百二十二:大好きな匂い
休日の昼過ぎ、灯と一緒にソファに座っていた。
普段であればお互いに別々の事をしているが、今日はゆったりとした時間が流れている。
目の前のテーブルに置かれた、紅茶の透き通るような赤い色が物語っているだろう。
灯は隣で、思い出を巡るかのように、本を読み進めている。
小さな手が本のページをめくる度に、紙の擦れる音が心地よさを感じさせてくるかのようだ。
「そう言えば灯は、やりたい事が通ったら、何を探しものにする予定なんだ?」
「……あ、やりたい事は通りましたよ。ルールも、ツクヨと話して明確に決まりましたから」
思い出したかのように本を閉じ、太ももの上に置きつつも淡々と答えながら、ふわりとした笑みを灯は浮かべていた。
やりたい事が通ったのは聞いていなかった為、常和と話していたことを含めても、確定したのはありがたいものだろう。
「というか、探しものをペアである清くんに言ったらつまらないじゃないですか」
ふふ、と言いながら微笑む灯に、清は「ああ、確かにな」と言葉を漏らした。
迂闊であったとはいえ、相方という言葉を以前聞いた時点で、灯がペアになるのは分かりきっていた事だろう。
危うく楽しみを潰しかけた清は、思わず息を吐きだした。
それを見ていた灯に微笑まれるも、仕方ないことだ、と清は自分の心拍数を整える。
「清くんだって、私に探すものを言いますか?」
「いや、ないな」
「でしょう? だから、始まるまでは、楽しみのままでいいのです」
お互いに顔を見合わせ、表情に笑みを浮かばせる。
清としても、裏では灯の探しものを自分にしてもらう、という予定があるため、言えた口で無いのは確かだ。
透き通る水色の瞳が揺れるようにして、こちらの姿を反射させてくる。まるで、今の自分を見ているかのように。
灯が紅茶の入ったガラスのコップに手を伸ばすのを見てから、清も同じく手を伸ばして
コップを取る。
コップはひんやりとしており、手が思っていた以上に熱くなっていると感じさせてきていた。
動揺している自分はまだまだだな、と清は思いながらコップに口をつける。また、灯も同じタイミングで紅茶を啜っていた。
二人の空間には、ガラスのコップと氷が当たり、耳を通り抜けるような音色を静かに奏でている。
紅茶に揺られた氷同士も踊り合い、軽やかながらの優しい世界を生み出していく。
(……相変わらず、灯の入れてくれる紅茶は美味しいな。幸せだ)
紅茶が喉を通ると同時に、甘く爽やかな香りが鼻を刺激してきている。
舌で感じる紅茶のまろやかさに、仄暗いような苦みは、優しい甘さと調和して生きる自然を教えてきていた。
お互いにコップをテーブルの上に置けば、積もった氷が崩れ、交じり合う音をもう一度奏でる。
紅茶の冷たさと美味しさに落ちついていれば、灯が不思議そうに目を丸くしてこちらを見てきていた。
「……灯、どうしたんだ?」
「かっこよくなった髪型も、今では私だけが見られる特別じゃなくなったな、って思っただけです」
小さく消えそうで、それでいて芯のある声は、清の胸を静かに打つ。
今では普通にセットしている、というよりも灯に毎度調整を入れられているこの髪型は、以前の自分ならしていなかったものだ。
光の差し込みだした世界で、ただ一人、大切な存在を見るために変えたこの髪型。
一歩ずつでも変わっていく中で、ただ一つ変わらない想いがあるからだ。
清は苦笑をせずに、眉を下げてうつむく灯の瞳をしっかりと見る。
「――姿は変われど、灯だけの俺はずっと傍にいる……約束しただろ」
告白まがいな言葉を使ったせいか、灯は慌てたように顔を上げていた。また、白い頬は若干の赤みを帯びている。
「あ、えっと……それは、どういう意味で?」
「最近は灯がよく抱きしめてくるから、そのままの意味」
