第102話「図書館」
船でセレニアに帰ってくる途中、ランさんから「あと二ヶ月もすれば、灯台も完成する」と伝えられた。
防波堤ができたことで、上物の建築は驚異的なペースで進んでいるらしい。
研究所(仮)の作業机に向かいながら、僕は灯台の最上部に設置する「光源」について思考を巡らせていた。
コンペの時に作った「エンピレオの光(反射鏡)」に加えて、フレネルレンズ(光を遠くまで届けることができるレンズ)もアディに協力してもらって、透明CNFで作ってある。
問題は、光の元となるランプ。
強い光をなるべく長くもたせて、できれば白っぽい光にしたい。それなら、エンピレオの光とフレネルレンズの力を存分に発揮することができる。
普通のオイルランプでいいかなとも考えたけど、できればもっと灯台にふさわしいものにしたい。
「まだ時間はあるから、ゆっくり考えようっと」
それよりも、今は考えたいことと調べたいことがある。
先日、マルコさんがこぼした「ヘラクレス…バアル…」という呟き。
そして「羅針盤や六分儀は、ご先祖様の遺産だ。作り方も原理もわからない」という言葉。
この二つが、どうしても頭の中で不協和音を鳴らし続けている。
最大の違和感は、「バアル」という単語に対するマルコさんの態度だった。
セレニア共和国の一般人にとって、「バアル」とは聖典に登場する邪悪な悪魔の名前だ。蠅の王や偽りの神として、忌み嫌われる存在。ヘラクレスという古代の偉大な英雄(神)と並べて口にするような言葉ではない。
だが、あの時のマルコさんの声には、悪魔に対する忌避感など微塵もなかった。むしろ、畏れ多くも恭しい響きを感じた。
「英雄と悪魔が、マルコさんの中では同列…?いや、そもそも『バアル』って本当にただの悪魔なの?」
前世のうろ覚えの知識と、今世で見聞きした神学の記憶が頭の中で混ざり合う。
僕は研究所(仮)を出て、マルチェッロ家の広大な屋敷の中を歩き、居間へと向かった。
分厚い絨毯が敷かれ、壁には見事なタペストリーが飾られたその部屋の片隅に、重厚なガラス張りの書棚がある。
そこには、神学書や歴史書がずらりと並べられていた。
僕はまず、当代の神学の集大成とも言えるペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』を引き抜いた。
ペトルス・ロンバルドゥスは、アルカディア教神学の「標準化」を成し遂げた人。
それまで数や定義がはっきりしていなかった儀式を、「洗礼・堅信・聖体・悔悛・終油・叙階・婚姻」の七つに限定して定義したりした。
一言で言えば、混沌としていたアルカディア教の知識を、学校で教えられるレベルまでピシッと整頓し直したすごい人なのだ。
僕は、命題集の分厚い羊皮紙をめくり、偶像崇拝や異教の神々に関する記述を探した。ラテン語の緻密な文字を目で追い続けること数十分。
「…あった」
そこには、バアルが元々は単なる悪魔の名前ではなく、古い東方の言葉で「主人(Possessor)」や「夫(Vir)」を意味する一般名詞であったことが記されていた。
東方の民は、自分たちの守護神を「我が主」と呼んで崇拝していた。それがアルカディア教聖典の編纂者たちによって「偽りの主」、すなわち「異教の偶像(悪魔)」として転用され、定着してしまったという経緯だ。
「なるほど…。マルコさんが口にしたバアルは悪魔の意味じゃないんだ。でも、待てよ。それだと、ヘラクレスが守護神ってことにならない?ヘラクレスを主神にしてる宗教なんてあったかな…」
前世でのヘラクレスは、ギリシャ神話に登場する英雄だ。「神話」というからには、神なんだろうけど、誰かが信仰しているというイメージがまったくない。
こっちの世界では、ギリシャはエピステミア。地政学からしてもそれは間違いない。エピステミア神話ってあるしね。
ただ、エピステミア神話といっても、オウィディウスの『変身物語』がそれ。名前は違うけど、中身はエピステミア神話なんだよね。ややこしい。
うちには『変身物語』はない。でも、『歴史叢書』がある。
「確か…ヘラクレスのことが載ってたのは第四巻だったよね」
僕は『命題集』を戻し、次にディオドロス・シクロスの『歴史叢書』全四十巻のうち、ひと際分厚い第四巻を引き抜いた。
何年前だったかな。エピステミア語を習い始めた時、試しに読んでみたけど、少ししか読めなくて、さらっとした流し読みしかできなかった。でも、印象的な単語だけは覚えている。
パラパラと羊皮紙をめくり、ざっと読んでみる…うん、ちゃんと読める。学問って大事!
