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覇王綺譚  作者: 春乃こより
第一章
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1話 城壁の向こうを夢見る朝

カーン、カーン…


遠くで朝を告げる鐘が鳴る。


春風が白いレースのカーテンを揺らした。


その時――


近くで重い城門が開く音が、王城へ低く響いてきた。


街へ向かう荷馬車や人々が、今日も城門をくぐっていくのだろう。


窓辺に立つ小さな背中は、その朝の音に耳を澄ませる。


視線は遠く、庭園の向こうへ伸びていく。


その先には、高い城壁。


その向こうには、今日も見たことのない世界が広がっている。


(あの向こうでは、どんな人たちが暮らしているんだろう。)


白いレースのカーテンが、風に揺れてふわりと舞う。


目を細めて笑うと、花瓶へ視線を戻した。


春の柔らかな陽射しは、窓辺を優しく照らしていた。


花瓶には、今朝生けられたばかりの青い花が揺れていた。


トン、トン、トン…


足音が近付く。


花瓶にそっと顔を近づけ、大きく息を吸い込む。


「……甘い香り。」


コン、コン。


「失礼いたします。」


扉が静かに開く。


侍女は、窓辺に立つ小さな背中を見つけると、穏やかに微笑んだ。


「庭師さんが今朝、咲いたばかりのネモスフィアを摘んでくださったんですよ。」


「もう、すっかり春ですね。」


そう言うと侍女は、小さな背中へ向かって頭を下げる。


「おはようございます。よく寝られましたか? テオ王子殿下。」


侍女は窓辺へ歩み寄ると、白いレースのカーテンをもう少しだけ開いた。


部屋へ柔らかな春の陽射しが流れ込む。


「昨日降った雨も、すっかり止みましたね。」


「今日はいいお天気になりそうです。」


テオは窓の外の空を見上げ、少しだけ目を細める。


「うん、朝から光がいっぱい……。」


その視線は、ゆっくりと窓辺の花瓶へ移った。


青い小さなネモスフィアが、朝露をまとってきらりと光っていた。


テオは花瓶へそっと顔を近づけると、じっと見つめ始めた。


一輪一輪、花びらの形は少しずつ違う。


丸い花びら。


星のような花びら。


どれも同じように見えて、一輪として同じ花はなかった。


その中から一番綺麗な一輪を探す時間が、テオは好きだった。


(この子、きれい……。)


その時だった。


「テオ王子?」


寝台を整え終えた侍女が振り返る。


テオはまだ花瓶の前で真剣な表情をしていた。


「今日は、この子。」


テオは花びらへそっと指先を近づける。


触れる寸前で、


静かに手を引いた。


侍女は思わずくすりと笑い花瓶を覗き込む。


「どのお花も綺麗ですよ。」


「うん。」


「でも今日は、この子が一番お気に入り。」


侍女は少し首を傾げる。


「どうしてそのお花なのですか?」


テオは答えかけて、ふっと照れたように笑った。


「……ないしょ。」


その笑顔は、


宝物を見つけた子どものようだった。


「まあ。」


侍女は口元へ指を添え、


うふふっと小さく笑った。


「そうでしたか。」


「さあさあ、もう朝食のお時間ですよ。」


「あっ……。」


テオは小さく肩を落とす。


もう少しだけ、花を眺めていたかった。


(夜の楽しみに取っておこう。)


