百九十:一緒に居てもいいですか?
灯からはっきりと聞いた『一緒に居てもいいですか』、清はこの言葉に思考が止まりそうだ。
灯は透き通る水色の瞳でうるりと清を見てきており、掴んだ手を離そうとしない。
「……今日は一緒に居てもいいですか」
もう一度聞かれた言葉に、清は思わず息を呑んだ。
灯のわがままは何度も聞き、その度に受け入れてきたつもりでいる。だが、灯から今問われているわがままは、鵜吞みにするわけにはいかなかった。
言葉の意味を間違っていなければ、自分の抑制を外す事態になりかねないのだから。
清がいくら意識を保とうとも、男の心に決めた覚悟など、吹く風に飛ばされるような紙当然だ。
「灯、言っている意味を理解しているのか?」
「……寂しいので、一緒に居たいです……」
小さな手でぎゅっと手を握られ、清は引くに引けない状況だ。
この時が止まるような空間で、何度『一緒』という言葉を聞いただろうか。片手で数えられる数だとしても、清からしてみれば両手で数えきれないくらいの愛おしい願いの数だ。
灯は清の心の中での葛藤を察してか「お泊りしたいです」と小さく呟き、清の理解しやすい言葉へと置きかえていた。
「本当に、いいのか?」
清は不安だった。
それでも、頷いてみせる灯を見て、静かに心を許してしまう。
小さな手は命の温かさを教え、心の底から本気である、と伝えてきているようだ。
清はどうしても、灯の意見を尊重したいと思っている。
同じ考えであるが故の魂の叫びではない、灯からのわがままを叶えたいという、安い承認欲求があるからだろう。
「……俺は灯に手を出す気はないからな」
「ふふ、手を出したくなったら言ってくださいね。清くんなら……私は受け入れますから」
「馬鹿。あまり女の子がそんな言葉を使うなよ。……もし仮に、俺が本気にしたらどうするんだ?」
「答えは変わりませんよ?」
小悪魔のような笑みを浮かべ、あっさりと返答してくる灯に、清は苦笑するしかなかった。
ちょっとした要求を清が口に出せば、灯は何でも叶えてしまいそうで若干の恐怖心がある。
流石に灯も理解していると思うが、学生の間くらいは適切な距離感を保ちたいものだろう。
清はどうしようかと悩んだ末、灯から離された手を見て、ゆっくりと息を吐き出す。
「先にお風呂入ってくる」
「清くん、行ってらっしゃい」
灯と夫婦みたいな感じでむず痒さが湧き出た清は、さっさと準備してお風呂へと向かうのだった。
清の様子を気にも留めずに笑みを宿す灯は、清の心に薪をくべているとは思ってもないのだろう。
(……まさか、このパジャマをこの時に着るなんてな)
お風呂から上がった清は、脱衣場で新しいパジャマに着替えた。
九月の終わりごろで悴み始めているのと、今日は灯と隣同士で寝ることになると把握したうえで、心の落ちつく方を選んでいる。
別に灯にがっつきたい、という邪な気持ちで着たわけではなく、灯の冷え性である体温を自分の体温で温めたい気持ちだけだ。多分、人はこれを邪とでも言うのだろう。
パジャマを着た後に香るのは、灯とお揃いにした心地よい匂いのするシャンプーの香りだ。
清自身、常和との努力で筋肉が付き始めている。だが、灯であってもあまり見られたくない気持ちはあるため、肌をきゅっとパジャマの奥に隠しておく。
お風呂から上がってリビングに戻れば、灯がソファに座って待っていた。
「灯、上がったぞ」
「清くん、お風呂から上がった割には随分と早かったですね。そこに椅子はありますよ?」
灯はソファから立ち上がり、お風呂に入る前には無かったはずの椅子を指さしている。
手にはしっかりとドライヤーを携えている辺りを見るに、清が髪を乾かさないで出てくるのを見越していたのだろう。
清は何も言わず、ゆっくりと用意された椅子に腰をかける。
灯はワクワクしたように水色の髪を揺らし、ドライヤーのコンセントを差し、スイッチをつけた。
魔法印のドライヤーであるため、音は声にかき消されるくらいの音域となっている。
「偉いですね」
「逃げたら追うだろ」
「許さないですね」
「この鬼め」
「嫌でしたか?」
「灯の手は心地いいから好き」
「もう、ちゃんと髪を乾かしてから出てくださいね。風邪を引いたら私が困りますから」
「はいはい、次からは気をつけます」
「殴りますよ」
「なんでだよ!?」
灯が冗談で言っていると理解していても、清は気づけば本気にしたような反応をしてしまう。
灯は面白がりつつも、ドライヤーの温風をゆっくりと髪に当ててくる。
そして小さな手が髪を分けて、優しくほどくように温風に髪をさらしていた。
清は灯の説教ありきだが、一人の時はちゃんと髪を乾かすようにはしていたため、灯も理解してドライヤーを用意してくれていたのだろう。
何かと灯に髪を乾かしてもらいたい、と清は思っていたのもあり、灯の手の感触を心地よく感じていた。
「……結婚したら、これが当たり前になるのかな」
気づけば、清は小さく呟いていた。
「……私の目が黒いうちは、髪を乾かすくらいは毎日やるかも知れませんね」
「未来、楽しみだな」
「ふふ、子どもみたいですね。……早く本当の意味で、一緒に過ごせるようになったら嬉しいのに」
