マーガレットのブローチ⑥
「それよりも、西園寺さん、大丈夫かな? 気持ちを取り戻してくれればいいけど。パトリック・エヴァンスさんのこともあるし」
「えっ? 何でここでパトリック・エヴァンスが出て来るの?」
パトリック・エヴァンスはイギリスの大物ミュージシャンだ。
流行作家なのに流行に疎い達也でも名前と有名な曲ぐらいは知っている。全世界にファンがたくさんいて、レコードのセールス数も莫大。何年か前にサブスクを解禁した時は、日本でも話題になっていた。
しかし、いくら大物とは言え、今なぜここに彼の名前が出て来るのだろうか。
「パトリック・エヴァンスさんが今度、このラウンジ『リリア』でライブを開くの。で、西園寺さんはエヴァンスさんのエスコート役に選ばれているの。西園寺さん、小さい頃はイギリスに住んでいたらしく、イギリス英語が堪能なのだそうよ」
「あっ、なるほど」
エミはそんな大役を任されていたのか。それは失恋を乗り越えて成功してほしいと達也は心の中で応援した。
「で、私は『リリア』のライブで、エヴァンスさんのピアノ伴奏をすることになっているの」
「えっ?! 今、何て言った?」
まるで「明日はラウンジでビートルズの『Let it be』を弾くの」みたいにさらりとすごい言葉が聞こえて来たな、と達也は目を見開いた。
「だから、『ライブでエヴァンスさんのピアノ伴奏をすることになった』って言ったの」
「本当に? 何でそんなことになったの?」
「エヴァンスさんがプライベートでイリーナ・ホテルを利用した時、ピアノを弾いている私を見かけたんですって。それで、私の演奏が気に入ったらしく、ライブで一曲共演したいって言われたの。
エヴァンスさん、ママのファンらしく『あなたが桜井葵の娘だったなんて……』と驚いていたみたい」
百合がいつもの無表情のまま、何でもないような口調で淡々と言う。
百合はどうしてこうもいろいろとすごいのだろうか、と達也は驚きを通り越して不思議に感じた。
百合は記憶力や洞察力が優れているだけでなく、ピアノの演奏も素晴らしかった。普通にピアニストとしてやっていけるようなレベルだ。達也も百合のピアノには感嘆する気持ちしかない。
音楽に関しては素人の達也が聴いてもそうだし、一流ミュージシャンが気に入るなんて、本当に才能があるのだろう。
「そうだったんだ。今日警備員がいつもよりもたくさんいるような感じだったけど、パトリック・エヴァンスが来るからだったのかな?」
達也は何げなくそう言いながら、いや、でも来日するのはまだだから違うのかな? と心の中で付け加えた。
その時、達也は自分の身体に静電気のようなものがピリッと走るのを感じた。
近くにいる百合に一瞬緊張が走ったのだ。百合や百合の父親の栄一と一緒にいると、時々こういう感覚を覚えることがある。
本当に静電気が放たれているわけではない。二人が何か重要なことに触れた時に出す、電気のようなものだ。
百合は達也の方を向いて、立てた人差し指を口元に当てる仕草をした。
演奏用に濃い目の口紅が塗られた唇に、達也は思わず胸をドキッとさせる。そのため、達也は百合の仕草が「静かにしていて」という合図だと気付くのに時間がかかってしまった。
百合は楽屋の隅に置いてあったカバンの中から、ノートパソコンを取り出す。
百合は一体何をしようとしているのだろうか。達也が不思議に思いながら見ていると、百合はパソコンを立ち上げて、テキストファイルを開いた。
百合はそのテキストファイルに、まるでピアノを弾く時のような鮮やかなタイピングで文字を打って行く。
――エヴァンスさんに襲撃予告が届いている。