第31話 献魔
書類の上では、処置はいつも簡潔だった。
成功。
安定化。
統合。
人がどこまで失われたのかを、そんな短い言葉で片づけていいわけがないと、ルゥは思った。
深部区画の扉の手前、壁のくぼみに身を寄せながら、ルゥ=イリスは移送控えと処置記録の束をめくっていた。紙は薄く、乾いていて、指先にひっかかる感触さえ均質だった。墨は滲まず、字は整っている。急いで書かれた形跡はない。誰かが取り繕ったような焦りも、後ろめたさもない。ただ、日々の業務として淡々と記された静けさだけがあった。
適性保持。
統合移行。
過負荷軽減。
浄化完了。
高度治癒適合。
献魔適性。
医療の語と祈りの語が、区別なく並んでいた。
対象番号。
観察責任者。
術後経過。
精神安定度。
どれも記録としては成立している。項目は整い、報告としても不足はない。むしろ丁寧なくらいだ。だからこそ不気味だった。記録とは本来、何が起きたのかを残すためのもののはずなのに、ここにある紙束は、起きたことの輪郭だけを残して、その中心をそっくり抜き取っている。
たとえば「統合」。
それが何を統合したのかは書かれていない。
肉体か、精神か、信仰か。
それとも、抵抗と服従をひとつに潰して均したのか。
「過負荷軽減」。
何を、どこまで、どう軽減したのかが抜け落ちている。痛みか、恐怖か、葛藤か。それとも、人が耐えきれずに抱く“嫌だ”という叫びそのものか。
「安定化」。
何が不安定で、どの揺れが消えたのか。その中身だけが書かれていない。
軽すぎる。
言葉が軽すぎる。
ルゥは紙を押さえる指に少しだけ力を込めた。爪の先が白くなる。帳面の中では、人の変質が全部、業務の完了報告みたいに記されている。何が奪われたのかも、何が失われたのかも、手続きの先にある苦痛も、この紙の上ではすべて処理済みの印でしかない。
ページをめくる。
失踪者の番号。
第二階梯を経ず、第三階梯へ直送された記録。
観察欄は短い。異常がなければ一行。異常があっても二行。まるで人間の変質に許された文字数が決まっているみたいだった。
情動安定化、良好。
執着因子の再燃なし。
統合後、対人適応向上。
ルゥの喉が冷える。
執着因子。
再燃なし。
それは病理の言葉に見える。医療者が使う、客観と処置のための言葉に見える。だが、何を執着と呼んでいるのかが書かれていない。怒りか。恐れか。愛着か。記憶か。家族への思いか。失いたくないものへのしがみつきか。人を人として尖らせ、苦しませ、それでも人であらせるものを、まとめて因子と呼んでいるように見えた。
これは鎮静じゃない。
もっと静かで、もっと深いところから、人を組み替えている。
その理解が、ルゥの中でじわじわと輪郭を持ち始める。最初は曇りガラスの向こうにあったものが、少しずつ近づいてくるみたいに。認めてしまえば戻れないと分かっているのに、もう見ないふりができない。
扉の向こうで、低い音がした。
器具が置かれる音。
水ではない液体の滴る音。
布が引かれる音。
人を運ぶ足音。
ルゥは記録束を元の棚へ戻し、息を浅くして身体をずらした。深部区画の扉そのものは閉じている。だが脇の観察窓の覆いが、ほんの少しだけ開いていた。わざとではないだろう。閉めきる前に、誰かが急いだのかもしれない。その小さな隙間へ、ルゥは息を殺して目を寄せた。
中は、手術室だった。
そして祭壇でもあった。
白い処置台。
静脈へ繋ぐ管。
薬草液の瓶。
金属の術具。
脈を見るための魔導盤。
壁に刻まれた祈祷文字。
頭上には灯りではなく、淡い光を帯びた術式陣がゆっくりと回っている。
ただの手術室ではない。
ただの祭壇でもない。
そのどちらでもある。
清潔さと神聖さが、同じ顔でこちらを見返していた。血や痛みを扱う場所でありながら、そこには悲惨さを覆い隠すような静謐があった。汚れを消すための白ではなく、汚れたと感じる心そのものを責めるための白。間違っているのは苦痛ではなく、苦痛を苦痛だと思う側なのだと、空間そのものが告げているようだった。