「……なるさ、必ず」
パズルピースの空いた穴を埋めるように、希望を言葉にしていた。
灯の顔は後ろで見えないが、頬に薄っすらと赤みでも帯びさせているのだろう。
それは、清自身が顔を赤くしているから思えるのかもしれない。
灯は気づかないフリをしてか、その後は無言で優しく髪を乾かしてくれていた。
「あ、新しいパジャマ」
「せっかくだし、いいかなって」
ドライヤーで髪を乾かし終えた後、灯は今更気づいたのか、思い出したように言葉を口にしていた。
灯は少し悩んだ様子を見せてから、両手を合わせて音を鳴らす。
「……少し待っていてください」
灯はそそくさとドライヤーを片付け、早足でリビングを抜けていった。
清自身、灯に何を言われるかと警戒していたため、腑抜けたような表情が顔から溢れるようだ。
一瞬の出来事にぱちくりと瞬きし、清は椅子に座ったまま灯を待つことにした。
数分もすれば、階段の方から足音が聞こえてくる。
音のした方を見れば、灯がひょっこりとリビングに顔を出す。
灯は姿を見せると同時に、手にあるものを携えていた。
「清くん、どっちがいいですか?」
「……え、どっち、って言われても」
「清くんに選んでほしいです」
灯の問いに、清は悩むしかなかった。
灯は二つのパジャマを手に携えてやってきては、いきなり問いかけてきたのだから。
灯が持っているパジャマは現実世界で買ったもので、灯は一応のことも考え二つパジャマを購入していたため、二つ持っているのは不思議ではない。
一つ目は、ボタン式で前開きになるパジャマだ。
色は薄いピンク色で、何も着飾らないシンプルなパジャマとなっており、完全にオフ用と言えるだろう。
二つ目は、白色がメインとなったワンピースパジャマだ。
灯が以前着ていたネグリジェに近いものとなっており、肌に優しい繊維で作られたものになっているらしい。
特徴としては中央に紐リボンが付いており、灯の可愛さをプラスすれば似合わない理由がない代物と言えるだろう。
清は灯がじっと真剣な目で見てくる中、二つのパジャマを交互に見る。
清からしてみれば、ボタン式は間違いなく露出の可能性が怖いため、合理的な判断の下で選択肢としては外れるだろう。
清は一応悩んだ様子を見せた後、ワンピースの方を指さす。
「俺はこっちの方がいいかな」
「相変わらず紳士ですね」
灯は微笑んでいるため、こちらの気持ちを揺さぶるために選ばせた可能性が高いだろう。
灯はいつもふんわりしているが、心寧の影響を受けてか突拍子もないことをしてくるのが多々増えたため、妙に心配になってしまう。
清が選んだものを灯は嬉しそうに手繰り寄せているが、当の本人は絶対に着ると言っていない。
そう、選ばせただけで、着るとは言っていないのだから。
「あ……清くん、私はお風呂に入りますが、覗いちゃ駄目ですよ?」
「今までも覗いたこと無いだろ」
「今回は違いますし、もしかしたら、と思ったので一応ですよ……覗きます?」
「覗かないから!」
清は確固たる意志の証拠として、床に胡坐をかいて座って見せる。そして座禅の形を組むように、左手の上に右手の甲を置き、親指の先を合わせた。
清は背筋をぴしっと伸ばし、薄ら笑いを浮かべている灯を見る。
「動かざること山のごとし……証拠に、ここで灯が上がってくるまでずっと座って待っているから」
「ふふ、私は清くんよりもお風呂に入る時間が長いですし、その根性いつまで持ちますかね?」
「灯と一緒になるまで、だ」
灯が呆れたように苦笑いしているため、清はわざとむすっとした態度をして見せる。
灯は「もう」と言いながら清との距離を詰め、頭に小さな手をぽんぽんと置いてきた。
「……覗かないから、ゆっくり肩まで浸かって、日頃の疲れを取れよ」
「根は純粋で優しい人なのに、人と絡まないのがもったいない人ですよね」
「……俺は少数で十分幸せだからな」
清自身、人と絡まないのは身に染みるほど理解しており、自ずと絡む気がないため尚更心にくるものがある。
灯や常和、心寧が居れば、清としては充分なのだ。つまずくことがあっても、支え合う恵まれた環境がそこにはあるのだから。
清が頬を赤くしたのが悪かったのか、灯はつんつんと頬を突っついてくる。
「清くん、自分で言ったのに照れていますね」
「う、うるさい。これはその、照れ隠しだ」
「なるほど?」
清は息を吐き出し、ゆっくりと目を閉じる。
雑念や邪念、そのすべてを取り除き、可愛い灯の姿を純粋な目で見るために。
灯を汚らわしい目で清は見たことないが、自分をもう一度抑制する意味を踏まえれば、今の清に瞑想は効果的なのかもしれない。
灯は急に瞑想をやりだした清に呆れてか、ため息一つこぼした。
「……もう。お風呂入ってきますから、その状態で寝ないでくださいね」
「寝ないから、安心して入って来てくれ」
灯は安心してか「わかりました」と言って、お風呂場の方へと歩いていった。
清は灯が居なくなった後、心を落ちつかせるようにゆっくりと吐き出し、魔力を感知する瞑想を始める。
この数分後、清は瞑想したことを後悔するのだった。




