百五十二:君と魔法のような夜
夜が更けた頃、静かに窓を開けた。
カーテンは網戸から通り抜けてくる風に扇がれ、自然の生きる息を伝えてきている。
青白く差し込む柔らかな月明かりは、窓から少し離れて外を見る、床に座っている清を照らしてきていた。
部屋の中央からそっと見上げれば、現実世界の星の輝きが鮮明に目に映り、懐かしさと安心感を教えてくるようだ。
後少し時間が過ぎれば、日を跨ぐ時間になるだろう。
部屋の電気を付けていないため、短針が見えるはずもない。しかし、人工的な技術に頼らない時、人は自然のありがたみを実感できるのも事実だ。
今は部屋に一人孤独であるはずなのに、清は気持ちが落ちつかず、眠れないでいた。
眠ろうとすれば眠れるだろう。だが、灯と満星の三人でお出かけできた、という余韻に浸りたいのかもしれない。
家族として、灯の彼氏として――楽しめた幸せ、という温かな気持ちが今の清の動力源となり、体を動かしているのだろう。
(……本当に、感謝しかないな)
窓に近づくために歩き出せば、裸足であるからか、床に張り付き音を立てている。
窓に近づくにつれ、夏の温かな風は肌を確かに撫であげ、世界に存在を主張しているようだ。
清は、波打つ胸に静かに手を当て、もう片方の手を窓の額に当てて空を見上げた。
網戸越しであるにも関わらず、燃えゆく星々は一つ残らず輝きを放ち続けていると認識させてくる。
自然という幻想は、人の手によって崩れていくが、空に浮かぶ生命は如何なる者の浸食を許さないのだろう。
この時、星空に見惚れていたのもあり、小さな音を聞き逃していたのだろう。
「……清くん」
「……あ、灯」
自分の名を呼ぶ声のした後ろを振り向けば、灯がふすまを開け、こちらの部屋へと足を踏み入れていた。
眠っていると思っていた為、内心驚きを隠せずにいる。
灯は青白い光に照らされ、透き通る水色の髪を暗闇の中で輝かせながら、ゆっくりとこちらに近づいてきていた。
ネグリジェ姿の灯は、清の隣に立てば、小さく微笑む。
「眠れないのか?」
「……清くんは寝ないのですか?」
質問したつもりが、灯は表情一つ変えず、同じ質問をしてきていた。
この時に清は、いつかの夜に話した灯が寝付けない、という言葉を思い出した。
この時間は灯が眠っているつもりで質問したが、迂闊だっただろう。
灯は気にした様子を見せていないが、清の方が深入りをしたくないため、そっと息を宙に置く。
「眠れないだけだ」
「……一緒ですね」
気づけば、灯が手を握ってきており、その小さな手は冷たくも温かかった。
自分を救ってくれた、大切な手だからだろうか。
灯は小さく呼吸をした後、窓越しの空を見上げてみせる。自分の見ている世界と同じ、灯にしか見えない世界を。
「清くんは、私が急に部屋に入ったことに触れないのですか?」
透き通る水色の瞳を揺らしながら言う灯は、清が当たり前のように受け入れている今を不思議に思ったのだろう。
小さく首をかしげている灯に、清は静かに鼻を鳴らした。
「まあ、灯に自由にしてほしいって思っているからな。それに、ふすまの鍵を閉めていない理由は、お互いを信頼しているからだろ?」
「ふふ、そうでしたね」
小さく微笑む灯は、自分で閉めない理由を言ったにも関わらず忘れていたのだろう。
それでも、灯が忘れられるほど思い出を残している、と思えば悪くない話かもしれない。
二人でしか紡いでいけない思い出は、今後もあるかも知れないだろう。だが、今という時は今しかないのだから。
その時、緩やかに風が部屋の中を通り抜け、灯の髪を優しくなびかせた。天使の羽を広げるかのように。
「清くん……わがまま、言ってもいいですか」
暗い部屋に、青白い光が煌々と輝きながら差し込み、灯の顔を美しく照らした。
