表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の耳は、もう要らない  作者: 老羽十勇
第8章 失踪者たち

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

32/33

第31話 献魔

 書類の上では、処置はいつも簡潔だった。


 成功。

 安定化。

 統合。


 人がどこまで失われたのかを、そんな短い言葉で片づけていいわけがないと、ルゥは思った。


 深部区画の扉の手前、壁のくぼみに身を寄せながら、ルゥ=イリスは移送控えと処置記録の束をめくっていた。紙は薄く、乾いていて、指先にひっかかる感触さえ均質だった。墨は滲まず、字は整っている。急いで書かれた形跡はない。誰かが取り繕ったような焦りも、後ろめたさもない。ただ、日々の業務として淡々と記された静けさだけがあった。


 適性保持。

 統合移行。

 過負荷軽減。

 浄化完了。

 高度治癒適合。

 献魔適性。


 医療の語と祈りの語が、区別なく並んでいた。


 対象番号。

 観察責任者。

 術後経過。

 精神安定度。


 どれも記録としては成立している。項目は整い、報告としても不足はない。むしろ丁寧なくらいだ。だからこそ不気味だった。記録とは本来、何が起きたのかを残すためのもののはずなのに、ここにある紙束は、起きたことの輪郭だけを残して、その中心をそっくり抜き取っている。


 たとえば「統合」。

 それが何を統合したのかは書かれていない。

 肉体か、精神か、信仰か。

 それとも、抵抗と服従をひとつに潰して均したのか。


「過負荷軽減」。

 何を、どこまで、どう軽減したのかが抜け落ちている。痛みか、恐怖か、葛藤か。それとも、人が耐えきれずに抱く“嫌だ”という叫びそのものか。


「安定化」。

 何が不安定で、どの揺れが消えたのか。その中身だけが書かれていない。


 軽すぎる。

 言葉が軽すぎる。


 ルゥは紙を押さえる指に少しだけ力を込めた。爪の先が白くなる。帳面の中では、人の変質が全部、業務の完了報告みたいに記されている。何が奪われたのかも、何が失われたのかも、手続きの先にある苦痛も、この紙の上ではすべて処理済みの印でしかない。


 ページをめくる。


 失踪者の番号。

 第二階梯を経ず、第三階梯へ直送された記録。

 観察欄は短い。異常がなければ一行。異常があっても二行。まるで人間の変質に許された文字数が決まっているみたいだった。


 情動安定化、良好。

 執着因子の再燃なし。

 統合後、対人適応向上。


 ルゥの喉が冷える。


 執着因子。

 再燃なし。


 それは病理の言葉に見える。医療者が使う、客観と処置のための言葉に見える。だが、何を執着と呼んでいるのかが書かれていない。怒りか。恐れか。愛着か。記憶か。家族への思いか。失いたくないものへのしがみつきか。人を人として尖らせ、苦しませ、それでも人であらせるものを、まとめて因子と呼んでいるように見えた。


 これは鎮静じゃない。

 もっと静かで、もっと深いところから、人を組み替えている。


 その理解が、ルゥの中でじわじわと輪郭を持ち始める。最初は曇りガラスの向こうにあったものが、少しずつ近づいてくるみたいに。認めてしまえば戻れないと分かっているのに、もう見ないふりができない。


 扉の向こうで、低い音がした。


 器具が置かれる音。

 水ではない液体の滴る音。

 布が引かれる音。

 人を運ぶ足音。


 ルゥは記録束を元の棚へ戻し、息を浅くして身体をずらした。深部区画の扉そのものは閉じている。だが脇の観察窓の覆いが、ほんの少しだけ開いていた。わざとではないだろう。閉めきる前に、誰かが急いだのかもしれない。その小さな隙間へ、ルゥは息を殺して目を寄せた。


 中は、手術室だった。

 そして祭壇でもあった。


 白い処置台。

 静脈へ繋ぐ管。

 薬草液の瓶。

 金属の術具。

 脈を見るための魔導盤。

 壁に刻まれた祈祷文字。

 頭上には灯りではなく、淡い光を帯びた術式陣がゆっくりと回っている。


 ただの手術室ではない。

 ただの祭壇でもない。

 そのどちらでもある。


 清潔さと神聖さが、同じ顔でこちらを見返していた。血や痛みを扱う場所でありながら、そこには悲惨さを覆い隠すような静謐があった。汚れを消すための白ではなく、汚れたと感じる心そのものを責めるための白。間違っているのは苦痛ではなく、苦痛を苦痛だと思う側なのだと、空間そのものが告げているようだった。