昏睡状態の信徒が一人、処置台の上に横たえられていた。両腕は固定されていない。暴れることを前提にしていないのだ。顔は穏やかで、眠っているようにも見える。それが余計に怖い。怯えていればまだ、人の抵抗が残っていると感じられたかもしれない。けれど、その顔には何もなかった。ただ静かな受容だけがあり、それがこれから行われることを肯定しているように見えた。
白衣の者たちが周囲を囲む。動きに迷いはない。宗教儀礼特有の熱もない。恍惚も高揚もなく、祈りに身を酔わせる様子もない。ただ、日々繰り返している医療行為の落ち着きで、人の中心へ手を伸ばそうとしている。
その時、処置室の奥、書架の前にいた人影がふいに横を向いた。
ルゥの心臓が強く跳ねる。
見覚えがあった。
医療棟の倉庫で会った助手。
あの時、言いかけて、怯えて、何かを知っている顔をしていた医療助手。
いなくなったと思われていた者。
生きていた。
だが、以前とは明らかに違った。
背筋は伸び、動きは無駄なく、表情は穏やかだった。怯えも、焦りも、辺りを窺う癖もない。人として壊れているようには見えない。むしろ整いすぎている。輪郭の一部だけが抜けて、その代わりに、穏やかさが過剰に流し込まれているようだった。
ルゥは思わず観察窓へさらに顔を寄せた。
そのわずかな布擦れに気づいたのか、助手がこちらへ視線を向ける。
目が合った。
以前なら、その瞬間に怯えが走ったはずだ。誰かに見られたと悟った生き物の反応が、そこには必ずあったはずだった。だが今は違う。助手はほんの少しだけ不思議そうに目を細め、それから、ごく自然にこちらへ歩み寄ってきた。
ルゥの身体が凍る。
逃げるべきだ。
だが、足がすぐに動かない。
観察窓越しに、助手の顔が近づく。
「おい」
ルゥは声を殺すように言った。
「分かるか」
自分でも、何を訊いているのか曖昧だった。名前か。記憶か。あの時の怯えか。まだ残っているものがあるかどうか、その全部をまとめて確かめたかった。
助手は少しだけ首を傾げた。
その動作は人間らしい。
人らしいのに、決定的におかしい。
「神の御手は、不要な苦痛を除いてくださいます」
静かな声だった。
祈りの文句としては自然だ。
だが、答えになっていない。
答えになっていないのに、本人はそれで十分だと思っている顔をしている。
ルゥはそこで凍った。
消えたのではない。
壊れたのでもない。
再編されたのだ。
人格の中心へ、別の論理を流し込まれている。
助手はさらに続ける。
「過剰な執着は、統合を妨げます」
その言葉を、どこかで習った定義みたいな滑らかさで言う。
「安定は祝福です。浄化は安寧です」
ルゥの胃がひっくり返りそうになった。
これは治療じゃない。
人の中心を書き換えている。
暴走を防ぐ。
情動を安定させる。
執着を軽減する。
書類の上ではそう書けるのだろう。だが実際に消されているのは、怒り、恐れ、未練、ためらい、抵抗――人の輪郭そのものだ。
助手は穏やかだった。
穏やかすぎた。
それが何より残酷だった。
ルゥの中で、いくつもの顔が一気につながる。
母。
ミナ。
倉庫で怯えていた助手。
第二階梯の候補者たち。
講演会で静かに拍手していた者たち。
全部が一本の線の上にある。
怒りが喉まで込み上げる。だが、声にはできない。ここで叫べば終わる。走り出せば捕まる。押し殺すしかない。押し殺した怒りは、声にならないぶんだけ熱く、喉の奥で焼けつくようだった。
処置室の奥で、別の白衣が書類束をめくる。
助手もそちらへ戻ろうとする。
その瞬間、観察窓の脇に差し込まれた次回移送予定の板が見えた。
対象番号。
階梯。
適性評価。
移送時刻。
ルゥの目が、その列の中のひとつへ吸い寄せられる。
名が書かれていた。
ミナ
その下に、淡々とした字で記されている。
安定不十分。
献形高適性。
献魔候補。
世界が止まった気がした。
字は他の誰とも同じだった。
同じ書式。
同じ大きさ。
同じ冷たさ。
それが、何より耐えがたい。
ミナの名が、ほかの誰とも同じ形で、同じ整理された字で、ただ次の処置対象として置かれている。そこには彼女の笑い方も、苛立った時の癖も、言い返す時の声音も、何ひとつ含まれていない。ただ処理されるべき適性だけが記されている。
その無機質さだけで、ルゥは吐きそうになった。




