第12話 噂は本当だった
小会堂を出たあと、ルゥ=イリスはしばらく真っ直ぐ歩けなかった。
足が動かないわけではない。
歩ける。
階段も下りられるし、廊下の角も曲がれる。
それなのに、自分の身体がほんのわずかに遅れてついてくるような感覚だけが、いつまでも消えない。
まるで、誰かに一度だけ「止まれ」と命じられ、その残響がまだ筋の奥に残っているみたいだった。
噂は本当だった。
見られて、止められる。
完全に凍りつくわけではない。
だが、ほんの一拍でも身体の主導権を奪われるなら、それだけで十分だった。
逃げるにも、嘘をつくにも、叫ぶにも、その一拍は致命的になる。
廊下の窓辺で一度立ち止まり、ルゥは壁へ手をついた。白い漆喰はひんやりしていて、掌の熱を奪っていく。外では、午後の曇り空の下を、荷車がひとつ門の前で止まっていた。遠くで誰かが桶を落とし、すぐに謝る声が続く。そんなありふれた生活の音が、今はやけに遠い。
「ルゥ」
振り返ると、ミナが立っていた。
小会堂を出てから、彼女もすぐには声をかけてこなかったのだろう。少し距離を置いたところで止まり、こちらの顔色をうかがっている。昨日までのミナなら、もっと素直に近づいてきたかもしれない。今はその一歩分だけ、空気を読むようになっていた。
「大丈夫?」
その言葉に、ルゥの胸の奥が小さく軋む。
母の最後の三文字。
地下で耳を落とした女の礼。
審問の白い椅子。
全部が、一瞬だけ同じ場所へ集まった。
「……平気」
返した声は、自分でも驚くほど硬かった。
ミナは少しだけ目を細める。
平気ではないと分かっている顔だ。
それでも追及しない。
「少し、外の空気吸う?」
「外?」
「中庭でもいいけど。小会堂のあと、みんな、少し休むことあるから」
その言い方に、ルゥはひっかかりを覚えた。
みんな。
つまり、これは珍しいことではないのだ。
審問を受け、そのあとで少し外の空気を吸う。
緊張を解く。
たぶんそういう流れが、もう生活の一部として出来上がっている。
ルゥは壁から手を離した。
「……行く」
中庭へ出ると、空は朝よりさらに白く曇っていた。陽は見えないが、薄い明るさだけが全体を覆っている。洗濯物が風に揺れ、井戸端では誰かが布をすすいでいる。食堂の裏からは煮込みの匂いが流れてきた。施設の生活は滞りなく進んでいる。ついさっきまで、あの小会堂で人の内側が剥がされていたことが嘘のように。
中庭の隅、前にもミナに連れてこられた木箱のある場所へ行くと、ようやく少しだけ呼吸が戻った。
ミナはルゥの正面には座らず、斜めの位置へ腰を下ろした。真正面に座らないのは、彼女なりの気遣いかもしれない。審問の直後に、人と向かい合うのがしんどいことを知っている人間の動きだった。
「……感じた?」
ルゥが先に言った。
ミナは少しだけ黙る。
「何を」
「噂」
そこまで言ってから、ルゥは言い直す。
「見られると、動けなくなるってやつ」
ミナは自分の指先を見た。
それから小さく息を吐く。
「少しだけ」
否定しない。
もう、噂では済まなくなっている声だった。
「ほんの少しだよ。でも……うまく言えないけど、自分の動きが先に誰かに触られる感じがする」
その表現に、ルゥは背筋が冷えた。
自分の動きが先に誰かに触られる。
まさに、それだった。
「前から知ってたの」
「知ってた、っていうか……」
ミナは言葉を選ぶ。
「みんな、あまりちゃんと話さないから」
「でも知ってる」
「うん」
その短いやり取りの中に、この施設の仕組みが詰まっている気がした。
誰も明文化しない。
でも皆が知っている。
噂として流れ、噂のまま制度になる。
口にしすぎないことで、かえって強く根を張る。
風が吹き、木箱の脇の布が揺れた。
ルゥは目を伏せる。
中庭の土は少し湿っている。午前のうちに水をまいたのだろう。土の匂いは、外の世界を少しだけ思い出させた。市場の裏路地、宿屋の軒下、荷車置き場の泥。あちらの匂いはもっと雑多で、もっと生きていた。
「……あれ、魔法だよね」
ルゥが言うと、ミナはびくりとした。
「魔法?」
「そうじゃなかったら、おかしい」
見られただけで、身体が一拍遅れる。
あの感覚は、ただの威圧では説明がつかない。
もちろん、審問の場の空気や、皆の恐れが増幅していた面もあるだろう。だがそれだけではない。あの男は、何かしら「人を止める」側の力を持っている。
ミナはすぐには答えなかった。