 昏睡状態の信徒が一人、処置台の上に横たえられていた。両腕は固定されていない。暴れることを前提にしていないのだ。顔は穏やかで、眠っているようにも見える。それが余計に怖い。怯えていればまだ、人の抵抗が残っていると感じられたかもしれない。けれど、その顔には何もなかった。ただ静かな受容だけがあり、それがこれから行われることを肯定しているように見えた。


 白衣の者たちが周囲を囲む。動きに迷いはない。宗教儀礼特有の熱もない。恍惚も高揚もなく、祈りに身を酔わせる様子もない。ただ、日々繰り返している医療行為の落ち着きで、人の中心へ手を伸ばそうとしている。


 その時、処置室の奥、書架の前にいた人影がふいに横を向いた。


 ルゥの心臓が強く跳ねる。


 見覚えがあった。


 医療棟の倉庫で会った助手。

 あの時、言いかけて、怯えて、何かを知っている顔をしていた医療助手。

 いなくなったと思われていた者。


 生きていた。


 だが、以前とは明らかに違った。


 背筋は伸び、動きは無駄なく、表情は穏やかだった。怯えも、焦りも、辺りを窺う癖もない。人として壊れているようには見えない。むしろ整いすぎている。輪郭の一部だけが抜けて、その代わりに、穏やかさが過剰に流し込まれているようだった。


 ルゥは思わず観察窓へさらに顔を寄せた。

 そのわずかな布擦れに気づいたのか、助手がこちらへ視線を向ける。


 目が合った。


 以前なら、その瞬間に怯えが走ったはずだ。誰かに見られたと悟った生き物の反応が、そこには必ずあったはずだった。だが今は違う。助手はほんの少しだけ不思議そうに目を細め、それから、ごく自然にこちらへ歩み寄ってきた。


 ルゥの身体が凍る。


 逃げるべきだ。

 だが、足がすぐに動かない。

 観察窓越しに、助手の顔が近づく。


「おい」


 ルゥは声を殺すように言った。


「分かるか」


 自分でも、何を訊いているのか曖昧だった。名前か。記憶か。あの時の怯えか。まだ残っているものがあるかどうか、その全部をまとめて確かめたかった。


 助手は少しだけ首を傾げた。

 その動作は人間らしい。

 人らしいのに、決定的におかしい。


「神の御手は、不要な苦痛を除いてくださいます」


 静かな声だった。

 祈りの文句としては自然だ。

 だが、答えになっていない。

 答えになっていないのに、本人はそれで十分だと思っている顔をしている。


 ルゥはそこで凍った。


 消えたのではない。

 壊れたのでもない。

 再編されたのだ。


 人格の中心へ、別の論理を流し込まれている。


 助手はさらに続ける。


「過剰な執着は、統合を妨げます」


 その言葉を、どこかで習った定義みたいな滑らかさで言う。


「安定は祝福です。浄化は安寧です」


 ルゥの胃がひっくり返りそうになった。


 これは治療じゃない。

 人の中心を書き換えている。


 暴走を防ぐ。

 情動を安定させる。

 執着を軽減する。


 書類の上ではそう書けるのだろう。だが実際に消されているのは、怒り、恐れ、未練、ためらい、抵抗――人の輪郭そのものだ。


 助手は穏やかだった。

 穏やかすぎた。

 それが何より残酷だった。


 ルゥの中で、いくつもの顔が一気につながる。


 母。

 ミナ。

 倉庫で怯えていた助手。

 第二階梯の候補者たち。

 講演会で静かに拍手していた者たち。


 全部が一本の線の上にある。


 怒りが喉まで込み上げる。だが、声にはできない。ここで叫べば終わる。走り出せば捕まる。押し殺すしかない。押し殺した怒りは、声にならないぶんだけ熱く、喉の奥で焼けつくようだった。


 処置室の奥で、別の白衣が書類束をめくる。

 助手もそちらへ戻ろうとする。

 その瞬間、観察窓の脇に差し込まれた次回移送予定の板が見えた。


 対象番号。

 階梯。

 適性評価。

 移送時刻。


 ルゥの目が、その列の中のひとつへ吸い寄せられる。


 名が書かれていた。


 ミナ


 その下に、淡々とした字で記されている。


 安定不十分。

 献形高適性。

 献魔候補。


 世界が止まった気がした。


 字は他の誰とも同じだった。

 同じ書式。

 同じ大きさ。

 同じ冷たさ。


 それが、何より耐えがたい。


 ミナの名が、ほかの誰とも同じ形で、同じ整理された字で、ただ次の処置対象として置かれている。そこには彼女の笑い方も、苛立った時の癖も、言い返す時の声音も、何ひとつ含まれていない。ただ処理されるべき適性だけが記されている。


 その無機質さだけで、ルゥは吐きそうになった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