第96話「風をはらむ」
船の心臓は「帆」だ。
どんなに頑丈な船体を持ち、どんなに強力な武器を積んでいようと、風を捉える帆が弱ければ海の上ではただの塊に過ぎない。
研究所(仮)の机に、僕は船の設計図を広げて頭を抱えていた。
前世でヨットレースをやっていたからこその悩み。
ランさんの船の時も、僕の船を改装した時もそう。
風を切り裂き、海面を滑空するような極限のスピードの感覚が忘れられないからこそ、どうしても感覚がそこから抜け出せない。
僕の頭の中にこびりついて離れないのは、飛行機の羽のように固定された翼断面の帆の形状。流体力学的に最も効率よく推進力を生み出すその形状なら、この世界のどんな船より速く走れる。
「…でも、そうじゃない」
僕は設計図に描いた翼断面の帆に、ぐしゃぐしゃとバツ印を描き込んだ。
この船が航走するのは綺麗に整備されたレース海域じゃない。
セレニアの近海は浅瀬や細い水路が入り組んでいるし、外洋に出れば気まぐれな突風が吹き荒れる。いざという時は、大きな川を遡上することだってあるかもしれない。
そんな予測不能な自然の中で求められるのは、絶対的なスピードではなく、取り回しのしやすさと小回り性能だ。
風向きが急変した時、固定された翼断面の帆では風を逃がしきれず、最悪の場合、船が転覆してしまう。それに、以前考えたマストの形状からしても、帆は折り畳めたり、巻き取れたりする柔軟性のあるものじゃなきゃ物理的に成立しない。
「柔軟性があって、でも風を受けた時は翼のように硬く形を保ち、水を吸わず、耐久性がある帆…」
僕は椅子に深く背を預けて、天井を見上げた。
リネンはダメ。柔らかすぎるし、たぶん僕の想定する取り回しに耐えられない。水も吸うし、重くなる。
カーボンは硬すぎてダメ。CNTは!?と思ったけど、作ったことないし、柔軟性がなさすぎて風向き次第で割れるだろうなあ。
前世のヨットでも使っていた高機能繊維があればいいけど、あれはたぶん、僕のスキルで作るのは無理っぽい。あの繊維は高分子化学の産物で、スキルの適性とは違う気がする。
なんかいいのないかなあ…。
ん?…いや、待てよ?
一つの素材で無理なら、組み合わせればいけるかも?
僕は机の引き出しから、一枚の布を取り出した。マルコさんが僕の船のためにと、特別に織らせて準備してくれている最高級のリネン帆の端切れだ。
しなやかで、風を孕むには最高の布。だけど、強い雨や波を被れば水を吸って重くなり、強風では伸びたり破れたりしてしまう。
「船体の樫材と同じように、このリネンの繊維の隙間にCNFを浸潤させたら…?」
CNFの分子をリネンの繊維と完全に結合させる。
そうすれば、普段は布としての柔軟性を保ちながら、強風を受けて極限の張力がかかった瞬間だけ、繊維同士がガッチリと組み合わさって硬化し、理想的な形を維持できるかもしれない。
帆の角度やロープの張り方次第で、微風を拾う柔らかい帆にも、暴風を切り裂く硬い帆にも自在に変化する、究極の可変セイル。
「可能性はあるけど…でも、それだけじゃまだ足りない」
海上の苛酷な環境――塩害、強烈な紫外線、そしてカビや汚れ。
帆が直面する環境は過酷だ。普通の帆なら、数ヶ月で劣化が始まる。僕が作る船は、そんな短いサイクルで帆を交換するような船じゃない。
樫材にCNFを浸潤させた時は、その細胞の一つ一つにCNFを融合させることで隙間を無くし、水分子の侵入を防いだ。繊維でもたぶん同じことができるはず。そして、その上で、なんらかのコーティングができればいいと思う。そう、あの亜鉛メッキのようなイメージ。金属でのコーティング。
「アディの『接合』スキルでくっつけてもらうのはどうかな?」
いや、それだとダメだ。たぶん、外側が金属で内側が繊維になって柔軟性が失われる。内側を金属にしても結果は同じだろうし、根本的に違うと思う。金属の板と布をくっつけても、それは金属の板だ。
じゃあ、どうしたら…。
金属と繊維を、分子レベルで混ぜ合わせる?…いや、混ぜ合わせるんじゃない。あらかじめ混ぜておく…とか?
