鋭い気配②
百合から襲撃予告の詳細を聞いた翌日、達也はまた平日昼下がりのイリーナ・ホテルに来ていた。
なぜ達也がこうもイリーナ・ホテルに頻繁に来るかというと、百合がラウンジ『リリア』でピアニストをしているから……という理由だけではない。
今住んでいるマンションがイリーナ・ホテルの近くにあるからだ。
達也は栄一の探偵事務所で働き始めてから、実家を出て一人暮らしを始めている。今住んでいる部屋は高層マンションの最上階。イリーナ・ホテルの屋上のヘリポートが見下ろせた。
百合は達也が引っ越しする時に手伝いに来てくれたが、さすがの彼女も達也の新居の豪華さには目を見開いていた。
そんな自室で達也は今日も朝から新作の小説を書こうと頑張っていたが、なかなかよいフレーズが思い浮かばない。気晴らしに下界へ降りてイリーナ・ホテルのラウンジ「リリア」で紅茶でも飲もうと思ったのだ。
(――しかし、このブローチどうしようかな?)
達也はイリーナ・ホテルのロビーを歩きながら、上着のポケットに入れっぱなしになっている西園寺エミのブローチを思い出した。
フロントを見ると、エミの姿はない。今日は非番か、もしくは休憩中や夜勤なのかもしれない。
エミがブローチを捨てたからとは言え、彼氏から貰った思い出深い品だ。自分が無下に捨てることはできない。
しかも、このブローチはエミの元カレの母親の形見らしい。百合の言う通り、母親の形見にしては高価ではなさそうだが、亡くなった誰かのものを捨てるなんてこと、達也には手軽にできなかった。
いろいろ考えながら歩いていると、歩き方が不審に思われたのか、ふと警備員の気配を感じる。多分、パトリック・エヴァンスの来日間近で、また警備員が増えているのだろう。
いや、さすがに自分は不審者じゃない。このイリーナ・ホテルを傘下にしている人間の息子なんだけど……。
達也は警備員の視線を誤魔化すように澄ました表情をしながら、ラウンジ「リリア」へと向かった。
(――あれっ?)
「リリア」に向かいながら、達也はふと気配を感じた。さっきの警備員の気配とはまったく違うものだ。
思わず振り返って、辺りを見渡す。
警備員の人数がいつもよりも多いが、そこにはいつものイリーナ・ホテルの風景が広がっていた。ここが常に忙しい東京の中心にあるとは思えないほど、ゆったりとした時間が流れている。
ここにいる人たちみんなが、特別にゆっくりとした時の中を過ごしているかのようだ。
そんなゆったりとした空間にふと割り込んで来た、鋭い気配。
さすがに安全に気を配っている警備員だって、ここまであからさまに鋭い気配を漂わせはしないだろう。
気のせいだろうか、と達也は思った。しかし、案外自分の「気のせい」はいつも気のせいでは済まないのを思い出した。
達也は小さい頃から感性が人一倍優れていて、勘みたいなものが恐ろしいほど鋭いのだ。
達也はあの日本一の名探偵と呼ばれている栄一やその娘の百合のようにずば抜けた記憶力や洞察力はない。ただ達也も自頭は決して悪い方ではなかった。エスカレーター式だが、有名な私立大学の文学部を卒業している。
そうは言っても、あの探偵親子には到底適わない。あの二人がどうしてあんなに頭の回転が速いのか、達也はいつも不思議でならなかった。
達也があの二人よりも優れているところと言ったら、小説を書く才能と時々第六感かと思われるほどの鋭い勘くらいだろう。
もちろん、いつでも勘が働くかというとそうではない。しかし、時々「あれっ?」と思ったことが、後々になって重大なことだったと気づくことが良くある。
(――まあ、でも気のせいなのかな?)
達也はもう一度振り返って辺りを見渡した。あの鋭い気配はすっかり消えてしまっている。
達也は再びラウンジ「リリア」へ向かって歩き始めた。
ラウンジ「リリア」へ入った達也は、窓際の席に座り、いつもと同じショートケーキとアールグレイを注文した。「リリア」のショートケーキとアールグレイは達也の好物だ。
ラウンジのスタッフが達也を見て親しそうに会釈してくる。
スタッフは達也を「良く来る人」「ピアノを弾いている桜井さんと知り合いの人」くらいの認識でいるのだろう。
曜日や時間問わずふらりと現れる達也が何をやっている人物なのか、疑問に思っている気配はなかった。
イリーナ・ホテルくらいの高級ホテルになると、達也のように上品そうで身なりが良いのに暇そうな人間がよくうろうろしているのだ。
それでも、目の前の男がこのホテルを傘下にしている人物の息子とは思いつきもしないだろう。
知っていたら、態度がもっと違うかもしれない。
しかし、達也には自分の素性を知られない方が好都合だった。
小さい頃から、学校へはリムジンで送り迎え。周りにも相当お金持ちが多いにも関わらず、同級生には特別扱いされてしまう。
普通の人から見れば「羨ましい」という環境も、達也に取っては窮屈で居心地が悪いだけだった。
だから、自分は百合と一緒にいるのが心地良いのかもしれない、と達也は思っている。
百合だけは、自分を特別扱いしなかった。
あれは、達也が小学校三年生の時の誕生日会。
誕生日会には、達也の父親の親友である栄一も招待された。栄一と一緒に来ていたのが娘の百合だった。
百合は達也と招待客の前でピアノを弾いた。
達也は百合の美しさとピアノの上手さにすっかり魅了されてしまった。そして、どうしても百合に会いたくなり、学校が終わると毎日リムジンで桜井家へと行くようになった。
感受性が強く引っ込み思案で臆病だった達也が、ここまで積極的になれたのは不思議だ。今、百合に告白できないと悩んでいる達也とは別人のようだが、多分、初めて覚えた恋の味に周りが見えなくなってしまったのだろう。
こういう時は父親の栄一が「いや、そんなに毎日来なくても……」と言いそうだが、あの名探偵の栄一も出る幕はなかった。
百合は達也にきっぱりとこう言い放ったのだ。
「迷惑だから毎日来ないで」
達也はショックで一週間程寝込んだが、達也の父親は笑っていた。
「さすが栄一の娘だな。将来、大物になるぞ」
確かに父親の言う通り、百合は大物になった。
イギリスの大物ミュージシャンに共演を申し込まれても、平然とした表情をしているのだから。