第1話「救出」
春の陽光が、水の都セレニアの運河に降り注いでいた。
水面は砕いた宝石を撒き散らしたようにきらめき、行き交うゴンドラの櫂が立てる水音が、心地よいリズムを刻んでいる。
潮風には、少しばかりの藻の匂いと、活気ある市場の熱気が混じっていた。
「おじさん!この魚、東の海流に乗ってきたやつだよね!?」
市場の魚屋の店先で、ルカ・マルチェッロは目を輝かせて身を乗り出した。
栗色の髪が跳ね、大きな眼鏡の奥にある瞳が知的な光を宿している。
十二歳という年齢にしては、その観察眼は妙に大人びていた。
「おっ、坊主よくわかったな!鱗の輝きが違うだろ?」
「うん!この『シマアジ』の亜種は寒暖差のある海域を好むから、東の冷たい海流とセレニアの温かい海流がぶつかる場所を通ってきたはずなんだ。ってことは、今年の回遊ルートは例年より少し北寄りってことになる…すごいよ、これは貴重なデータだ!」
ブツブツと早口で独り言を呟き始めたルカに、魚屋の主人は苦笑しながらオマケの貝を袋に放り込んだ。
「相変わらず難しいことを楽しそうに言う坊主だな。ほらよ、おまけだ」
「わあ、ありがとう!お母様が喜ぶよ!」
ルカはペコリと一礼すると、重たくなった買い物袋を抱えて歩き出した。
彼の中身は、前世で材料工学を専攻していた大学院生だ。
この世界に転生して十二年。
彼の探究心は衰えるどころか、魔法と科学が混在するこの世界で加速していた。
(理論上、あの海域には未発見の海底鉱脈がある可能性があるんだ。でも、今のセレニアの造船技術じゃ、あの荒れる海域には近づけない…くそぅ、もっと技術があれば!)
そんな空想に浸りながら広場に差し掛かった時だった。
人々のざわめきが、楽しげなものから、刺々しいものへと変わった。
「おい、見ろよあれ」
「海の民か?こんな街中で」
野次馬が作る人垣の向こうから、怒号が聞こえる。
ルカは不穏な空気を感じ取り、小柄な体を活かして大人たちの隙間をすり抜けた。
広場の中央、石畳の上に置かれていたのは、頑丈そうな鉄格子の檻だった。
その中に、一人の少女が閉じ込められている。
「…ッ」
ルカは息を呑んだ。
年齢はルカと同じくらいだろうか。
健康的に日焼けした肌に、短い黒髪。
大きな赤いリボンこそ着けていないが、その瞳には決して屈しない、野生の猫のような強い光が宿っている。
彼女は檻の鉄棒を両手で掴み、周囲を取り囲む男たちを睨みつけていた。
「言え!お前らの本船はどこに停泊している?どうやってあの暗礁地帯を抜けてきた!」
薄汚れた身なりの男が、警棒でガンと檻を叩く。
少女はビクともせずに言い返した。
「知らないって言ってるでしょ!私はただ、迷子の猫を追いかけてたら捕まっただけなんだから!」
「嘘をつくな!海の民が『知らない』なんてことがあるか!お前らは星を見て位置を知り、風を見て未来を知る魔女の一族だろうが!」
男たちの言葉には、侮蔑だけでなく、得体の知れないものへの恐怖が滲んでいた。
海の民。
陸の国家に属さず、海上で一生を過ごす謎多き民。
彼らは魔法を使う、嵐を呼ぶ、そんな迷信がまことしやかに囁かれているが、ルカの分析は違っていた。
彼らは単に、陸の人間が及ばないほどの「高度な航海知識」を持っているだけだ。
(どうする…?僕に何ができる?)
ルカの心臓が早鐘を打つ。
計算高い頭脳は、今すぐここを立ち去り、衛兵を呼ぶのが最善手だと弾き出している。
自分は戦士じゃない。ただの科学オタクだ。
だが、檻の中の少女が、一瞬だけ見せた不安げな表情が、ルカの理性を揺さぶった。
(確率は…低い。でも、あの子を見捨てるなんて計算、僕にはできない!)