清は息を呑み込み、うなずくしかなかった。灯のわがままという、可愛らしいお願いに。
「キス……したい……」
小さく消え入りそうな声を、清の耳は確かに拾っていた。
率直ながらも、可愛らしく、こちらも恥ずかしくなるようなお願いに、うなずくことも返事することもままならない。
息の仕方すら忘れたのか、と思えるほど脳は考えることを否定してきている。
悩んでいる時間ですら、灯はうるっとしたような瞳で真剣にこちらを見つめてきていた。
お互いの素顔をしっかりと認識できない今だからしたい、という願いを込めて伝えてくるかのように。
時が止まるような時間に、清は何も言わず、灯に顔を近づけた。
闇夜の中であるにも関わらず、水色の瞳は微かな光を反射し、鮮明に灯を認識させてくるようだ。
清が近づいたのを承諾と受け取ったようで、月明かりに映る床の小さな影は静かに動きだす。
(……え)
いつ通り、頬にされると思っていた。
灯は何故か清の頬に小さな手を当て、唇を近づけたのだ。
近づいた唇は重なり、柔らかな感触は唇を伝い、脳に全てを教えてきている。
気づけば、お互いに目をつぶっていた。
唇が重なっていたのは、ほんの数秒だろう。それでも、数秒の時間は止まったように長く感じさせ、灯と本当の愛を誓ったと錯覚させてくるようだ。
清自身、灯に愛を誓っているのは偽りないが、お互いの唇を一瞬でも重ねるとは想像できるはずが無いだろう。
清から攻めの姿勢をみせなかったからこそ、灯が一つのキッカケを創るという大胆さを見せたのかもしれない。
深夜だから、を言い訳にしていい理由は限りなく無いだろう。
心臓の音が鳴りやまないような状態の清を横に、灯は小さく微笑んでいた。
清は灯の唇と離れたはずなのに、未だにキスをしている感じが残っているのだ。
その時、灯から小さな蕾が咲くかのように、魔力の粒が薄っすらと見えた気がした。
灯は平常を装っているように見えるが、キスをして動揺したのだろう。そのため、魔力が乱れ、粒として体から溢れたのかもしれない。
「……大丈夫か?」
「ま、清くんこそ。……少し風に当たりますか」
灯はそう言うと、清の手を引き、動揺したまま窓を開け、清ごと宙へと浮かび上がる。
灯が魔法で浮かべるというのは理解していたが、急な出来事なのもあり、清は理解が追い付かないでいた。
お互いに宙に浮かんだまま、開いた窓から外へと出る。
外に出れば、部屋から見るのとは明確な違いを目の当たりにした。綺麗な星空と月は綺麗に輝き、照らしゆく月明かりが灯の姿を鮮明に映している。
灯はネグリジェ姿なのもあり、フリルが優しく揺れていた。
灯は外に出て落ちついたのか、小さく息を吸って吐いている。
そんな小さな仕草ですら気づけば見惚れてしまうが、清は自分の心に鞭を打ち、灯と同じように息をした。
(……灯とキス、したんだよな)
灯に手を引かれ、窓にもたれかかるような状態で浮かんでいる。
灯に魔法で無理をさせたくないと思うが、灯が笑みを見せているため、清は水を差すような発言を心の中だけで留めた。
「怖くないですか?」
「灯の隣だから怖くないな。……というか、今更だな」
「それもそうですね」
「手だけは離さないでくれよ」
「この手は放しませんよ。どこに居ても、絶対に探して」
「はは、灯に探してもらえる俺は世界で一番の幸せものだな」
落ちたくない、という意味で言ったつもりだったが、灯は違う意味でとらえたらしい。
気づけば、お互いに顔を見合わせ、静かに笑っていた。
空を見上げれば、幾千もの星々は集まり、今の時代に希望を紡いでいるようだ。
そんな魔法のような星空に、清はそっと手を伸ばす。
「俺さ、家族としての関係が分かった気がする」
「ふふ、どんな感じにですか?」
