第13話 残されているもの
中庭から戻ったあと、ルゥ=イリスは医療棟寄りの廊下で包帯箱の整理を手伝わされていた。白い棚、銀色の器具、乾いた薬草の束。昨日と同じ、生活の匂いよりも処置の匂いが勝る場所だ。夕方の光は既に薄く、窓の高い位置から斜めに差し込む灰色の明るさが、棚板の縁だけを淡く光らせている。
箱の中身を整えていると、少し離れた場所で、年配の信徒ふたりが低い声で話していた。
「明日はオレリアン様が来るそうですよ」
「そうですか」
続く会話は別の事務的な話へ移ってしまい、二人とも特に声を潜める様子もなかった。けれど、ルゥの指先はそこで止まった。布を畳む動きが、ほんのわずかに遅れる。
Aurelian-オレリアン-
ここにきてはじめて聞く名だった。
信徒が噂をする。それだけで通じる立場がある。
ルゥは箱の中へ視線を落としたまま、耳を澄ませた。
ふたりの信徒はもう別の話をしている。薬草の在庫、明日の受け入れ人数、奉仕班の交代。そこに先ほどの言葉は、もう続かない。たとえば誰かが「今日は雨ですね」と言ったのと同じくらい自然に、一度だけ出て、それで終わった。
だが、その自然さ自体が不気味だった。
包帯箱を棚へ戻しながら、ルゥは呼吸を整えた。
中庭でミナが口を滑らせた「上の人たちは残してる」という噂。
審問官は特別だ、という共通認識。
目を合わせるな、という掟みたいな噂話。
点だったものが、少しずつ線になる。
夕餉のあとの礼拝は、いつもより参加者が多かった。
審問の日だからだろうか。
それとも、静かになった施設全体が、もっと静かな場所を求めているのだろうか。
礼拝堂は白かった。天井は高く、灯りは低い位置に抑えられている。壁に描かれた意匠は抽象的で、翼とも波とも骨とも取れる線が、白の上へさらに薄い白で重ねられていた。正面に像はない。Cael の名は祈りに出るのに、姿らしいものはどこにもない。祭壇めいた台はあるが、その上に置かれているのは花でも聖典でもなく、ただ白布で覆われた低い台だけだ。
神のための空席みたいだ、とルゥは思った。
そこへ人々が集まり、祈る。
祈りは歌ではない。
唱和でもない。
低く揃えられた呼吸のようなもので、言葉はひどく短い。
Cael よ、静けさを。
Cael よ、痛みを遠ざけたまえ。
Cael よ、私たちを同じ光のもとへ。
言葉を聞くほど、ルゥは落ち着かなくなる。
痛みを遠ざける。
同じ光のもとへ。
そのどれもが、地下の白さとつながって聞こえるからだ。
礼拝の途中、後方の扉が一度だけ開いた。
音は小さい。
だが礼拝堂が静かすぎるせいで、そこだけがはっきり際立った。
数人が、ほんのわずかにだけ身じろぎする。
誰も振り向かない。
振り向かないのに、空気だけが一瞬で変わる。
ルゥは視線を正面から逸らさないまま、気配を探った。
白衣の擦れる音。
足取りはゆっくり。
複数ではない。
ひとり。
礼拝堂の後ろを、その人物が静かに横切っていく。
誰も見ない。
ルゥはちらっと目線を上にあげた。
頭に掛けた白衣の隙間から耳の輪郭がちらっと見えた。
その瞬間、ルゥの背中に薄い汗がにじむ。
耳がある上級職威。
視線を上げるな。
振り向くな。
そんな声がどこかから聞こえたわけではない。
なのに、礼拝堂全体がそう言っていた。
信徒の噂が頭の中にフラッシュバックする。
オレリアンか。
その人物は前へ出なかった。
祭壇にも近づかない。
ただ壁際の影へ立ち、礼拝が終わるまで動かなかった。
終わってからも、誰ひとりとして声をかけない。
信徒たちは順に一礼し、静かに礼拝堂を出ていく。
