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悲しみの卵  作者: 朔良
第二章 ひいらぎ
20/32

混沌

07

 雨は翌日も降り続けた。

 一切の慰めを聞き入れず頑なに泣き崩れる女が、身を捩りながら世の中のすべてに呪詛を吐き続けるように、激しく切なげに。

 当然、私は会社を休んだ。

 そんな私を見ても、秋雨は何も言わなかった。

 彼にとってはそれだけのこと。

 雨の日にそばにいるのが、誰であっても構わないのだ。

 私であっても他の女であっても、ひとりでさえなければ。

 ……私もそれでよかった。半端に期待させられるよりは冷たいほうが。

 

 次の日も雨。

 降り止む気配すら見せない陰雨。

 長引く欠勤に会社から電話がかかってきたが、話をしたのは最初の一回だけだ。

 私にとって、上司のわめき声は、異国の言葉と同じで、聞こえるという以上の意味を持たなかった。

 なんと言われても雨が続く限り会社には行かない。

 耳を貸すだけ無駄というものだ。

 だから、鳴り続ける携帯の着信を放置していたら、そのうち電池が切れて静かになり、そのまま外界とのかかわりは途切れた。所詮そんなものだ。

 

 雨の間中部屋に籠り、秋雨とふたりきりで過ごす。

 それは奇妙な共同生活だった。

 昼もカーテンを引いた薄暗い部屋で、ただ混沌とした時間だけが流れていく。

 部屋着のままで、ただひたすらに惰眠を貪るように、社会に氾濫する雑多なニュースに耳をふさいで、テレビや新聞の存在すら忘れ果てて。

 整然としているのが自慢だった私の部屋は、あっという間に心地好い無秩序さに取って代わられた。

 片付ける気にはなれなかった。

 部屋中がうっすらと埃を被り、洗濯物がたまっても、気にもならなかった。

 それどころか、こうでなければならない気すらした。

 すべてのものが混沌としていなければならないような気が。

 昼も夜もない、世間から隔離された密室の中でベクトルを持たない生活を送る…。

 前進はもちろん後退もしない。

 右や左の道に逸れるわけではなく、もちろん浮上するのでも、……堕ちていきさえもしない、そんな自分の内に凝縮していくようなベクトルのない生活を、すべての必然が重なってそうなったようにして。

 

「この部屋、女の身体ん中みたい」

 

 混沌とした部屋について、秋雨はそう評定を下した。

 

「どうして?」

 

 秋雨はちょっとだけ目を細めて、

 

「……んー。薄暗くて、やわらかくて、湿ってて………。いやそんなんじゃねーな。じゃなくて、部屋全体が生きて蠢いてるみたいで、その癖、妙に落ち着くから……かな」

「ふうん」

 

 女の胎内か。

 秋雨らしい例えかもしれない。

 確かに、今のこの部屋にはそんなところがある。

 生きて、なんらかの意思を持っているような空気が。

 部屋を満たすそれは、ねっとりとした蜂蜜の濃密さを持つが、不快ではなく、むしろ眠たくなるほど穏やかだ。

 整然としていたときの、毅然とした融通のなさとは違うそんな雰囲気は、好もしい変容に思えた。

 

 すっかり変わってしまったこの部屋を、私は……卵みたいだと思った。

 硬い殻に包まれた卵の中。

 私たちは未分化なままで、薄い被膜の中から、遠い世界を透かし見ているのだ。

 すべての出来事は通りすぎるだけで、中には何の影響もない、良悪何事も起こらない。

 自らの行く末が未定であるが故の混沌とした世界。

 

 そして。

 混沌の中心が秋雨だ。

 秋雨は気まぐれで、機嫌のいいときは躾のいいペットだが、悪いときはまるで暴君だった。

 あの素晴らしく色っぽい眼差しで、甘い言葉で、私を籠絡したかと思うと、悪し様に罵り痛烈な皮肉を吐きかけ、手をあげることさえする。

 あまりにそれが理不尽なときには、さすがの私も腹が立ったが、怒りは持続せずに潰えてしまう。

 今の私にとって、秋雨は、いつまでたっても馴れない獣で、絶対の神で、すべてだった。

 

 でも、だからといって、なにもかもに従容としている……というわけではない。

 例えば、香水がそうだ。

 残り香を消すために使った香水を、私はずっと使い続けていた。

 気が向いたときに、厳粛な儀式のように部屋に散らす。

 強烈な芳香に、秋雨は小鼻にしわを寄せた。

 

