マーガレットのブローチ⑦
最初は百合のパソコンを打つ指さばきに見惚れていた達也も、百合が打った文字に驚きの声を上げた。
「えっ!?」
百合は再び、達也に向かって人差し指を唇に当てて見せた。
「詳しいことはまた話すから。――私、もう行かないと」
百合は。楽屋にかかっている壁時計をチラリと見ると、パソコンを閉じた。
イスから立ち上がって、楽屋のハンガーにかかっているシンプルな白いブラウスを手に取る。百合がいつも仕事で着ているスマートカジュアルの服だ。
「えっ? どこへ」
パソコンに打った文字の続きをすぐに教えてもらえると思ったのに。達也は今度は拍子抜けしたような声を上げた。
「用事があるの。私、着替えるから、悪いけど出て行ってくれる?」
「あっ、うん。じゃあ、また今度教えて」
着替えると言われたら出て行くしかない。
達也はそれでも名残惜しそうにゆっくりと楽屋を後にしようとした。しかし、後ろで百合がドレスのファスナーを開けるらしい音を聞くと、急いで楽屋を出て扉を閉めた。
百合が「もう行かないと」と言ったのは本当らしい。あの百合にしては少し慌てているようだ。仕事の用事でもあるのだろうか。
達也は楽屋の扉を閉め、廊下を歩き出そうとしたが、また名残惜しそうに後ろを振り返った。
もしかすると、さっきは百合に告白するチャンスだったのかもしれない。
百合とプライベートで二人きりになることなんて、滅多にない。仕事で百合とペアで行動することもあるが、仕事中の百合は常に気を張り巡らせていて、愛だの恋だの囁く雰囲気ではないのだ。
かといって、プライベートの百合は副業でピアニストをしている。ピアノの腕を磨くために練習はかかさないし、探偵業で必要な様々な知識を覚えるための勉強もかかさない。いつも忙しそうだ。
つまり、達也が告白を切り出せるような二人きりになれる時間はほぼないのだ。
いくら百合が忙しいからといって、今時の若者が使うようなアプリやメールでの告白は考えられない。作家らしい手紙による恋文も何か違う。達也は百合に直接、告白したかった。
まあ、例え告白できるようなチャンスが来ても、今の幼馴染の関係を壊すのに躊躇して、何も言わない可能性の方が高いだろうが。
達也は小さなため息を吐いた。
今日は帰ろうと達也が何気なく上着のポケットに手を入れると、小さくて固いものに触れる。
ポケットにはエミが捨てようとしたカメオのブローチが入っていた。百合に追い出された時、無意識にポケットに入れてしまったらしい。
このブローチどうしようか、と達也は考えた。思い入れのある品だから、再びゴミ箱へ投げ捨てるなんてできない。エミに返すのも違うような気がする。
こうやってポケットの中に入ってしまったのも何かの縁だろう。しばらく自分が預かっておくか。
達也はポケットから手を抜くと、もう一度楽屋の扉を振り返った。そして、前を向くと、そのまま廊下を歩いて行った。
*
百合はドレスのファスナーを開けながら、達也が出て行った楽屋の扉を振り返った。
さっき、達也を慌てて追い出してしまった。焦ったのは自分らしくない。
でも、達也にはあの人と会っているところは見られたくなかった。
百合はドレスを脱ぐと、白いブラウスと紺のテーパードパンツを身に着けた。普段、仕事で着ているスマートカジュアルの服だ。いつもはこの服装になると気が引き締まるが、今はそういう気持ちにはならなかった。
百合はノートパソコンをカバンにしまうと、楽屋を出た。
楽屋の扉を開ける時、一応辺りを見渡したが達也の姿はどこにもなかった。百合は小さく頷くと足早に廊下を歩き始める。
百合はイリーナ・ホテルの自慢である厳かなロビーを抜け、ホテルの外に出た。
よく手入れされた庭の植物が夕陽に反射している。緑豊かで穏やかで、ここが日本の中枢が集まる東京都千代田区だと忘れてしまう程だ。
それでも少し歩くと、見慣れた高層ビル群が目の前にそびえ立って来る。車の量も多くなってきた。
百合は人の波も車も気にしないような無表情で歩き続けたが、あるビルの前に立っている男を見つけると、歩みを少し遅くした。
男の年齢は百合や達也より年上だろうか。背はそれほど高くはないが体格がよく、肌の色も浅黒い。社交性がありそうで、達也とまったく違うタイプのように見えた。
一言で表せば、達也が草食系、目の前の男は肉食系と言ったところだろうか。その割には身のこなしがスマートで、子どもから老人まで好かれそうな笑みを口元に湛えている。
「――中津川さん」
百合が男に声を掛けると、中津川と呼ばれた男は百合に笑みを向けた。
「桜井さん、こんにちは。ピアノのお仕事、お疲れ様です」
「ありがとうございます」
中津川は笑顔だが、百合は普段と変わらない無表情だった。中津川は百合の無表情になれているのか、気にしている様子ではなかった。
「じゃあ、いきましょうか」
「はい」
百合と中津川は並んで東京のビル街を歩き始めた。




