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第一話 蝉の声が消える前に

序章 夏の終わり


夏の終わりは、いつも少し寂しい。


蝉の声は少しずつ弱くなり、夜の風には秋の気配が混じり始める。


それでも、あの日の空だけは、今でも鮮明に覚えている。


赤く染まった夕焼け。


遠くで響く祭りの音。


そして――


隣にいた君の姿。


「ねえ」


少女は、小さな声で言った。


「もし、私のことを忘れてしまったら……どうする?」


突然の質問だった。


僕は笑った。


そんなことが起きるはずがないと思っていたから。


「忘れるわけないだろ」


そう答えた。


「約束する」


少女は少しだけ寂しそうに笑った。


「……本当に?」


「ああ」


「絶対?」


「絶対」


その時の僕は知らなかった。


人は、大切なものほど簡単に失うことがある。


思い出も。


約束も。


そして――


大切な人の存在さえも。


---


一年後。


僕は、君の名前を思い出せなくなっていた。


声も。


笑顔も。


一緒に過ごした時間も。


何もかも。


ただ一つだけ。


スマホに残された、見覚えのないメモ。


そこには、たった一言だけ書かれていた。


『彼女を忘れるな』


誰が書いたのか分からない。


なぜ残されていたのかも分からない。


だけど。


その文字を見た瞬間。


胸の奥が、痛んだ。


まるで――


僕の中の誰かが、まだ彼女を覚えているように。


これは。


忘れてしまった君と。


忘れられなかった僕の。


夏の物語。

あの夏から、一年が経っていた。


夏は、いつも突然やってくる。


ある朝、目を覚ますと、窓の外の木々はいつの間にか濃い緑色に染まっていて、差し込む日差しの温度も、空気に混じる匂いも、すっかり夏のものになっていた。


蝉の声。


太陽に焼かれたアスファルトから立ち上る熱気。


どこかの家から聞こえる風鈴の音。


浅野悠真は、机の前に座ったまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。


机の上には、すっかり冷めてしまった水の入ったコップと、途中まで読んだまま開かれている小説。


彼はもう十分以上、同じ姿勢でいた。


正確に言えば――


なぜ自分がそこで止まっているのか、本人にも分からなかった。


「……俺、さっき何を考えてたんだっけ」


小さく呟く。


しかし、答えは出てこない。


最近、よくこういうことがある。


何か大切なものを忘れている気がする。


けれど、どれだけ考えても思い出せない。


夢から目覚めた後、消えていく最後の景色を必死に掴もうとするような感覚。


考えれば考えるほど、遠ざかっていく。


「悠真ー! 遅刻するわよ!」


一階から母親の声が聞こえた。


「分かってる」


悠真は本を閉じた。


今日は夏休み前、最後の日。


ほとんどの高校生にとって、待ちに待った一日だった。


最後の授業。


そして、夏休み。


海。


花火大会。


夏祭り。


楽しい予定はいくらでも作れる。


けれど、悠真には特別楽しみにしているものがなかった。


夏が嫌いなわけじゃない。


ただ――


なぜか思うのだ。


自分は以前、とても大切な夏を失ったのではないかと。


---


学校はいつも通り騒がしかった。


廊下では、夏休みの予定を話す声があちこちから聞こえる。


「今年こそ海行こうぜ!」


「去年も同じこと言ってただろ」


「今回は本気だって!」


楽しそうな笑い声。


悠真は自分の席に座り、窓の外を眺めていた。


グラウンドでは、生徒たちが放課後の活動の準備をしている。


木々の間から差し込む光。


どこにでもある、普通の景色。


なのに。


一瞬だけ、胸の奥がざわついた。


まるで――


自分は以前にも、ここで。


誰かと一緒に、この景色を見たことがあるような。


「浅野」


隣の席の男子が肩を叩いた。


悠真は我に返る。


「何?」


「またぼーっとしてただろ」


「そうか?」


「最近多くないか?」


悠真は苦笑した。


「ちょっと寝不足なだけ」


本当の理由なんて、自分でも分からない。


だから言えるはずもなかった。


---


放課後。


悠真はまっすぐ家には帰らなかった。


少し遠回りをして、川沿いの道を歩く。


そこには、子供の頃から知っている大きな桜の木があった。


春には綺麗な花を咲かせる。


でも今は夏。


青々とした葉が、空を覆っている。


悠真は木の下で立ち止まった。


なぜか、ここだけは妙に懐かしかった。


懐かしいというより――


胸が痛くなるほど、覚えている気がした。


「ここ……」


彼はそっと木の幹に触れる。


その瞬間。


頭の中に、知らないはずの光景が浮かんだ。


白いワンピースを着た少女。


夏の日差しの中で、こちらを振り返っている。


そして、笑いながら言った。


『来年の夏も、一緒に花火を見ようね』


悠真は息を止めた。


しかし次の瞬間。


その光景は消えた。


残ったのは、蝉の声だけ。


「……誰なんだ」


小さく呟く。


返事はなかった。


---


その夜。


悠真はベッドの上で眠れずにいた。


窓の外から、街の音が聞こえる。


彼はスマホを手に取り、写真フォルダを開いた。


友達。


学校。


風景。


どれも普通の写真ばかり。


しかし、一番下までスクロールした時。


指が止まった。


そこには一枚の写真があった。


撮影日時。


一年前の夏。


写真には、夏祭りの風景が写っていた。


人混みの中。


遠くに、一人の少女がいる。