「…あ!そうか!ある!プリミックス浸潤だ!」
それこそ前世でやっていたじゃないか!
ベースとなる液体に、あらかじめ機能性粒子を均一に混ぜ合わせ、その混合液を基材の奥深くまで染み込ませる!
ヨットのメンテナンスで、樹脂に炭素繊維の粉末を混ぜて補強材として使っていた。あれと同じ原理!
ベースはCNF!
機能性粒子は…そうだな、チタン粒子!
基材はリネンの繊維!
僕の『圧縮』スキルなら、液体にこだわらなくてもできる!
さっそくやってみよう!
◆◇◆◇◆
準備したのはCNFのブロックとチタンの塊と、マルコさんからもらったリネン帆の端切れ。
CNFのブロックの上にチタンの塊を置き、まずはまとめて『粉砕』する。
左手をかざして…十秒。いつもの時間が経過した途端、二つの物質は粉砕されて微細な粒子となった。
やっぱり十秒ルールは絶対なんだなあ。
このスキルを使い始めてから随分とレベルアップして、やれることもたくさん増えたけど、この十秒ルールだけは変わらない。もう、このスキルの絶対ルールとして考えた方がいいのかもしれない。
作業台の上で、銀白色のチタンの粉末と、白いCNFの粉末が混ざり合っている。
「圧縮」
チタン粒子の一粒一粒が、CNFのナノ繊維という網目に食い込むように、なるべく均一に…構造体の漏れがないように…。
イメージするのは、スポンジの隙間に細かい砂が詰まっていくような感じ。でも、ただ詰まるだけじゃなくて、スポンジの繊維と砂が分子レベルで絡み合う。
「できた…」
先ほどまで乳白色だったCNFのブロックが、銀色の不思議な感じのする光沢を持ったブロックへと変わった。
手に取ってみる。重い。CNFだけの時よりは重い。でも、チタンの塊よりはずっと軽い。
「綺麗…?」
どうだろう?美的センスは人それぞれだからなんともいえない。でも、僕は好きだな。この独特な輝き。
「じゃあ、これをリネン帆の端切れに浸潤させる…圧縮!」
リネンの繊維内で、CNFが激しく収縮し、抱えていたチタン粒子を繊維の壁に叩きつける。水分が弾け飛び、スカスカだった隙間が消滅して、三つの素材が分子レベルで噛み合った。
その過程が、なんとなくだけど感覚でわかる。スキルを使っている時の、あの独特な感覚。まるで自分の手が物質の内部に入り込んで、分子を一つ一つ並べ替えているような。
出来上がったそれは、もはや元のリネンとは別物だった。
手触りは麻の温かみを残しながらも、その芯にはチタンの剛性が宿っている。曲げればしなやかだが、引っ張っても鋼鉄のように微動だにしない。
試しに、端切れを両手で思い切り引っ張ってみる。
びくともしない。
普通のリネンなら、この力で簡単に伸びるか破れるかするはずだ。でも、これは…。
「すごい…」
次に、折り曲げてみる。柔らかい。普通の布と変わらない。
でも、叩いてみると、コンコンと硬質な音がする。
「これだ…これなら僕の考えていた帆ができる!」
そして、これ!このやり方はものすごく応用がきく!
今回はチタンでやってみたけど、タングステンや真鍮、ニッケルや…あ、そうか!たぶん最適解はチタンとニッケルの合金でやるのがいい!その方が、チタン単体よりも海水への耐性は向上するし、粘りも増す!
これだ!リネンとCNFとチタンとニッケル!
帆だけじゃない!ロープも全部これにすれば、摩耗もほぼ気にする必要がないし、ロープ特有の遊びも考える必要がなくなる!
操帆索具全体を、このハイブリッド繊維で統一する!
「できたーーーーーー!!!」
僕は思わず立ち上がって、端切れを振り回した。
この技術があれば、船の帆とロープの問題は完全に解決だ!
あとは、操作補助の仕組みと武装を考えれば…。
でも、その前に、もっと大きなリネン布で試してみないと!
(第96話「風をはらむ」終わり)
◆◇◆◇◆次回予告◆◇◆
「アディです!ルカが帆の素材を作ったんだって!すっごく強くて、でも柔らかい不思議な布!ルカ、最近ずっと船のことを考えてて、すごく楽しそう。私も手伝えることがあればいいんだけど…」
「次回、『風を詰める』。風と共に走り、風と共に動かす!」




