百八十五:君をもっと知りたいから
その日の夜、食器の片づけを終えた後、清は本を読んでソファに座っている灯の方にゆっくりと歩を進める。
読む仕草一つだけでも絵になるのは、改めて灯が傍から見ても美人であると実感させられるようだ。
清は思わず灯に見惚れていた自分に首を振り、持っていたカップ二つを慎重に運ぶ。
灯はこちらの洗い物が終わったことに気づいたらしく、本にしおりを挟んで静かに閉じていた。
ちゃっかりと隣を開けておいてくれる灯を微笑ましく思いつつ、清は持っていたカップを目の前のテーブルに置く。
無言で置いたのがよろしくなかったのか、灯が不思議そうにこちらを見てくるため、苦笑しながら隣に腰をかける。
「自分で紅茶を入れてみたんだけど、嫌じゃなかったら飲んでみてくれないか?」
さっとカップを前に差し出せば、灯は上から覗き込むように中身を見ていた。
九月中盤とはいえ、少し温かな陽気が未だに漂っているのもあり、紅茶は冷えたものにしてある。
「じゃあ、いただきます」
灯は小さな手でカップを持ち、ゆっくりと口元へ運んでいく。
灯が紅茶を嗜むように飲んでいる時、清はふと灯の手を見た。
小さな手は赤子のように潤っており、肌荒れは一切なく、爪の先まで綺麗な白い肌の美しい手だ。
灯の肌質は清に近しいものだと本人から以前聞いているので、日焼けに弱く、傷つきやすい繊細な肌と思った方がよいだろう。
灯に紅茶を渡した本当の理由は、不自然なく手を見られるように、といった本音はあるが当然本人には内緒である。
ふと気づけば、灯はカップを口から離しており、軽く渋そうな顔をしていた。
「苦みが抽出されすぎていますね。温度調節を勘でやりましたね?」
「うう、図星なので何も言えません」
灯に「すまない」と言って、苦い紅茶を無理に飲んでもらうのも悪いと思って回収しようとした時、小さな手が優しく押さえるように包んでくる。
「清くんが淹れてくれた紅茶ですし、このままで大丈夫ですよ」
「いや、無理に飲んでもらうのも悪いからさ」
「無理にではないですよ? それに、不慣れであっても次に繋げるかが大事ですから。作ろうとした、それだけでも一歩動いたわけですし、偉いです」
そう言って灯が微笑みながら紅茶を嗜むため、清は受け入れて苦笑いするしかなかった。
多分、灯の中では清が紅茶を淹れたという付加価値の高い紅茶であるため、紅茶本来の味わいよりもそちらを取ったのだろう。
清が淹れたという付加価値ありきなのは居たたまれないので、次飲んでもらう際はしっかり気をつけようと心に誓った。
灯には自分の存在価値観ありきではなく、心から美味しいと思ってもらえる紅茶を飲んでもらえるようになりたいため、心構えを増やして間違いないだろう。
(……灯の紅茶がやっぱり特別だったんだな)
灯にだけ飲んでもらうのは流石にどうかと思っていたのもあり、自分の分の紅茶に口をつけたが、結果は灯の言った通りだった。
夜に溶けて消えてほしいようなあやふやな気持ちは、エゴも知らない無知の純粋なる気持ちだろう。
灯は何かを思い出したのか、カップをテーブルに置き、透き通る水色の瞳でこちらを見てくる。
「そう言えば、滝つぼの洞窟での努力は大丈夫そうですか?」
「え、ああ……常和からあの後に聞いたんだけど、下手すれば滝よりも時間が多くかかるみたいだから、気を引き締めて取り組むつもりでいるよ」
「ふふ、頑張る清くん、応援していますね」
「灯、いつもありがとう」
灯の微笑む柔らかな表情を久しぶりに直視したのもあってか、清は気恥ずかしさがあった。
灯の笑みは普段から見ているだろ、と自分に言い聞かしているつもりはあるが、気を抜けば弱い一面を覗かせてくるのはいかがなものだろうか。
滝つぼの洞窟の件については、常和曰く『魔力を感じるのは心の色を意味しているんだ』と言っていたのもあり、気を抜けないのも事実だ。
魔法に関わる努力であるのに、何処か現実世界でもやるようなやり方なのは、魔法と現実が共存した世界を実感しているようにも思わされる。