顔はよく見えない。


それでも悠真には分かった。


自分は、この少女を知っている。


けれど――


名前も。


声も。


何も思い出せない。


悠真は長い間、その写真を見つめていた。


そして気付く。


写真の下に、メモが残されている。


自分が書いた覚えのない文字。


たった一言。


『彼女を忘れるな』


悠真の指が止まる。


悠真は、その文字を見つめたまま、しばらく動かなかった。


『彼女を忘れるな』


たった一行。


それだけの言葉だった。


けれど。


なぜか、その言葉だけは頭から離れなかった。


誰かの悪戯かもしれない。


昔の自分がふざけて書いたものかもしれない。


そう考えようとした。


しかし。


心のどこかで、それを否定する自分がいた。


これは、ただの悪戯なんかじゃない。


そんな気がした。


理由は分からない。


証拠もない。


ただの直感。


それでも、悠真には無視できなかった。


「……彼女って、誰なんだよ」


小さく呟く。


当然、返事はない。


静かな部屋の中で、その声だけが消えていった。


悠真はもう一度、写真を見る。


夏祭りの夜。


そこに写っている少女。


顔は見えない。


名前も知らない。


それなのに。


どうしてこんなにも気になるのだろう。


普通なら、知らない人が写った写真なんて気にもしない。


数秒見て、不思議に思って終わる。


でも。


この写真だけは違った。


見るたびに、胸の奥が少し痛む。


まるで。


忘れてしまった何かが、必死に自分へ存在を伝えようとしているようだった。


「……俺、本当に忘れてるのか」


その言葉を口にした瞬間。


背中に冷たいものが走った。


忘れる。


その言葉は簡単だ。


人は毎日、たくさんのことを忘れていく。


昨日食べた昼ご飯。


誰かが言った何気ない一言。


昔見た夢。


そんなものは、いつの間にか消えていく。


でも。


もし。


忘れてはいけないものまで忘れていたら。


もし。


自分の知らないところで、大切な誰かが消えていたら。


そう考えた瞬間。


悠真はスマホを強く握った。


---


次の日の朝。


目覚ましが鳴るより先に、悠真は目を覚ました。


眠ったはずなのに、疲れが残っている。


夢を見ていた気がする。


けれど、内容は覚えていなかった。


ただ。


誰かの声だけが、耳の奥に残っていた。


――忘れないで。


誰の声だったのか。


それだけが分からなかった。


悠真はベッドから起き上がり、カーテンを開ける。


眩しい朝日が部屋の中に差し込んだ。


いつもと変わらない朝。


いつもと変わらない夏。


なのに。


昨日までとは何かが違って見えた。


机の上に置かれたスマホ。


そこにある一枚の写真。


たったそれだけのことで、自分の日常は少しずつ崩れ始めている。


---


学校へ向かう道。


いつも通る道なのに、今日は妙に長く感じた。


周りでは、夏休みを楽しみにしている生徒たちの声が聞こえる。


海の話。


花火大会の話。


旅行の話。


誰もがこれから始まる夏を楽しみにしていた。


悠真も、少し前までは同じだったはずだ。


でも。


今の彼の頭の中にあるのは、たった一つ。


あの少女のことだった。


「浅野」


突然、後ろから声をかけられた。


振り向くと、同じクラスの男子が立っていた。


「昨日さ、変なところで見かけた気がするんだけど」


「え?」


「いや、気のせいかもしれない」


友人は首を傾げる。


「昨日の夕方、お前、川沿いの桜の木のところにいたよな?」


悠真は足を止めた。


「……俺が?」


「ああ。でも、声かけようと思ったら、誰かと話してるみたいだったから」


「誰か?」


聞き返す。


友人は少し考えてから答えた。


「いや……遠くから見ただけだから分からない」


「女の子とか?」


その瞬間。


友人は不思議そうな顔をした。


「え?」


「いや……何でもない」


悠真は視線を逸らす。


聞いてはいけないことを聞いた気がした。


昨日。


自分は桜の木の下にいた。


それは覚えている。


でも。


誰かと一緒だった?


そんな記憶はない。


---


放課後。


悠真はまた、川沿いの道を歩いていた。


昨日と同じ場所。


大きな桜の木。


夏の風に葉が揺れている。


静かな場所だった。


しかし。


今日は昨日とは違った。


何かを期待している自分がいる。


誰かがいるかもしれない。


そんな馬鹿げた期待。


自分でも分かっていた。


記憶にない相手を探しているなんて、おかしい。


それでも。


足は自然とここへ向かっていた。


悠真は木の下に立つ。


そして、ゆっくり目を閉じた。


すると。


また。


あの光景が浮かんだ。


白いワンピース。


夏の日差し。


柔らかな笑顔。


でも。


今回も顔だけは見えない。


「……待ってくれ」


手を伸ばす。


届かない。


どれだけ近づこうとしても。


その少女との距離だけは縮まらない。


そして。


最後に聞こえた声。


『約束したよね』


悠真は目を開けた。


そこには誰もいなかった。


残っているのは。


蝉の声だけだった。


夏の時間だけが、何も知らないように流れていた。

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最後まで読んでいただき、ありがとうございます。 まだ明かされていない謎は、少しずつ紐解かれていきます。 次回もよろしくお願いいたします。
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