「えーと…あった、ここだ」
そこには有名なヘラクレスの十二の功業が記されていた。
獅子退治やヒュドラ退治、鹿生け捕りや猪生け捕り、ケルベロス捕縛。勇ましいなぁ。あ、でも牛舎掃除なんてのもある。
ヘラクレスって名前は有名だけど、詳しいことはあまり知らなかった。うん、面白い話ばかりだ。怪力が注目されるけど、知略話もけっこう多い。英雄ってこういうことか。
読み進めていくうちに、その先にあった記述が目に入った。
「ん…なんだって?『より古い、東方のヘラクレス』?」
しかもそのヘラクレスは、エピステミアのヘラクレスよりも『遥か昔』に、世界を巡って悪を討ったと書いてある。
「これは…よくある神話や宗教の上書きってやつなのかな」
実際、アルカディア教も、古代の冬至の祭りを「クリスマス」にしたり、春の豊穣祭を「復活祭」に上書きしちゃってるし。
僕は腕を組んだ。
「また東方…」
僕もそうだけど、セレニアの人が東方というと、一般的には『ビザンティア帝国』か、リブラリアがある『エジプティア王国』のことを指すんだけど…ディオドロスもそうなのかな。
…いや、そんなわけないよね。僕らが言うのは、あくまでイル・マーレ沿岸部のことだもん。当然だけど、沿岸部だけでなく内陸部だってあるし、そこから繋がる他の国だってある。
…なんだっけ…そういうことがたくさん書いてある本があったはず。
僕は本を書棚に戻し、一人で屋敷の奥へと向かった。
目指すのは、もっともっとたくさんの本を所蔵している書庫だ。
途中、アリアさんとすれちがった。
「ルカ様、どちらに?」
「図書館で調べものしてくるよ」
「わかりました」
書庫は、僕もロレンツォ兄さんもお父様も、みんなが「図書館」と呼んでいる場所。
印刷技術が発達していない文化における本は貴重品だ。例えば、居間においてあったディオドロス・シクロスの『歴史叢書』全巻なんて、小さい国の国家予算に匹敵する金額になってもおかしくない。完本を書き写すために数百頭の羊の皮と数年の歳月が必要なんだもん。そりゃあ高価になるよね。
マルチェッロ家が裕福だった昔、ドージェを輩出したあたりなのかな。そのあたりにたくさんの本を買ったり、寄贈されたりしたものが書庫にはたくさん所蔵してある。
生活が苦しくなった時でも一切売らなかったマルチェッロ家の知の源泉。
分厚いオーク材の扉を押し開けると、冷やりとした空気と共に、古い皮革、没食子インク、そして羊皮紙の匂いが鼻を突く。
重い扉を閉めると、書庫の中は完全な静寂に包まれた。
袖をまくり上げ、誰の目もない密室で、歴史の深淵へと足を踏み入れた。
僕が探そうとしているのは、イシドールスの『語源』と、プリニウスの『博物誌』。百科事典のようにたくさんの種類のたくさんの事柄が書いてある本だ。
確か、お父様が書庫を整理したときに索引っぽい栞を挟んでくれていたはずだけど…。
あった!『博物誌』発見!