ここが魔法世界である、というのは清自身がよく理解しているが、どこか魔法とは別の感覚で味わっていた。
自然というのは人と近しい存在であった、と再度認識させてくるように。
少し考え事をしていれば、灯は微笑みながら紅茶を飲んでいた。
やはりというか、どうしても白く柔らかな手に目線が移ってしまう。
「……灯の手、きれいだな」
「え、あ、ありがとうございます……」
灯は驚いたように瞳を丸くし、頬を薄っすらと赤らめていた。
気まずい沈黙の間が訪れた時、灯は逸らしていた瞳を恥ずかしそうに向けてくる。
「……急ですね」
「ご、ごめん。灯の手がきれいだったから、つい」
「清くんに褒めてもらえるの、嬉しいですよ」
「そうか、ならよかった。……あのさ、手に触れてもいいか?」
「今更ですね?」
「まあ、普段は灯から触れてきているからな」
事実を言えば、気づけば灯と顔を見合せて笑みをこぼしていた。
清は確かに灯の頭を勝手に撫でる事は多くなったが、灯の手を勝手に触ろうとしたことはほとんどない。それは、大切な人の手を傷つけたくない、というエゴが心の中では存在しているからだろう。
清は男だから手の肉つきが違う分大丈夫かも知れないが、灯は女の子なので一緒には出来ないだろう。女の子が美しく可愛くあるように、ちょっとの傷でも印象が変わってしまう、という事態は控えたいのだから。
彼女なのに手を出さないのを常和に言えば、ヘタレや内気、とでも言われるだろう。
清は常和に、灯の自分にだけ見せてくれる可愛い情報を一切漏らさないため、そこは灯と心寧の関係次第なのが怖いところだ。
「はい、触ってもいいですよ。清くんに触られるのは、優しくて好きですから」
「語弊がある言い方はやめてくれないか?」
「語弊なんてありませんよ。事実ですから」
そう言った灯が手を目の前に差し出してくるため、いつも通りの灯か、と清は思うことにして受け入れておく。
清は灯の手を上に乗せるようにして触れ、もう片方の手で撫でるように包み込む。
(……灯の手の感触、覚えておかないとな)
いずれ時が来る、指輪の件を含めても、灯の手の感触を清は実際に触れて覚えておきたいと思ったのだ。
いざ渡すとなった時に、失敗をしたくないのだから。
灯には、失敗で笑うような表情ではなく、幸せで泣きそうな笑みを見せてほしいと思うエゴを未来に宿している。
灯の手は清の手より一回りも小さく、ほっそりとした指に、ひんやりとした手にある温もりが存在となって伝わってくる。
自分の手は、今にでも折れてしまいそうな灯の小さな手を守るために生まれてきたのではないか、とすら思えてしまう。
清がそんなことを思った自分を鼻で笑った時、手だけだと不服です、と言いたげな灯の表情が目に映る。
清は灯の無言の要求に答えるように、片方の手を離し、頬を軽く撫でた。
灯は頬を撫でられて嬉しいのか、とろけたような柔らかな笑みを宿している。
「清くんと今後も一緒に居られるのなら、また添い……もしたいのですけどね」
「添い、なんだ?」
聞き取れずに聞き返せば「何でもないです」と灯が慌てて横に手を振っていた。
「お泊りもしたい、って言っただけですから」
「……お泊りか。確かに一緒に住んではいるけど、お泊り、みたいなことはしてないよな」
夏休み中に灯の家に泊まることはあった。だが、それ以外では灯が清と同じ家に住んでいる感覚であるため、物足りなかったのだろう。
「あれですよ……付き合ったからちょっとくらいは、って感じですから、本気にしなくてもいいですからね」
「いや、ちゃんと考えておくよ。灯が嫌じゃなきゃだけどな」
「自分から言い出したのですし、嫌なはずないじゃないですか」
灯が目を逸らして言うため、清は心に留めておく。
心に留めたといざ知らずにか、灯が柔らかな笑みで顔を近づけてくるため、清は恥ずかしながらも灯の柔らかく温かな頬を堪能するように撫でるのだった。