髪型の話を考えれば、明らかに主軸とずれている気もするが、灯との間を考えれば間違ってはいないだろう。
灯との壁を感じなくとも、お互いの気持ちの遠さを感じたくないから、というエゴから本音を言っているつもりだ。
灯に嘘をつく必要が無ければ、もっと知りたい、近づきたいと思う気持ちが加速しているのだから。
気づけば、灯の頬は沸騰するかのように赤く染まっていた。
明らかに灯を溺れさせた、という自覚が清にもあるため、悪いなと思う気持ちが込み上げてきている。
その時、灯が思いついたかのように「あ」と鈴がなるような声を漏らす。
「じゃあ、今は清くんの方から抱きしめてください」
突然の申し出に、清は思わず息を呑んだ。
灯が抱きしめてくるのはまだしも、自分から抱きしめる、という行為は未だに抵抗がある。
「本当に良いのか?」
「嫌なら言っていません」
小悪魔のように小さく微笑む灯は、こちらの気持ちの裏側でも読んでいるのだろう。もしくは、灯の変わった一面が原因と思われる。
口角が緩く上がったその笑みは、今の清の気持ちを静かに刺激していた。
灯はどうぞ、と言ったように、両手を小さく広げている。
高鳴る心臓の鼓動を抑え、清は黙ったまま、そっと灯の体に両腕を回していく。
灯の体が清の腕の中に小さく収まれば、灯は嬉しそうな笑みを宿して顔を見上げてきていた。
透き通る水色の瞳の輝かしさも相まって、同じ水色の髪が肌に触れ、さらりとしたような不思議な感触を伝えてくる。
(……温かくて、いい匂いがする)
灯の服から香る甘い匂いと、温かくなる体温は抱いていて安心する心地よさがある。
華奢な体の柔らかさは数日前にも感じて満足したはずだが、あれだけでは足りていなかったのだろう。欲張りな自分に、清は鼻で小さく笑う。
「三十秒ほどハグをすると三割ほどのストレスが解消されるらしいですが、清くんは解消されていますか?」
「ああ、落ちつく……灯の匂いとか好きだ」
「……良かったです」
「さっきの理論でいくと、度々抱きしめてきている灯は、毎度解消されているってことだよな?」
灯が頬に赤みを帯びさせながら「そうです」と消えそうなほど恥ずかしそうな声で返事をしていた。
「まあ……魔力の調整もあって、私もストレスは溜まりますから」
「じゃあ、辛かったらいつでも抱きしめてくれよ」
「ふふ、その言葉忘れないでくださいよ」
胸に溺れながら言う灯は、無邪気な可愛さを生み出していた。
また、小さく鼻を鳴らし、こちらの匂いを堪能しているように見える。
灯は匂いフェチとかではないと思われるが、気づけば不思議と甘えてくるため、それが行動に移させているのだろう。
「……これだけ傍に居て、同じ匂いにならないのが不思議です」
小さく呟かれた言葉は、清の耳にしっかりと届いていた。それでも、清はあえて何も言わず、静かに灯の頭を優しく撫でる。
本当の家族の愛情に、静かながらも飢えている清は、灯と家族になりたいと思っているからかもしれない。
伝えたい想いを素直に言えれば、灯と家族になれるかもしれない、という希望にすがっているせいだろう。
灯から貰っているのは『本当の家族』以上に優しい、愛情という名の感情だ。
数分ほど灯を抱きしめて、清は体の満足を感じた後にゆっくりと手を離した。
灯は緩んだような表情のまま、小さな笑みを浮かべている。
「灯、あのさ……」
「清くん、なんですか?」
小さく微笑みながら見てくる灯に恥ずかしさを覚えつつ、思ったことを口から吐き出す。
「また後で抱きしめてもいいか?」
「――清くんならいつでもいいですよ」
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます」
お互いに感謝を述べた時、透き通るような音が空間に静かに鳴り響いた。
その後、清は灯にルールの話がいつあるのか聞くのだった。




