするために」


 ルゥは続けた。


「人まで薄くするな」


 それは母の言葉の反復ではなかった。

 けれど、その祈りを通ってここまで来た、自分自身の結論だった。


 エクラリアの視線が、ほんの一瞬だけ落ちる。

 その落ち方が、ルゥには痛かった。

 彼女もまた分かっているのだ。

 自分のしていることが、救済と切除の境目を越えていることを。

 それでもなお止まれないだけだ。


「私は」


 エクラリアが低く言う。


「止まれば、もっと多くを見捨てることになる」


「それでも止まれ」


 ルゥは言った。


「お前の優しさで、人を終わらせるな」


 そこまで言って、ようやくエクラリアの表情に、はっきりとした痛みが走る。


 ルゥはもう躊躇しなかった。


 白い座の脇で術式盤へ片手を置いたままのエクラリアへ、真正面から飛び込む。

 補佐たちが叫ぶ。

 祈祷が乱れる。

 核を守っていた膜が、制御者の動揺で一拍だけ薄くなる。


 ルゥの手がエクラリアの腕を掴む。


 冷たい。

 だが人の体温だ。

 怪物ではない。

 ちゃんと人間の腕だった。


 そのことが、最後の最後にいちばんつらい。


 エクラリアは振り払おうとしなかった。

 ただ、もう一方の手で術式盤へ最後の制御を走らせる。

 自分を守るのではない。

 媒介列と中心線を少しでも持たせようとしている。


 ルゥは歯を食いしばり、その腕を術式盤から引き剥がした。


 その瞬間、世界が裂ける。


 白い音がした。


 音なのに、光に近い。

 光なのに、骨の折れる感触に近い。

 空席の中心を支えていた祈りと術式と接続が、一度にほどけ、逆流し、ばらばらの方向へ跳ね返る。


 白い座へ走っていたすべての線が、一斉に断たれた。


 核が裂ける。


 それは美しい崩壊ではなかった。

 神々しさもない。

 均されようとしていた差異が、一斉に押し返してくるような暴れ方だった。


 熱。

 風圧。

 耳鳴り。

 白い粉塵。

 足元を叩く衝撃。


 ルゥは咄嗟にエクラリアごと身を低くする。

 だが彼女はその力へ逆らうように、身体をひねった。


 視線はルゥではなく、媒介列へ向いていた。

 ミナたちの方だ。


「伏せなさい!」


 それが、エクラリアの最後の明確な声だった。


 彼女は自分を庇わなかった。

 崩壊の中心に最も近い位置で、なお媒介側へ身体を向けた。

 退けば助かったかもしれない一拍を、自分ではなく他者のために使った。


 だから、間に合わなかった。


 崩壊した核の反動が、白い座の手前を真っ先に焼く。


 白い光の奔流が、座と盤と、その脇にいたエクラリアの身体をまとめて飲み込んだ。

 ルゥの腕の中から、彼女の重みが一瞬だけ消える。

 消えたというより、引き剥がされた。


 ルゥは反射で手を伸ばした。

 掴めない。

 もう遅い。


 光が引いたあと、白い座は砕けていた。


 ひびが走るのではない。

 中心から崩れ、誰も座らなかった中心が、ただの割れた白い残骸へ変わっていた。


 術式盤も半分が焼け、床の線は途切れ途切れに黒く焦げている。

 祈祷師たちは倒れ、補佐たちは支えを失い、媒介列の接続は全部ばらばらになっていた。


 セレス・ブルームは、そこで止まった。


 完全発動前に、ぎりぎりで崩れた。


 だからといって、無傷ではない。


 最奥の外で別の悲鳴が上がる。

 局所的な魔力障害か、崩れた制御線の余波か。

 誰かが壁にもたれ込み、別の誰かが痙攣し、術式粉塵に咳き込む音が混じる。

 崩壊は勝利の光景ではない。

 止めたが、世界にはちゃんと代償が残る。


 ルゥは咳き込みながら顔を上げた。


 まず探したのは、エクラリアだった。


 白い座の残骸の脇、焼けた術式盤の前に、彼女は倒れていた。

 白衣の半分が焦げ、胸元にかけてひどく裂けている。

 額の端から落ちる血は、もうゆっくりだった。

 まだ息があるのか一瞬見分けがつかない。


 ルゥは一歩近づく。


 エクラリアの目が、かすかに開いた。


 焦点はあっていない。

 それでも最後に見たのは、ルゥではなかった。

 その視線は一度だけ媒介列の方へ流れた。

 ミナたちが生きているか、それだけを確かめようとしたみたいに。


 唇が動く。

 声にはならない。