「なんだよ、それ」

「……香水、いい匂いでしょ」

 

 最初は甘いだけの薫りは、時の経過とともに変わっていく。

 真昼の月のようにくすんだ、齧った途端砂に変わる死海の紅い果実のそれのような甘い腐臭に。

 今のこの部屋にふさわしい薫り。

 私がそう決めた。

 

「頭痛くなるからやめろよ」

 

 秋雨は不機嫌になって言う。

 でも、私はかまわず香水を振りまき、秋雨も二度とは言わなかった。

 自分の心底に沈み込むような生活を続ける私には、この薫りが必要だったのだ。

 

 でも、食事はについてはだめだった。

 空腹を覚えたときにだけ食べるという不健全かつ自然な食生活。

 作る度に彼に声をかけるようにしたが、なかなかうんとは言わない。

 おまけに、食べる気になっても、好みが煩くて、結局口にしない。

 脂っこいものや野菜が嫌いで、甘いものも苦手。匂いの強いものがだめで……数えれば切りがないくらいだ。

 当然、半ベジタリアンみたいな私と合うはずがない。

 食事に関しては、何度も子どもみたいな諍いをくり返した。

 

 もうひとつが酒と煙草。

 秋雨は、浴びるほど酒を飲み、絶え間なく煙草を吸う。

 アルコール中毒か肺癌で死ぬことを願う、緩慢な自殺志願者だと確信したくなるくらいに。

 私が香水を使うことをやめない理由のひとつはそれだ。

 放っておけば、アルコールと煙草の匂いで目眩がする。

 何度も諫めた。このままじゃ、本当に死んでしまいそうだ。

 だが、秋雨は決して改めようとはしない。

 最初は、いつもの憎まれ口や冗談でかわそうとするが、私が言葉を重ねて諫めると、今度は不機嫌になる。

 端正な顔に残忍な表情を浮かべて、私に直接手をあげたり、物にあたる。

 そのせいで観葉植物はほとんどだめになってしまった。

 そして、当て付けるように、殊更酒をあおった。

 何度かそれをくり返して、私も諦めた。言えば逆効果だ。

 

 諍いのあと、秋雨は決まって私を抱いた。

 抱いてしまえば女は意のままになると思っているに違いないその態度は、到底許しがたいものだ。

 私は、強固に抵抗しようとした。

 ……でも、だめだ。

 最初はどれだけ抗っても、彼の冷たい指に触れられると身体の力が抜けてしまう。

 悔しいが、荒々しいくちづけや老獪な指先に涙ぐむほど乱され簡単に篭絡されてしまうのだ。

 

 彼が私を抱くのは、諍いの後と私が望んだときだけ。

 それ以外のときは決して私に触れようとしない。

 彼にとって、女を抱くのは楽しみではないのだ。

 女を抱くのは、生きるための手段? それとも、私に魅力がないのか。

 私は、前者のほうと踏んでいた。

 私には魅力があるなんて大それたことを言っているのではない。

 そうではなくて……。

 秋雨を見ているとわかる。

 ひどく厭世的で……世の中のすべてだけではなく、自分自身をこそ厭うているような、自嘲と辛酸に満ちたあの表情を見れば。

 あんな顔をする人間は、なににも楽しみを見出すことはできまい。

 だから、飲酒喫煙をする姿を見て、緩慢な自殺を連想してしまうのだ。


 ……そのせいだろうか。

 秋雨と寝るのが、ひとりで毛布にくるまるのに似ているのは。

 寒い夜に薄い毛布にくるまるのに。

 冷えた毛布は最初体温で暖まるけど、朝が来ると冷気に当てられて冷たくなってしまう。

 温もりはいつまでたっても自分の体温だけ。

 結局は冷たいままだ。

 お互いを暖めあうことなど永劫にできない。

 

 秋雨の身体は冷たい。

 指も唇も。

 それは、表面だけではなく、身体の奥底から来る冷たさだ。

 彼のしなやかな身体の内側をしめるのは寒いほどの孤独。

 だから、いくら外側から抱きしめても暖まることはない。

 その痛みに似た孤独が癒えるときまで。

 彼に触れる度に、私も冷たくなる。

 彼の孤独を癒す手を持たないのが悲しくて。

 かつて、大切な手を振りほどき、そして今、だれも私を求めるものはない。

 そんな、自分の孤独が苦しくて。


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