「家族ってさ、笑い合って、一つ同じ屋根の下に皆で住んで、同じ食卓を囲むんだ、って。時には支え合ってさ、生きるために共同作業をしたり、各々やるべきことをしたりするものなんだって。……家族として受け入れてくれて、ありがとう」
「清くんが過去を受け止めて前に進めているって知れて、傍で見ていた私は嬉しいです。いずれ、私と清くんは本当の家族になりますよ。――絶対」
愛をくれた灯に、清は思わず涙をこぼしそうになった。それでも涙を流さずにすんだのは、灯と家族になりたい、という決心の後押しになったからだろう。
自分からは踏み込めなかった言葉の領域を、灯は伝えてくれているのだから。
「あ、あのさ……寒くないのか?」
「夏ですし、清くんの隣ですから寒くないですよ。ほら、こうすればもっと温かいですし」
そう言ってぎゅっと抱きしめてくる灯に、清は頬を赤くするしかなかった。
清は茶化すつもりで言ったつもりだったが、灯の予想外の行動には驚かされてばかりだ。
口が滑って満星に喋ろうものなら、興味津々で聞かれるだろう。
灯の温もりを感じた後、部屋に戻る話をし、元居た部屋へと舞い降りた。
窓を静かに閉めれば、灯の手がぎゅっと清の手を握っていたことに気がついた。
灯を見れば、もじもじとかしこまった様子で、何かを伝えたいようだと直感が教えてくる。
「……一緒に寝るか?」
鳴りやまない鼓動の圧迫感を抑えつつ、清は平然を装って言葉を口にした。
灯の伝えたかったことはあっていたのか、灯は静かにうなずき、清に張り付いてきている。
可愛らしい灯の頭を撫で、清は灯と共にベッドで横になった。
異性と近い距離感で横で寝ているというのは、ここまで緊張するものなのだろうか。それは、灯に掛け布団をかける際に、手が知らぬ間に震えていたのだから。
灯は掛け布団を小さな手で握り、向かいあった透き通る水色の瞳をうるっとさせている。月明かりの中、ましてや一緒に横になっている中で輝くその瞳は、サファイアの様に好ましいものだ。
(……灯も緊張しているのかな)
清は何も言わず灯の背中を軽く撫で、自分の方へと抱き寄せる。
背を撫でた時に、微かに心臓の鼓動を感じたため、灯も緊張しているのだろう。
それでも本音を口にしないのは、清に対して信用を寄せているからかもしれない。
抱き寄せた灯の体はひんやりとしており、今が夏であるという事を忘れさせてくるようだ。
灯は清の胸元に手を当て、小さな笑みを浮かべている。
「……温かい」
「そうか。灯が寒くないなら良かったよ」
笑みを浮かべて言ったのが悪かったのか、灯は薄っすらと頬を赤くしていた。
頬を赤くしているが、その小さな手は離さないと言わんばかりに、清の服をぎゅっと握ってきている。
「ふん、サービスで今なら灯を抱いて寝るが?」
「……じゃあそうしてください」
「え?」
灯に拒否されるつもりで言った為、清は思わずすっとんきょうな声を出した。
清が動揺したのを合図に、灯は更に逃げ道を奪ってくる。その表情には、小さな小悪魔が乗り移っているようだ。
「もしかして、出来ないのに言いました?」
「馬鹿。出来るから」
そう言って、清は灯を更に自分の方に抱き寄せる。
灯の体の柔らかさは、安心感に幸福感を与えてくるように、幸せの形そのものだった。
「この分は清くんが好きなものをたくさん作らないとですね」
「おつりを返すことになるが?」
「おつりは――これから先もずっと一緒に居てください」
愛を率直に伝えられ、清は笑みをこぼした。今までに無いほど自然で、最愛の彼女にだけ見せる笑みを。
「ああ――ずっと一緒だ。約束だ」
幼稚な約束一つ交わせば、静かに動く愛へと変わり、小さな温もり一つ腕を伝う。
おでこを互いに当て、灯に腕枕をしたまま、清は灯を抱きしめて目を閉じる。
「灯、おやすみ」
「清くん、おやすみなさい」