そう心に決めると、名残惜しそうにもう一度だけ花瓶へ目を向けた。


侍女は王子の正装を両手で持ち、テオを着替えさせた。


それから髪紐を手に取り、肩に触れる金色の髪をひとつに束ねようとする。


その指先が、わずかに震えた。


「……。」


テオは振り返ると、不思議そうに侍女の顔を覗き込んだ。


「エル、どうしたの?」


「……いえ。何でもありません。」


侍女――エルはその言葉を胸の奥へ飲み込み、いつものように髪を結んだ。


「さあ、参りましょう。」


「はい。」


今日もまた、王子としての一日が始まる。



◇ ◇ ◇



食堂の扉を開いた瞬間、焼きたてのパンの香ばしい香りがふわりと外へこぼれた。


早朝から仕込まれたパン生地が、厨房の隣にあるパン焼き室で焼き上げられ、焼きたてのパンが次々と食堂へ運ばれてくる。


長い食卓には、温かなスープや彩り豊かな野菜、季節の果物が豪華に並べられていた。


テオは席に着くと、背筋を伸ばす。


少し離れた席では、王家の分家にあたる公爵一家も、すでに席に着いていた。


ほどなくして国王が姿を現した。


「おはようございます、お父様。」


「おはよう、テオ。」


短い朝の挨拶を交わすと、国王は静かに席へ着いた。


王城では珍しくない、いつもの朝の光景だった。


「いただきます。」


国王の言葉に続き、一同は静かに食事を始める。


国王はテオへ目を向けた。


「今日は教育係との勉強だったな。」


「はい、お父様。」


国王は小さく頷く。


しばらく、何も言わずにテオを見つめる。


「学びは日々の積み重ねだ。」


「心して励みなさい。」


「はい。」


短いやり取りを終えると、食堂には再び静かな時間が流れた。


カツン……コン…


食器の触れ合う音だけが、穏やかな朝の空気に溶け込んでいく。


朝食が終わる頃、侍女エルが銀の盆を手に近づいてきた。


盆の上には、焼きたてのパンと温かなスープ、小さく切り分けられた果物が丁寧に並べられている。


「王妃様のお食事でございます。」


テオは立ち上がり、そっと盆を受け取った。


「お母様のところへ行ってきます。」


国王はゆっくり頷く。


「ああ。」


銀の盆を両手で大切に持ちながら、テオは食堂を後にした。


王妃の部屋へ向かうこの時間も、テオにとって毎朝欠かせない大切な時間だった。



コン、コン。


「王妃様、朝食をお持ちいたしました。」


「どうぞ。」


部屋の中から、穏やかな声が返ってくる。


エルは扉を静かに開けた。


「おはようございます、お母様。」


テオは銀の盆を両手で抱えたまま、静かに部屋へ入る。


王妃は寝台の上で一冊の本を読んでいた。


テオの姿に気付くと、静かに栞を挟み、本を閉じる。


「ありがとう、テオ。」


廊下に立つエルは軽く一礼すると、静かに扉を閉めた。


部屋には、テオと王妃、二人だけの時間が流れる。


テオは寝台脇の小さなテーブルへ盆を運び、パンやスープを丁寧に並べていく。


「ありがとう。」


王妃は優しく微笑むと、持ってきたばかりの焼きたてのパンを一口ちぎった。


「やっぱり、このパンが一番好き。」


その幸せそうな表情を見て、テオも自然と笑顔になる。


「そんなに好きなの?」


「ええ。」


王妃はもう一口、ゆっくりと味わった。


「王城専属のパン屋さんは、とても頑固な職人さんなの。」


「美味しいパンを焼くためなら、誰にも譲らないのよ。」


テオは興味深そうに首を傾げる。


「そのパン屋さんに会ったことある?」


王妃はくすっと笑って首を横に振った。


「私はないわ。」


「え?」


「パンが焼き上がるまで、窯の前を離れない人なんですって。」


「でも、だからこんなに美味しいパンが焼けるのかもしれないわね。」


「今日は二つ食べちゃおうかしら。」


「え?お母様本当に?」


「冗談よ。」


テオも思わず笑う。


「そのパン屋さんにも、会ってみたいな。」


「ええ。いつか会えるといいわね。」


穏やかな時間が流れる。


テオは王妃が嬉しそうにパンを食べる姿を眺めていた。


それだけで、なんだか自分まで嬉しくなる。


王妃はスープへ口をつけると、ふと思い出したように尋ねた。


「今日はどんなお勉強があるの?」


テオは視線を横に逸らす。


「午前は馬術。」


そこまでは明るかった声が、急に小さくなる。


「午後は……剣術。」


王妃は微笑んでいたが、


その笑顔がほんの少しだけ揺らいだ。


すぐに、いつもの優しい笑顔へ戻る。


「馬術は好きでしょう?」


「うん!」


その返事だけは、とても元気だった。


「馬はね、ちゃんと気持ちを分かってくれるんだ。」


「優しくすると、馬も優しくしてくれるの。」


嬉しそうに話すテオを見て、王妃も微笑む。


「でも……。」


テオは口を尖らせた。


「剣は苦手。」


「重いし……。」


「腕も痛くなるし……。」


「頑張ってるのに、教官みたいに全然できない。」


食堂では決して見せなかった、小さな弱音だった。


王妃は黙って最後まで聞くと、そっとテオの頭へ手を添えた。


「テオはまだ体も小さいもの。」


「今はできなくても大丈夫。」


「一歩ずつ進んでいけば、ちゃんと上達するわ。」


テオは王妃を見上げる。


「……ほんと?」


「ええ。」


「お母様は知っているもの。」


「テオは誰よりも頑張り屋さんだって。」


その言葉に、ぱっと笑顔がこぼれる。


「……うん!」


テオは何度も頷いた。


王妃も優しく微笑み返す。


「さあ。」


「今日も行ってらっしゃい。」


「うん!」


テオは元気よく頷くと、空になった食器を盆へ戻し、大切そうに抱えた。


「また明日ね、お母様。」


「ええ。」


「また明日。」


テオが部屋を出ると、扉が静かに閉まった。


王妃は閉じられた扉をしばらく見つめ、やがて、そっと窓の外へ目を向ける。


(ごめんなさい、テオ。)


(本当は剣なんて持たせたくないのに。)


(あなたは、本当は……)


その想いだけは、誰にも届かないよう胸の奥へそっとしまい込んだ。

『覇王綺譚』を見つけてくださり、ありがとうございます。

毎週水曜日20時更新予定です。

初週のみ、第4話まで毎日20時に更新します。

テオの物語を一緒に見守っていただけたら嬉しいです。

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