視線を落としたまま、角の根元に指をやる。
「分からない」
ようやく出た声は細かった。
「でも、そう言う人はいる。審問官さまは、まだ失っていないって」
ルゥは顔を上げる。
「失ってない?」
「うん」
ミナはその言い方をした瞬間、自分でまずいことを言ったと気づいたようだった。唇がわずかに結ばれる。だが、もう遅い。
「何を」
「……いろいろ」
「誤魔化さないで」
思ったより強く出た声に、ミナの肩がこわばる。
ルゥはそこで初めて、自分が苛立ちを彼女へ向けてしまっていることに気づいた。ミナが悪いわけではない。分かっている。分かっているのに、白い施設の曖昧さが全部この少女の声の柔らかさへ集まってくるみたいで、うまく制御できない。
「……ごめん」
先に言ったのはミナだった。
ルゥは息を止める。
「別に」
「違う。今のじゃなくて」
ミナはかすかに首を振る。
「たぶん、わたし、話していいこととよくないことを、ここで先に考える癖がついてる」
その言葉が、ひどく痛かった。
話していいことと、よくないこと。
それを先に選別する癖。
それ自体がもう、白い共同体の中で身についた静けさなのだ。
ミナは少しだけ間を置いてから、続ける。
「上の人たちは、残してるって言う人がいるの」
「何を」
「……耳とか」
ルゥは何も言えなかった。
耳。
その一語だけで十分だった。
献耳が、この施設にとってどれだけ大きな意味を持つかは、もう嫌というほど見せられてきた。苦しみを薄めるため。壁を減らすため。恐れを軽くするため。そういう理屈で、耳は落とされる。
それなのに、上にいる者がそれを残している。
もしそれが本当なら。
ルゥの中で、何かが音もなく噛み合った。
「誰が言ったの」
「昔からいる人たち。噂だけど」
「見た人は」
「分からない」
ミナは俯いたまま言う。
「でも、審問官さまは特別だって、みんな知ってる。目を合わせるなっていうのも、そのせいだと思う」
ルゥの胸の底で、怒りに近いものが静かに形を持ち始める。
下にいる者へは、差異を薄めろと言う。
怖さを減らすために、壁を削れと言う。
耳を、角を、痛みを、輪郭を、少しずつ差し出させる。
その一方で、上にいる者だけが「まだ失っていない」。
それは、ただの宗教的権威ではない。
もっと露骨な上下だ。
削る側と、削られる側。
見届ける者と、薄くされる者。
中庭の向こうで、白衣の信徒がふたり通り過ぎた。
片方が何事か囁き、もう片方が短く頷く。
日常の顔。
共同生活の顔。
やさしい施設の顔。
その全部の奥に、いまルゥは別の構造を見た。
「ミナ」
呼ぶと、彼女は少しだけ顔を上げた。
「なに」
「お前、見たことない?」
「何を」
「上の人の耳」
ミナの呼吸が止まる。
それは一瞬だったが、ルゥの耳には十分すぎた。
答えを知っている時の止まり方だった。
「……ない」
返事は遅い。
そして薄い。
嘘だ、とはまだ言えない。
だが、見ていない人間の答え方ではなかった。
ルゥはさらに問い詰めようとして、やめた。
ここで追い込んでも意味がない。
ミナは自分から喋る時と、そうでない時の差がはっきりしている。今は後者だ。
風がもう一度吹いた。
白い布が揺れる。
中庭の静けさは保たれたままなのに、ルゥの中だけが少しずつ冷えていく。
審問官に見られると動けない。
しかも、その力を持ったまま、上に立っている。
そして上の者は、おそらく耳を残している。
噂は本当だった。
噂より、もっと悪かった。
ミナは何か言いたそうにしたが、結局口を閉じた。
ルゥもそれ以上は訊かなかった。
代わりに、自分の耳へそっと触れる。
髪の内側に隠した獣耳は、朝からずっと強張ったままだった。
ここへ入ってから、音に対してだけではなく、別の意味でも耳を意識するようになっている。
母が覆った耳。
切り落とされた耳。
残している者たちの耳。
その全部が一本の線でつながった気がした。
ミナが小さく言う。
「ルゥ」
「なに」
「……あんまり、そういうこと、口にしない方がいいよ」
心配の声だった。
脅しではない。
でも、その心配自体がもうこの施設の中にいる人間の声だ。
ルゥは答えなかった。
答えないまま、ただ施設の中枢が少し見えた気がしていた。
やさしい食卓。
名前を呼ぶ共同体。
痛みを減らす祈り。
その奥で、何も差し出さずに差し出させる側の人間がいる。
壊すべきものの輪郭が、ようやく少しだけ具体的になった。
第3章 終




