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悲しみの卵  作者: 朔良
第二章 ひいらぎ
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けぶる世界

 でも、そのことについて、私はできるだけ考えないようにしていた。

 私の手ではどうにもできないもの。

 いくら願っても。

 だから、部屋にいて、雨音だけを聞いているとき思い浮かぶのは、たいてい自分のことだ。

 内省と自己修復。どちらからも長い間目を背け続けてきた。

 何の脈絡もなく浮かんでは消えていく想い出、忘れられない言葉、忘れたい光景……そして、(しゅう)。突如鮮やかに蘇った記憶はあまりにも甘く、禁断症状のように、彼への想いが発作的に沸き上がり、何度も私を苦しめた。

 いくら考えないようにしても、秋雨(しゅうう)の昏い眼差しが柊のそれを思い出させ、私は、もう一度彼に会いたい、と願わずにはいられなかった。

 しかし、それも最初のうちだけで、ベクトルのない生活を続けているうちに、思い出は分解され、色味のないモノになって果てる。

 秋雨に抱かれる度に、記憶は遠く霞み、何もかもが曖昧に混じりあっていく……。

 

 今では、望むときに限って夢ですら会えない相手よりも、今側にいる秋雨のことのほうが、私の心をしめているくらいだ。

 秋雨は、私に何も問わない。

 手首の傷の理由すら。

 自分のことも何も言わない。

 決して心を開かず、私に欠片ほどの関心さえ抱いてはくれない彼だから、かえって気になるのだ。

 秋雨のことはなにも知らないから、わかっている範囲で想像を巡らすくらいしかできないが。

 気になるのは、隠顕する孤独の陰や彼の身元。

 ……そして、その心の在りかについて。

 でも。

 彼のことについては、二度とは問わないというのが、私たちの間にある唯一の不文律。

 もう一歩でも、私が彼の中に踏み込むことを望めば、その刹那関係が砕け散る。

 そんな暗黙の了解によって私たちの均衡は保たれていた。

 

「まーきこさん」

 

 壁に寄りかかって雨の哀音を聞きながら、いつものように取り留めないことを考えていた私は、呼ばれて、ゆっくりと秋雨のほうに頭を巡らせた。

 

「なに?」

「酒。なくなっちゃった」

 

 寝室から顔をのぞかせた秋雨は、にっこり笑って、空の酒瓶を振った。

 軽い酩酊状態なのか、珍しくご機嫌だ。 

 もう!? っと言いかけて私は慌てて口をつぐんだ。

 逆効果、逆効果。言わないほうが、まだしも酒量が少ない。

 

「アルコール中毒で死ねば本望でしょ?」

 

 代わりに軽口をたたく。

 

「んー。それも悪くねぇかも。……どっかで野たれ死ぬか女に刺し殺されるってのが、大勢の意見だけどね」

「……そんな」

「ま、しょーがねーよ。あんな生活じゃ」自嘲混じりの呟き。

 

 酒と煙草に溺れて、女の間を渡り歩いて?

 そうやって、まるで身食いするように、自分を堕としめながら生きてきたの?

 

「……それでも、生きてきたのね」

「死ねば救われるなら、だれも苦労しないさ」

 

 彼が今まで噛んできたであろう辛酸のこもった言葉。

 

 そうね。

 死ねば救われるというなら、だれも…。

 ……柊。

 もし、あなたが…。

 

「……さん? 蒔子さんってば、」

 

 再び物思いに沈みそうになっていた私は、はっとして顔を上げた。

 

「俺の酒はどーなるわけ?」

 

 私を現実の世界に連れ戻してくれるのは、秋雨の声。

 それが妙に嬉しかった。

 

「ごめんなさい。ぼうっとしてた。すぐに買ってくるわ」

 

