第2話「婚約」
その船の中に入った瞬間、ルカ・マルチェッロは目を丸くして立ち止まった。
「す、すごい…!!な、なにこの清潔さ!?」
ルカの知る限り、船というものはもっと湿っぽくて、カビ臭いのが当たり前だ。
なのに、ここは違う。
床板は顔が映るくらいピカピカに磨き上げられているし、空気も全然澱んでいない。
むしろ、いい匂いがするくらいだ。
「これなら菌の繁殖も抑えられるし、ロープの劣化も防げる…!合理的だ…ものすごく合理的だよ!ねえアディ、これ誰が管理してるの!?すごすぎるよ!」
ルカが眼鏡をズレさせながら興奮してまくし立てると、前を歩いていたアディが振り返って、えへへと誇らしげに笑った。
「でしょ?私たちの船(家)は、いつもキレイにしておくのが決まりなの。『汚れた船は病気を呼ぶ』し、『いざという時に動きが鈍る』からって、お父さんが口うるさくって!」
「お父さんが?素晴らしい…!」
すっかり感心してキョロキョロするルカを、アディは船の奥にある部屋へと案内した。
重厚な扉が開かれる。
「お父さん!連れてきたよ!」
アディの元気な声が響く中、ルカはドキドキしながら部屋へと足を踏み入れた。
そこは、船長室というよりは、実験室のような場所だった。
壁一面に海図が貼られ、見たこともない道具が並んでいる。
その中央、革張りの椅子に、あの巨漢が座っていた。
「…来たか」
カイの声は、船底から響く重低音のようにルカの鼓膜を震わせた。
間近で見ると、その迫力は桁違いだった。ルカは思わず直立不動になる。
(うわぁ…!近くで見るともっと大きい!心拍数上がってきた…!)
カイは組んだ両手の上に顎を乗せ、静かに口を開いた。
「改めて名乗ろう。私はカイ。この船団を率いる者であり、海の民を統べる六人の長が一、『六の長』だ」
「ろ、六の長…!?ほ、本物だ…!」
ルカは息を呑んだ。伝説上の人物が目の前にいる。
カイは鋭い眼光でルカを見つめた。
「娘のアドリアーナがお世話になった。部下からの報告では、お前が奇妙な術を使って娘を助けたそうだな」
「あ、はいっ!ぼ、僕はルカ・マルチェッロと言います!その…術というか、あれは物理的な構造干渉でありまして!えっと、つまり科学の力なんです!」
緊張のあまり声が裏返り、身振り手振りで説明しようとするルカを制するように、カイは片手を上げた。
「理屈はどうでもいい。結果として、お前は娘を救った。我ら海の民は、受けた恩は必ず返す。…望みを言ってみろ。金か?それとも珍しい東方の宝石か?」
試されるような視線。
ルカはゴクリと唾を飲み込んだ。汗がダラダラと頬を伝う。
怖い。逃げ出したい。
けれど、ここで引けば一生後悔する。
ルカの中の「発明好きの少年」としての魂が、恐怖をねじ伏せて叫んでいた。
「お、お金なんて…要りません!」
「ほう?では何を望む」
「こ、交易を…僕と、取引をしてください!」
ルカは震える手で、ポケットから市場で貰った貝殻を取り出した。
「ぼ、僕は…今はまだ何の実績もない商家の五男です。でも、僕には知識があります!海底にある鉱物や、深い海の貝殻…それらを僕のスキルで加工すれば、今までにないすごい素材が作れるんです!」
ルカは必死だった。
絶対に錆びない顔料や、鋼鉄より軽い素材。
自分の頭の中にある設計図を、夢中で語った。
「…だから、その、チャンスをください!」
言い切ったルカは、肩で息をした。
カイは沈黙したまま、じっとルカを見つめている。
永遠にも思える時間が過ぎた。
「…面白い」
カイが短く呟いた。
その強面な顔に、僅かだがニヤリとした笑みが浮かぶ。
「お前の言っていること、半分もわからんが、嘘ではないな。その目は、水平線の向こう側を見たがっている奴の目だ」
「あ…!」
「だが、交易となれば話は別だ。我らは陸の人間を信用していない。特に商人はな。…信用できる証が必要だ」
カイの指が、机をトン、と叩く。
ルカは言葉に詰まった。
「そ、それは…」
「だから、こうしよう」
カイは悠然と立ち上がり、ルカとアディを見下ろした。そして、とんでもないことを平然と言い放った。
「アディを嫁にやろう」
「「えぇっ!?」」
ルカとアディの声が綺麗にハモった。
二人は顔を見合わせ、それからカイを見た。
「お、お父さん!?何言ってるの!?」
「ちょ、待ってください!よ、嫁って…け、結婚ですか!?僕はまだ十二歳ですよ!?」
「海の民の掟では、命の恩人とは血の契りを結ぶのが最上の礼儀だ。それに、お前のような面白い血(才能)を、みすみす逃す手はない」
カイは真顔だった。
彼はルカの頭を、ガシガシと乱暴に撫でた。
「婚約だ。マルチェッロの小僧。これでお前は『身内』だ。身内とならば、いくらでも取引をしてやる」
「そ、そんな無茶苦茶な…!」
「アディは嫌か?」
「えっ!?わ、私は別に…」
アディがモジモジして俯く。
「なら決まりだ。詳しい日取りは追って決める」
カイはそれだけ言うと、「少し風に当たってくる」と言い残し、マントを翻して部屋を出て行ってしまった。
バタン、と扉が閉まる。
あとに残されたのは、真っ赤な顔をした二人の子供だけだった。
ルカはギギギと首を回して、隣のアディを見た。
アディも顔を真っ赤にして、床の木目を必死に見つめていた。
「…あー、その」
ルカが口を開くが、言葉が続かない。
心臓が早鐘を打っている。
ついさっきまで「突然の仲間」として笑い合っていたのに、急に「婚約者」と言われても処理できるわけがない。
沈黙を破ったのは、アディの方だった。
彼女は上目遣いでルカを見た。
「…嫌、だった?」
不安げに揺れる瞳。
それは、檻の中で見せた強気な姿とは違う、普通の女の子の顔だった。
その表情を見た瞬間、ルカの混乱は吹き飛んだ。
「い、嫌なわけないよ!」
ルカは慌てて手を振った。
「き、君は明るくて、元気で、その…可愛いし!ただ、あまりに急だったから、その、心臓が止まるかと…!」
「…ほんと?」
「本当だ!僕の方こそ、君みたいな素敵な子が、僕なんかでいいのかなって…」
ルカが正直に言うと、アディはぱちくりと瞬きをして、それから――パッと花が咲くように笑った。
「そっか!なんだ、びっくりさせないでよね!」
彼女はいつもの調子を取り戻し、ニッと笑ってルカの前に手を差し出した。
「じゃあ、よろしくね!私の旦那様!」
「う、うん…よろしく、アディ」
ルカはおずおずと、その手を握り返した。
アディの手はやっぱり温かくて、ルカの手も汗でびっしょりだったけれど、二人はお互いに笑い合った。
ルカ・マルチェッロ十二歳の春。
彼は、最強の海の一族とのコネクションと、とびきり元気な婚約者を同時に手に入れたのだった。
(第2話「婚約」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「いきなりアディと婚約しちゃった!でも、家に帰って父様たちになんて説明しよう…。『ただいま、婚約者連れてきたよ』なんて言ったら、心臓止まっちゃううんじゃないかな?それに、ロレンツォ兄さんが怖い顔で帳簿を持ってる…えっ、ウチってそんなに借金あるの!?」
「次回、『存続』。マルチェッロ家、大ピンチです!」




