けぶる世界
でも、そのことについて、私はできるだけ考えないようにしていた。
私の手ではどうにもできないもの。
いくら願っても。
だから、部屋にいて、雨音だけを聞いているとき思い浮かぶのは、たいてい自分のことだ。
内省と自己修復。どちらからも長い間目を背け続けてきた。
何の脈絡もなく浮かんでは消えていく想い出、忘れられない言葉、忘れたい光景……そして、柊。突如鮮やかに蘇った記憶はあまりにも甘く、禁断症状のように、彼への想いが発作的に沸き上がり、何度も私を苦しめた。
いくら考えないようにしても、秋雨の昏い眼差しが柊のそれを思い出させ、私は、もう一度彼に会いたい、と願わずにはいられなかった。
しかし、それも最初のうちだけで、ベクトルのない生活を続けているうちに、思い出は分解され、色味のないモノになって果てる。
秋雨に抱かれる度に、記憶は遠く霞み、何もかもが曖昧に混じりあっていく……。
今では、望むときに限って夢ですら会えない相手よりも、今側にいる秋雨のことのほうが、私の心をしめているくらいだ。
秋雨は、私に何も問わない。
手首の傷の理由すら。
自分のことも何も言わない。
決して心を開かず、私に欠片ほどの関心さえ抱いてはくれない彼だから、かえって気になるのだ。
秋雨のことはなにも知らないから、わかっている範囲で想像を巡らすくらいしかできないが。
気になるのは、隠顕する孤独の陰や彼の身元。
……そして、その心の在りかについて。
でも。
彼のことについては、二度とは問わないというのが、私たちの間にある唯一の不文律。
もう一歩でも、私が彼の中に踏み込むことを望めば、その刹那関係が砕け散る。
そんな暗黙の了解によって私たちの均衡は保たれていた。
「まーきこさん」
壁に寄りかかって雨の哀音を聞きながら、いつものように取り留めないことを考えていた私は、呼ばれて、ゆっくりと秋雨のほうに頭を巡らせた。
「なに?」
「酒。なくなっちゃった」
寝室から顔をのぞかせた秋雨は、にっこり笑って、空の酒瓶を振った。
軽い酩酊状態なのか、珍しくご機嫌だ。
もう!? っと言いかけて私は慌てて口をつぐんだ。
逆効果、逆効果。言わないほうが、まだしも酒量が少ない。
「アルコール中毒で死ねば本望でしょ?」
代わりに軽口をたたく。
「んー。それも悪くねぇかも。……どっかで野たれ死ぬか女に刺し殺されるってのが、大勢の意見だけどね」
「……そんな」
「ま、しょーがねーよ。あんな生活じゃ」自嘲混じりの呟き。
酒と煙草に溺れて、女の間を渡り歩いて?
そうやって、まるで身食いするように、自分を堕としめながら生きてきたの?
「……それでも、生きてきたのね」
「死ねば救われるなら、だれも苦労しないさ」
彼が今まで噛んできたであろう辛酸のこもった言葉。
そうね。
死ねば救われるというなら、だれも…。
……柊。
もし、あなたが…。
「……さん? 蒔子さんってば、」
再び物思いに沈みそうになっていた私は、はっとして顔を上げた。
「俺の酒はどーなるわけ?」
私を現実の世界に連れ戻してくれるのは、秋雨の声。
それが妙に嬉しかった。
「ごめんなさい。ぼうっとしてた。すぐに買ってくるわ」
私は、軽く頭を振って感傷を追い出すと、緩慢な動作で立ち上がった。
財布を捜す。すぐに見つかったが、いかんせん中身が軽い。
時折秋雨の煙草や酒を買いに行く以外には、これといって外出もしないのだから当然か。
久しぶりに時計を見る。
四時少し前。
コンビニで用を済ますこともできるが、すっかり顔を覚えられたようでどうも店に入りづらい。
この時間なら、駅前まで出ても帰宅者の群れに合わずにすむ。
預金を下ろして、乱立する周辺の商用施設で用を済ましても十分に間に合うだろう。
タクシーを呼ばなきゃ。
すっかり物臭になってしまった私には、雨の中傘をさして歩くなど考えもつかなかった。
だったら……。
「ねえ、タクシーで駅前まで買物に行こうと思うんだけど、秋雨もどう?」
期待はせずにそう聞いた。
「だるい」
案の定首を振る。
まあ、そんなものだ。
ふたりで、お買物、なんて甘い関係、望むべくもない。
「じゃ、いいわ」
私はあっさりと諦めた。
気落ちすることもなく身支度をする。
近所のコンビニに行くのではない、いくらなんでも部屋着ではね。
顔を洗って髪をとかし、せめてカジュアルな服にと着替える。寝室に入り、ドレッサー代わりに使っているローボードの上に置いた鏡の前に座る。鏡に映る青白い女の顔。
幾日も陽光を浴びないせいかくすんだ肌にファンデーションを薄く塗り、目立たない色、それだけの理由で選んだ定番の口紅をさしていると、
「蒔子さん、趣味悪ぃ」
ベッドの上に寝転んだ秋雨が、減らず口をたたいた。
「うるさいわね」
「そんな腐った色じゃなくて、もっと明るい……そーだな、意外とオレンジ系の口紅なんか、似合うんじゃね?」
「……そうかしら」
口紅。
そういえば昔……。
ローボードの引き出しの奥を探り、古い口紅を引っ張り出した。
キャップをはずし、唇に当てたまま、鏡を見る。
鏡の中の私は存外幼い。
まるで“加藤蒔子”じゃないみたいに。
眼鏡を外し、髪を下ろせば、柊と会ったころの私と変わらない。
それなら。
この口紅をぬれば、あのころの私に戻るのだろうか。
誰かに救いの手を差し伸べる勇気を取り戻せるのだろうか。
明るいオレンジの紅をさせば。
いや。
私は微かに首を振り、口紅を引き出しの奥に戻した。
秋雨に言われたからって、今更昔みたいな化粧をする必要なんかない。
私は昔に戻りたいんじゃない。
柊の夢など見るべきではなかったのだ。
記憶を取り戻して、手紙を読んだところで、どうなるわけではない。
失ったものは二度と取り戻せないし、夢で彼に問いを投げ、答を得たところで、それも私が作り出した幻想。
ただの自己満足に過ぎないのだ。
手紙の意味など考えてはならない。
柊はこの世にはもういない。
そして、過去の記憶が、今の人間を幸せにしてくれることなどないのだ。
今日は理性的な昼間の私が、したり顔でそう言う。
その言葉に全面的に頷く気にはなれないが、それが現実だ。
それに……私は、だれかを救いたいわけでも、自分が救われたいわけでもなかった。
ただこのときを、流されるままに過ごしたいだけだ。
降り止まぬ秋の雨の導くままに。
いつもの口紅をひき、私は、勢いよく立ち上がった。
「じゃ、行ってくる」
すると、
「……やっぱ、行こっかな。ずっと籠りっきりで身体が鈍ってるし」
呟くように、秋雨が言った。
天の邪鬼な男だ。
誘ったときに、うなずけばいいのに。
きっと、私がしつこく誘わなかったから行く気になったのだ。
でも、うれしいから、それでよしとする。
準備を済ませて外に出ると、呼んでおいたタクシーがちょうど現れた。
雨にけぶる世界を裂いて。
第二章はこれで完結。第三章に続きます。
アルファポリスの恋愛小説大賞に参加しています。
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