ねむる卵
06
それからの一週間、私は雨に祟られたように熱を出し、ほとんどをベッドの上ですごした。
夢も見ないほど深い眠りに溺れるようにして。
ようやくベッドから起き上がったときには、すでに陰霖は上がっていた。
カーテンを引き、高い秋の空を見上げる。
久しくその存在すら忘れていたテレビのスイッチを入れると、
『……本日も全国的に青空が広がっています。秋晴れの絶好の行楽日和です。ところで今日は……』
血圧の高そうなレポーターが元気よく中継先についてレポートするのを聞きながら、乱雑に散らかった部屋を見渡す。
繭に包まれ混沌とした楽園のようだった部屋は、秋の日差しの中で虚飾をはがれ無残な姿をさらしている。
私は気だるい体を持て余すように、部屋の壁に寄りかかって座った。
テーブルの上に残された煙草を手に取り、口にくわえて火をつける。
深く深く吸い込み、私はため息とともに煙を吐き出した。
何もかもなくしてしまった。
…いえ。自分の手で壊してしまった。
燻る紫煙を見つめながら、私はぼんやりと思考をめぐらせた。
雨に包まれけぶる世界のようだった日々について。
……私を魅了してやまなかった、あの綺麗な男について。
彼のことは何も知らない。
断片は聞いても、彼の口から語られる真実は何も。
心に負っている傷も、しなやかな身体の大半を満たしていた疲弊と悲愁の理由も、私にはわからない。
だから……私にとって言うならば。
あれは、……悲しみの卵だった。
私が拾った、あの綺麗な男は。
悲しみの詰まった卵。
もう永く、私は、傷を抱えたまま生きてきた。
身体の傷と心の傷は違う。
癒す意欲もなく、自己憐憫に溺れていては、傷はいつまでも血を流し続ける。
ましてや、傷の存在をすら忘れていたら、それは、知らぬ間に膿み腐り、いつかは死に至るまで深くなってしまう。
だから、私は悲しくなりたかった。
どうしても、柊の記憶を取り戻さなくてはならなかった。
心の底の深淵に封じ込め続けるのではなく、忘れるために。
たとえそれが、どれほど苦しくても私は思い出さなければならなかった。
あのまま、傷が膿み腐るに任せていたら、知らぬ間にひとしずくづつたまっていく冷たい孤独と故も知らぬ罪悪感に身体の奥まで蝕まれ、いつか、衝動的な死を選びたくなったかもしれない。
だけど私はあの男に会えた。
私と同質の悲しみを抱えた、あの男に。
だから、見た瞬間に、強く魅かれたのだ。
柊に似ていたからなんて、甘い理由ではない。
彼は、私にこそ似ていた。
その、悲しみが。
長めの前髪からのぞく、疲憊と悲愁をたたえた深淵のような瞳。
あの、素晴らしく色気のある眼差しの奥に、永遠に失われたものを捜し続ける……そんな乾いた悲しみを、私は見つけたのだ。
それは、柊の記憶とともに涙すら失っていた私に欠けていたものだ。
だから、連れて帰らずにはいられなかった。
私は彼を貪らなくてはならなかった。
私の中にあるべき悲しみを、胎内に取り戻すためにも。
愛や恋よりも深く、私は“彼”を欲していた。
その悲しみをこそ。
悲しみを思う様むさぼって私は…。
煙草の灰が崩れるようにテーブルに散る。
私は長い時間をかけて体中の空気を吐き出すと、秋の冷たい風を吸い込み、膝を打って立ち上がった。
その勢いのまま、部屋の中の掃除を始める。
無秩序から秩序へ、私のお城を変えるために。
男物の着替え、余分な日用品、そして、香水の瓶。
私の部屋には不必要になってしまったものを、次々にゴミ袋に放り込む。
雨が降りだす前までは、あれだけ大切にしていた観葉植物もすべて。
何も考えず体だけを動かして、ようやく部屋に秩序が戻った頃には、気の短い秋の日はすでに地に沈んでいた。
がらんとした部屋を見て、大きく息をつく。
何もない、私のお城。
ついでとばかりに、退職願と突然休職した謝罪と私物はすべて処分してほしいという旨を記した手紙を書き上げて封をすると、それを片手に、私は久しぶりに部屋の外に出た。
澄んだ秋の空気。
高い空には、星が瞬いている。
明日もよい天気になることだろう。
そう考えたら、ちょっとだけ足取りが軽くなった。