 私は、軽く頭を振って感傷を追い出すと、緩慢な動作で立ち上がった。

 財布を捜す。すぐに見つかったが、いかんせん中身が軽い。

 時折秋雨の煙草や酒を買いに行く以外には、これといって外出もしないのだから当然か。

 久しぶりに時計を見る。

 四時少し前。

 コンビニで用を済ますこともできるが、すっかり顔を覚えられたようでどうも店に入りづらい。

 この時間なら、駅前まで出ても帰宅者の群れに合わずにすむ。

 預金を下ろして、乱立する周辺の商用施設で用を済ましても十分に間に合うだろう。

 タクシーを呼ばなきゃ。

 すっかり物臭になってしまった私には、雨の中傘をさして歩くなど考えもつかなかった。

 だったら……。

 

「ねえ、タクシーで駅前まで買物に行こうと思うんだけど、秋雨もどう?」

 

 期待はせずにそう聞いた。

 

「だるい」

 

 案の定首を振る。

 

 まあ、そんなものだ。

 ふたりで、お買物、なんて甘い関係、望むべくもない。

 

「じゃ、いいわ」

 

 私はあっさりと諦めた。

 気落ちすることもなく身支度をする。

 近所のコンビニに行くのではない、いくらなんでも部屋着ではね。

 顔を洗って髪をとかし、せめてカジュアルな服にと着替える。寝室に入り、ドレッサー代わりに使っているローボードの上に置いた鏡の前に座る。鏡に映る青白い女の顔。

 幾日も陽光を浴びないせいかくすんだ肌にファンデーションを薄く塗り、目立たない色、それだけの理由で選んだ定番の口紅をさしていると、

 

「蒔子さん、趣味悪ぃ」

 

 ベッドの上に寝転んだ秋雨が、減らず口をたたいた。

 

「うるさいわね」

「そんな腐った色じゃなくて、もっと明るい……そーだな、意外とオレンジ系の口紅なんか、似合うんじゃね?」

「……そうかしら」

 

 口紅。

 そういえば昔……。

 ローボードの引き出しの奥を探り、古い口紅を引っ張り出した。

 キャップをはずし、唇に当てたまま、鏡を見る。

 鏡の中の私は存外幼い。

 まるで“加藤蒔子(かとうまきこ)”じゃないみたいに。

 眼鏡を外し、髪を下ろせば、柊と会ったころの私と変わらない。

 それなら。

 この口紅をぬれば、あのころの私に戻るのだろうか。

 誰かに救いの手を差し伸べる勇気を取り戻せるのだろうか。

 明るいオレンジの紅をさせば。

 

 いや。

 私は微かに首を振り、口紅を引き出しの奥に戻した。

 

 秋雨に言われたからって、今更昔みたいな化粧をする必要なんかない。

 私は昔に戻りたいんじゃない。

 柊の夢など見るべきではなかったのだ。

 記憶を取り戻して、手紙を読んだところで、どうなるわけではない。

 失ったものは二度と取り戻せないし、夢で彼に問いを投げ、答を得たところで、それも私が作り出した幻想。

 ただの自己満足に過ぎないのだ。

 手紙の意味など考えてはならない。

 柊はこの世にはもういない。

 そして、過去の記憶が、今の人間を幸せにしてくれることなどないのだ。

 今日は理性的な昼間の私が、したり顔でそう言う。 

 その言葉に全面的に頷く気にはなれないが、それが現実だ。

 それに……私は、だれかを救いたいわけでも、自分が救われたいわけでもなかった。

 ただこのときを、流されるままに過ごしたいだけだ。

 降り止まぬ秋の雨の導くままに。

 

 いつもの口紅をひき、私は、勢いよく立ち上がった。

 

「じゃ、行ってくる」

 

 すると、

 

「……やっぱ、行こっかな。ずっと籠りっきりで身体が鈍ってるし」

 

 呟くように、秋雨が言った。

 

 天の邪鬼な男だ。

 誘ったときに、うなずけばいいのに。

 きっと、私がしつこく誘わなかったから行く気になったのだ。

 でも、うれしいから、それでよしとする。

 準備を済ませて外に出ると、呼んでおいたタクシーがちょうど現れた。

 雨にけぶる世界を裂いて。


第二章はこれで完結。第三章に続きます。


アルファポリスの恋愛小説大賞に参加しています。

よければ、ぽちっとしてやってください。

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