 けれど最後まで彼女は、自分の敗北ではなく、救えたかどうかを数えている顔だった。


 そのまま、動かなくなる。


 ルゥは立ち尽くした。


 殺した。

 そう呼ぶしかない。

 止めるためだった。

 必要だった。

 全部本当だ。

 それでも、ひとりの人間を自分の手でここまで追い込んだことも本当だった。


 胸の中に、勝利の感覚はまるでない。

 あるのは、止まった、という事実だけだ。


 その時、ミナの小さな咳が聞こえた。


 ルゥははっとして振り向く。

 術式帯は半分外れ、白い粉塵の中で細い肩が上下している。

 完全には戻らない。

 でも、生きている。


 ルゥは駆け寄った。


「ミナ」


 呼ぶ。

 彼女のまぶたがゆっくり動く。

 焦点の薄い目が、ルゥの方へ向く。


 ルゥは術式帯を外しながら、息を詰めて訊く。


「……聞こえるか」


 ミナはすぐには答えなかった。

 喉が一度だけ上下し、それから、ごく小さく唇が動く。


「……聞こえる」


 かすれた声。

 それだけで、ルゥの胸の奥が一瞬だけ緩みそうになる。


 だが、その次の瞬間には、最奥の入口側で重い足音がいくつも響いていた。


 白衣ではない。

 祈祷師でもない。

 統制された靴音。

 治安側だ。


 国家の人間たちが、崩れた最奥へ雪崩れ込んでくる。


 教団制圧。

 媒介の保護。

 危険術式の封鎖。

 証拠の押収。

 危険思想の処理。


 それら全部が、一気に始まる。


 先頭の治安要員が周囲を一瞥し、すぐに状況を見切った顔をした。

 白い座の崩壊。

 主要術式の破断。

 死んでいるエクラリア。

 媒介列の生存者。

 そして、その中心近くにいる侵入者――ルゥ。


「対象を確保しろ!」


 鋭い命令が飛ぶ。


 その声には理由がはっきりあった。

 ルゥは単なる生存者ではない。

 最奥へ侵入し、儀式の中核へ到達し、主要維持者を死に至らせ、セレス・ブルーム崩壊の直接原因になった当事者だ。

 しかも最奥の構造と、教団と国家の接続を知りすぎている。


 国家側から見れば、保護すべき参考人であると同時に、拘束すべき最重要当事者だった。


 教団の側へ渡すわけにもいかない。

 自由にもできない。

 真相を知ったまま外へ歩かせるには危険すぎる。


 だから確保する。


 その判断が、声の鋭さひとつで分かった。


 ルゥは立ち上がりかけ、そこで足元が揺れた。

 崩壊の反動と消耗で、膝が一瞬だけ言うことを聞かない。


 逃げ切れない。


 その判断だけが、妙に冷静に下りる。


 ミナの顔を見る。

 彼女もまた薄く目を開けたまま、こちらを見ている。

 完全には理解していないかもしれない。

 それでも、引き剥がされる気配だけは分かっている目だった。


「……大丈夫だ」


 何が大丈夫なのか、自分でも分からない。

 でも、それしか言えなかった。


 次の瞬間、背後から腕を取られる。

 もうひとつ、肩を押さえられる。

 術式封が手首へ巻きつく。

 後ろ手に拘束される感触は、教団の布とも、白い部屋の術式とも違っていた。もっと機械的で、もっと慣れた手つきだった。


 国家に捕まる。


 教団を止めた夜の最後に待っていたのが、やはり秩序の側の手だということが、ひどくこの世界らしかった。


 ルゥはミナの名を呼ぼうとして、喉が詰まった。

 声になる前に拘束が強まり、身体の自由が奪われる。


 視界の端で、最奥の入口側にオレリアンの姿が一瞬だけ見えた。


 崩れた術式と倒れた白衣たちの向こう。

 彼は部下へ短く指示を飛ばしている。

 叫ばない。

 走り回らない。

 ただ、惨事を“処理すべき事案”へ変えていく側の人間の顔で立っている。


 ルゥと目が合う。


 ほんの一瞬だけ。


 そこに勝者の顔はない。

 安堵もない。

 あるのは、起きてしまったことを封じ、整理し、それでも完全には隠しきれないと知っている者の硬い眼差しだけだった。


 白い座は砕け、祈りは途切れ、セレス・ブルームはそこで止まった。

 それでもルゥの両手は自由ではなく、ミナの名を呼ぶ声さえ、次の瞬間には後ろ手の拘束に奪われた。

 救いを壊した夜の終わりに待っていたのが、別の秩序の手だったことだけが、妙にこの世界らしかった。

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