思考より先に、足が動いていた。
「や、やめるんだ!」
裏返った声が広場に響く。群衆の視線が一斉にルカに集まった。
男の一人が振り返り、眉をひそめる。
「あぁ?なんだこの眼鏡のガキは」
「そ、その子は…僕の友達なんです!海の民なんかじゃない!」
ルカは精一杯の虚勢を張って叫んだ。
震える膝を必死に抑え込む。
男は鼻で笑い、ルカの胸倉を突き飛ばした。
「どけ!友達なわけあるか。こいつの身なりを見ろ。ボタンひとつ、布の織り方ひとつ、陸の物とは出来が違う。間違いなく海の民だ」
「うわっ!」
ルカは石畳に尻餅をついた。買い物袋から魚と貝が転がり出る。
男たちは再び少女に向き直り、今度は檻の鍵穴に手を掛けようとした。
「さあ、吐かせてやる。出てこい!」
「やだ!離してよ!」
少女が抵抗し、男の手にかみつく。
その光景を見た瞬間、ルカの中で何かが弾けた。
(――構成物質、精錬度の低い鋳鉄!炭素含有量のムラが大きい…いける、これなら壊せる!)
ルカは立ち上がり、猛然とダッシュした。
男たちの隙間を潜り抜け、檻へと飛びつく。
「なんだこいつ!?」
「離れろ!」
男がルカを引き剥がそうと手を伸ばす。
だが、ルカの両手はすでに冷たい鉄格子を握りしめていた。
(発動条件、接触完了!頼む、うまくいってくれ!)
ルカは目を閉じ、全神経を指先に集中させる。
彼の脳裏に、鉄の結晶構造が青写真のように浮かび上がる。
原子の結合、その隙間、微細な亀裂。
(10、9、8…)
「おい、何してやがる!」
背中に男の拳が振り下ろされる。
鈍い痛みが走るが、ルカは決して手を離さない。
痛い、けど離すもんか!
(7、6、5…まだだ、まだ足りない。もっと深く、原子間結合を『解く』イメージを!)
それは魔法ではない。
前世の知識と、この世界で得た異能が融合した、物理法則への干渉。
『粉砕』スキル。
エントロピーを局所的に増大させ、物質の崩壊を強制する力。
(4、3、2…)
少女が驚いたようにルカの顔を見ている。
ルカは彼女と目を合わせ、精一杯の笑顔を作った。
「伏せて!」
(1…ゼロ!)
カキン、と硬質な音が響いたかと思うと、次の瞬間。
ルカが掴んでいた太い鉄格子が、まるで乾いた砂の城のようにサラサラと崩れ落ちた。
「なっ!?」
男たちが呆気にとられる。
その隙を、少女は見逃さなかった。
「ありがとっ!」
彼女は崩れた格子の隙間から弾丸のように飛び出すと、目の前に立っていた大男の懐に潜り込んだ。
力任せではない。
相手の重心が浮いた瞬間を見切り、関節を極めて流れるように石畳の上へ投げ飛ばす。
それは、揺れる船上でも確実に相手を制圧するために編み出された、海の民独自の古武術だった。
「ぐはっ!」
「よし、行くよ!」
少女はルカの手を掴むと、風のように駆け出した。
「え、ちょ、ちょっと待って!僕、足は遅いんだよー!」
「つべこべ言わない!逃げるのよ!」
二人は手を取り合い、迷路のようなセレニアの路地を駆け抜けた。
背後から男たちの怒声が聞こえるが、少女の先導は迷いがない。
まるで風の通り道を本能的に知っているかのように、最適なルートを選び取っていく。
しばらく走り続け、港の端にある古い倉庫街の陰に滑り込んだところで、ようやく二人は足を止めた。
「はぁ、はぁ…も、もう走れないよ…」
ルカは膝に手をつき、肩で息をした。肺が焼けそうだ。
一方の少女も息を弾ませてはいるが、その表情は晴れやかだった。
彼女は屈託のない笑顔でルカの背中をバンと叩いた。
「すごいじゃない!あんな太い鉄格子を、一瞬で砂にしちゃうなんて!あれ、魔法?それとも錬金術?」
「い、痛いよ…。あれは魔法じゃないんだ。『粉砕』っていう僕のスキルで…対象の分子結合に干渉して、構造的疲労を一気に促進させることで…」
いつもの癖で早口に解説し始めたルカを、少女はキョトンとして見つめ、すぐにケラケラと笑った。