まるで、その影が最初から空気の一部であったかのように。
ルゥも列に混ざって外へ出た。
礼拝堂の外の廊下へ出るまで、一度も後ろを見なかった。
見られたくなかったからか。
見たくなかったからか。
その区別はつかなかった。
廊下へ出ると、詰めていた息が少しだけ戻る。
周囲の者たちも似たようなものらしい。
誰も口数は増えないが、呼吸の浅さだけは礼拝中より少し和らいでいる。
ミナが少し遅れて出てきた。
「今の」
ルゥが小さく言うと、ミナはすぐには答えなかった。
廊下の角まで歩き、周囲に人がいないことを確かめてから、ようやく口を開く。
「……たぶん、オレリアン様」
「耳があった」
ミナはひどく困った顔をした。
「耳が残ってる、変な言い方だよね」
やがて、そう言う。
「でも、みんなそう呼ぶことがある」
「何で」
「昔からそうだったって、上の人は耳がある、って」
「上って、誰」
「審問官さまとか……あと、もっと奥にいる人たち」
もっと奥。
その表現が、礼拝堂の白さよりもよほど冷たくルゥの胸へ落ちた。
この施設には階層がある。
共同生活者。
保護対象。
奉仕者。
信徒。
審問官。
そして、もっと奥。
外から見れば、皆が同じ白をまとっているように見える。
だが内側では、削る側と削られる側がきっちり分かれている。
廊下の向こうで、誰かが静かに笑った。
夕餉後の片づけが始まっているらしい。
木椀の触れ合う音。
布を畳む音。
誰かが子どもへ寝る支度を促す声。
生活は続いている。礼拝堂の影も、その生活の一部として馴染んでいる。
「ほかに見たこと、ある?偉そうな人の耳」
ルゥは低く訊いた。
「ちゃんと」
ミナは小さく首を振った。
「みんな、あんまり見ないようにするから」
「でも、耳は残ってるって知ってる」
「……うん」
「何で」
ミナは答えない。
答えないかわりに、指先で自分の角の根元を撫でた。
不安がある時の癖だと、ルゥはもう知っている。
「たぶん」
長い沈黙のあと、ミナがようやく言う。
「みんな、ちゃんと見てなくても、残されてるものだけは分かるんだと思う」
その言葉は、妙に真実味があった。
確かにそうかもしれない。
白い施設の中では、落とされた耳が象徴だ。
差し出されたものが、救済の代価になる。
ならば、それを差し出していない者は、見なくても分かる。
残されているものだけが、むしろ目立つ。
ルゥは自分の耳へそっと触れた。
髪の中に隠していても、存在そのものは消えない。
外の世界では厄介さの印。
この施設では、差し出すべき輪郭。
そして、耳ありにとっては、おそらく権威の印。
全部が同じ「耳」でつながっていることに、くらくらするような気分になった。
その夜、大部屋へ戻ってからも、ルゥの頭から礼拝堂の影は離れなかった。
顔は見ていない。
なのに、そこにいたことだけは確かに分かる。
存在の輪郭だけが部屋の空気を変え、誰もがそれを知っている。
この宗教の構造が、ようやく少しずつ露わになってきた気がした。
上に立つ者たちは「神に近い位置」として権威を持つ。
そしてその権威は、差し出していないもの――残されている耳――によって示される。
ルゥは毛布の中で目を閉じた。
耳をの残していること。
思っていた以上にこの施設の核心に近いのかもしれない。
下の者たちは耳を落とし、上の者たちは耳を残す。
そこに神の意思があると言い張るなら、なおさらこれは信仰ではなく構造だ。
白い大部屋は静かだった。
だがその静けさの中で、ルゥの中だけがはっきりと鳴っている。
残されているものがある。
それなら、奪われているものも、もっと明確に見えるはずだった。