東方のことやイル・マーレ沿岸を調べるならこっちだから助かった。『語源』も見たかったけど…たぶん本格的に探さないとダメそうだから、今日はいいや。
『博物誌』の著者プリニウスは、博物学者であり、政治家・軍人でもあるという要素満載な人。「眠っている時間以外はすべて学問に捧げる」と言うほどの勉強家で、常に秘書を連れて読書や口述筆記をさせていたっていうんだから…うらやましい。
僕は羊皮紙をめくり、イル・マーレ沿岸の地理について書かれたあたりに目を通し始めた。
東方やイル・マーレ沿岸の地理。気候。そして、そこに住む民族や都市の記録。
無数の情報が詰め込まれた文字の海を泳いでいく。プリニウスの記述は多岐にわたりすぎていて、うっかりすると珍しい動物や鉱物の話に気を取られそうになる。
「…あれ?これって…」
ヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)についての記述の中に、ガデスという都市のことが書いてあった。
ガデスには、古代から存在する非常に有名な「ヘラクレス神殿」があるらしい。
だが、プリニウスはそこにはっきりとこう記していた。
『このガデスの神殿に祀られているのは、エピステミア人が呼ぶところのヘラクレスではない。テュロスを起源とする神、メルカルトが祀られている。エピステミア人はこのフェルキールの神を、自らの英雄ヘラクレスと同一視したのだ』
「…メルカルト?…テュロス?フェルキール…?」
僕は弾かれたように顔を上げた。
聖書の「エゼキエル書」に、これでもかというくらいに、富と豪華さが詳しく書かれている都市がある。その都市の名前が『テュロス』。
『あらゆる国の船が集まり、銀、鉄、錫、鉛、象牙、黒檀、紫布で満ちている』って書いてあった都市。
…そうだよ!なんで気づかなかった!紫色!
僕の船に描いた「海の民」の紋章。丸に紫地の染め抜き、銀色の三日月と、その中に二つの並びの銀色の小さい丸。紋章に使う色は、その家や民族を表す象徴的な色だ。
フェルキール。
古代エピステミアが台頭するよりも、さらに昔。高度な天文学で星を読み、巨大な船を操ってイル・マーレの交易を独占した航海者たち。彼らは独自の言語を生み出し、高度な工学やガラス細工、紫色の染料の製法を独占していたらしい。
失われた紫色だ…。
フェルキールの紫色で染められた布は、まったく退色しない。普通の染料は日光で退色するけど、フェルキールの紫色は太陽光に当てるほど色が鮮やかになり、決して色褪せないという神秘的な性質を持っている。
僕もドージェ宮殿で本物を見たことがある。
よくある青紫ではなく、熟した葡萄の搾り汁のような赤紫。
そういえば、僕の船の帆に描かれた、海の民の紋章の紫も赤っぽい紫だった。アディが『調律』スキルで染めてくれた色。たぶん、アディにとっては、あの紫が、慣れ親しんだ紫色だったんだ。
フェルキールの紫は、ムレックス貝という巻貝から採るらしいけど、一個から採れる量は微々たるもの。なんでも、一グラムの染料を採るためには、数万個もの貝を必要としたというから驚きだ。
「…つながった」
海の民は、フェルキールの末裔なんだ。推測でしかないけど、間違いないように思える。
そして、ヘラクレスは、メルカルトというフェルキールの神を上書きしたもの。だから、マルコさんは、『我が主』という意味で「ヘラクレス…バアル…」という言葉を言ったんだ。
フェルキールは、二千年以上前に滅んだと言われている。ヒエロニムスの『エゼキエル書注釈』に、そのあたりのことが詳しく書かれているから間違いないはず。
フェルキールは侵略国家ではなかった。それなのに、優れた文物がたくさんあり、富がたくさんあった。だから、周囲からたて続けに攻め込まれ滅びた。バビロニアによって、十年以上テュロスが攻められ、最後は、古代エピステミアのアレクサンドロス大王によって地形を変えられるほどの猛攻を受け滅ぼされた。これは歴史の事実だ。
「災いなるかな、バビロン…か」
アルカディア教の神学者ヒエロニムスは、フェルキールが根拠地にしていたテュロスの滅亡を「商業的成功による傲慢」への罰として描いている。
これは征服者の論理だ。もっともらしい理由で、富を収奪した結果にすぎない。
そして…フェルキールの生き残りが、リゾーラという新たな根拠地を得て「海の民」となった。…そういうことか。
とすると、マルコさんが言っていた「原理もわからない、ご先祖様の遺産」とは、フェルキールの遺産なのだろうか。それとも、主のなかったリゾーラに眠っていたものなのかもしれない。
「リゾーラに行ってみたいな…」
アディと出会うことによって大きく広がった僕の未来。リゾーラに行けば、さらに広がるような気がする。
いや!きっと広がる!
(第102話「図書館」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「こっちの世界で知った知識と前世の知識が、段々とごちゃごちゃになってきちゃった。整理してまとめておかないと、致命的なミスをしそうで怖いかも。…あれ?そういえば、前世の記憶って…え?あれ!?」
「次回、『前世』。記憶の断片」