「あはは!何言ってるか全然わかんない!でも、すごかった!君、天才ね!」
真っ直ぐな称賛の言葉に、ルカの顔がカッと赤くなる。
これまで「変わった子」扱いされることはあっても、こんな風に手放しで褒められたことはなかった。
「ぼ、僕は…ルカ。ルカ・マルチェッロ」
「私はアドリアーナ。アディって呼んで!」
アディは白い歯を見せてニッと笑い、右手を差し出した。
その手は温かく、小さなタコがいくつもできていた。
ルカが恐る恐るその手を握り返した時、頭上に巨大な影が落ちた。
「…ほう。マルチェッロ、だと?」
地響きのような低い声。
ルカとアディが弾かれたように振り返ると、そこには岩山のような巨漢が立っていた。
ただ立っているだけなのに、周囲の空気が張り詰める。
それは暴力的な威圧感ではなく、荒れ狂う海をねじ伏せてきた者だけが持つ、絶対的な統率者の覇気だった。
その背後には数人の部下が控えていたが、誰もが一糸乱れぬ姿勢で待機している。
「お父さん!」
アディが嬉しそうに声を上げる。
カイは鋭い眼光でルカを見下ろした。
その視線は、ルカの魂の重さを量るかのように重い。
「小僧。お前がアディを助けてくれたのか?」
「は、はい…!」
ルカは直立不動で答えた。
カイはしばらく無言でルカを見つめていたが、やがてフッと口元を緩めた。豪快だが、どこか知性を感じさせる笑みだ。
「マルチェッロ家の息子か。…なるほど、血は争えんというわけか」
「え?」
「礼を言うぞ、ルカ。娘を助けてくれたこと、このカイが忘れはせん」
カイは無骨な大きな手で、ルカの頭をガシガシと撫でた。
「さあ、乗れ」
「えっ、でも…」
「いいから来なさいよ!私の家、すっごく眺めがいいんだから!」
アディに強引に手を引かれ、ルカは桟橋へと連れて行かれた。
そして、その「船」を目にした瞬間、ルカの足が止まった。
「…嘘だろ」
ルカの眼鏡がずり落ちそうになる。
そこに停泊していたのは、セレニアの港に並ぶどの船とも異質な存在だった。
ずんぐりとした輸送船ではない。過剰な装飾に彩られたガレー船でもない。
徹底的に無駄を削ぎ落とした、鋭利な刃物のような船体。
喫水線下の形状は、水の抵抗を極限まで減らすために計算され尽くしている。
帆の配置、滑車の数、ロープの取り回し…そのすべてが、ルカの知る「中世レベルの造船技術」を数百年先取りしていた。
(あの船首の曲線…流体力学を理解していないと作れない形状だ!それに、あの帆の素材は何だ?麻じゃない、もっと密度の高い…!)
それは魔法で作られた船ではない。
物理法則を極めた「科学」の結晶だった。
「どうしたの?ルカ」
「す、すごい…すごいよアディ!この船、誰が設計したの!?この重心バランスなら、逆風でもかなりの速度が出るはずだ!」
興奮してまくし立てるルカを見て、カイがニヤリと笑った。
「ほう。この船の価値がわかるか、小僧」
潮風がルカの髪を揺らし、船体が波に合わせて優しく、しかし力強く軋んだ。
目の前には、春の陽光を受けて輝く大海原が広がっている。
それは、狭い研究室に閉じこもっていたルカが、自身の知識を試すべき「本当の世界」への入り口だった。
「ルカ、早く!こっちこっち!」
「う、うん!待ってよアディ!」
少女の弾むような声に導かれ、ルカは新たな一歩を踏み出した。
胸の高鳴りは、もう恐怖によるものではなかった。
それは、未知なるテクノロジーと、これから始まる冒険への、抑えきれない期待だった。
(第1話「救出」終わり)
◆◇◆次回予告◆◇◆
「すごいよアディ!君たちの船、この時代の技術レベルじゃない!流体力学的に完璧なフォルム、徹底された衛生管理…これぞ科学だ!えっ、お父さんがお礼をしたいって?もちろん、僕は海底資源の取引ができればそれで…へ?『娘を嫁にやる』?…結婚!?んんんっ!?」
「次回、『婚約』。僕の心拍数が計測不能だよ!」