封書をポストに投函し、コンビニで買い物をしてから部屋に戻る。
途中で足を止めたのは、微かな鳴き声が聞こえたからだ。
街灯の下に置かれたダンボールの箱。
中を覗くと、予想通り仔猫がいた。
真っ白な仔猫が私を見上げて懸命に鳴いている。
いつも、見ぬふりをしてきた状況だ。
マンションはペット禁止だし。
でも……。
「まっいいか」
私は、ゆっくりと手を伸ばし、純白の塊を抱き上げた。
男を拾うのと捨て猫を拾うのでは、どう考えても、後者のほうが良心的だ。
それに、私は右隣りの部屋の室内犬の名前も階下のシャム猫の愛称も知っている。
その気になれば、いくらでも誤魔化しはきくのだ。
買い物袋の中には、折りよく牛乳も入ってる。
部屋に帰りつくと、私はまず猫と一緒にシャワーを浴びた。
それから、ミルクとコンビニで見繕ってきたあり合わせの食事。
片付け物まで済ませて、私は、テーブルの上から、しわを伸ばした跡のはっきりとわかる便箋を手に取った。
私が、長らく縛ってきた、柊の、手紙。
「………ごめんね、柊」
あなたを信じなくてはいけなかったのに、それができなかった。
繰り返される夢として、呪縛として、死んでしまったあなたを、私こそが縛り続けてきた。
弱さゆえに。
だけど……。
私は、ガスレンジに火をつけると、青白い炎の上に便箋を落とした。
こうやって、私はあなたを解放するわ。
便箋を舐め尽くすオレンジ色の舌を見つめる。
もう、死者に、残した言葉の意味を問い続けることはしない。
どんなに望んでも、既にこの世にはいないあなたの心を知ることはできない。
だけど、私は、あなたの笑顔を知っている。
その優しさも。
だからこそ、あなたが私の弱さを許してくれると信じて、あなたを忘れることができる。
柊、あなたを愛してたからこそ。
ゆっくりと息をつく。
レンジの火を消し、壁に寄りかかって座ると、私は、がらんとした部屋をぐるりと見回した。
それから、すっかり満足して足元で寝そべっている仔猫を。
あどけない寝姿に、自然に口許がほころぶ。
「……お前には、どんな名前が似合うだろうね」
呟きながら、その柔らかな体をなでる。
指先から伝わる温み。
それを感じたとき、私は心底、この小さな生き物を愛しいと思った。
……こうやって私は“愛すること”を思い出していこう。
裏切らないというだけの観葉植物ではなく、愛情を返してくれる小さな生き物を愛することから、少しずつ。
もう、だれかが幸せにしてくれるのを待っているだけの寂しい女ではいたくはない。
私は幸せになることができる。
裏切られることを恐れず、誰かに手を差し伸べることができる。
今まで、いくつもの過ちを繰り返しながら生きてきた罪深い私でも、幸せになることは許されるのだと信じて。
きっと今の私にならできるはずだ。
そして……秋雨。
あなたの幸せを願うことも。
その頑なな心を解かし、冷たい身体を温めることができる誰かに巡り会える奇跡を祈るわ。
いつか、すべての呪いから解き放たれることを。
もう、夢は見ない。
私にとって、夢を恋うことは、死を恋うことに似ている。
それが、どんなに綺麗な夢でも、どんなに幸せな夢でも、現実に生きる誰かを幸せにすることはできないのだ。
死が意味するのは断絶であって、救済ではありえないのと同じように。
結局、私は生きることを選び続けてきた。
柊が死んだときも、秋雨がいなくなったときも。
他の選択肢をなくして、追い詰められてるようにして……それでも、生きてきた。
そして、今度こそは自らの意思で、幸せになるために、私は生きることを選ぶ。
でも。
私の中の深淵には、秋雨とともに死んだ私が眠っている。
彼を殺し、殺されたがっていた私が。
割れてしまった柊の記憶の代わりに。
硬い真っ白な殻に包まれて。
ねっとりとした菫色の液の中、未分化なままで。
いつか、孵化する日を待ちながら。
それが、彼を失った私の、新しい悲しみの卵。
悲しみの、卵……。
END
途中で更新遅くなったりして申し訳ありませんでした。
鬱々とした話に長々とお付き合いいただきありがとうございます。
読んで下さったすべての方に感謝いたします。




