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王妃という名の社畜2.0、お断りします 〜婚約破棄をガッツポーズで歓迎したら、氷の大公に引き抜かれた件〜  作者: 冬野 結
大公妃という名の幸福

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大公妃という名の幸福、お受けいたします

秋の入り口の朝、執務室の窓に、銀杏(いちょう)の葉が一枚だけ貼りついていた。


「ロージー」


ルーカスが机の角を回り込んできて、椅子に腰かけたままのロザリンドの背中に、上着を一枚かけた。


「ルーカス様、室温は規定どおりですわ」


「七ヶ月目だ。君の体感温度は、規定とは別の数字で動いている」


ロザリンドの腹は、もう、隠せないくらいに丸くなっていた。


執務机の上には、財務評議会の議題と、子の名前の候補リストが、同じ位置に並んで置かれている。


どちらも、まだ、決まっていない。


***


「ルーカス様」


「ルーカスでいい。もう、様も要らない」


「……ルーカス。本日の議題ですが」


「俺が出る」


「私の所掌ですわ」


「議長代行は当面俺が引き受ける。二月前に、そう取り決めたはずだが」


「あれは肩代わりであって、剥奪ではないと記憶しておりますが」


ルーカスは、ふ、と息をついて、机に身を寄せた。


「戻したい時に戻せ。それまでは、俺が温めておく」


──三年前から、変わらない言い方だ。


「……それ、業務時間中の口説き文句ですの」


「業務時間外も、同じことを言うが」


ロザリンドは、頬の奥がほんのり熱くなるのを感じて、慌てて書類のほうへ顔を戻した。


──いまだに、慣れない。


慣れる気もない、ということに、最近、気がついた。


***


その夜、子が、蹴った。


寝椅子に座っていたロザリンドの腹の中で、小さな、けれど確かに、内側からの一打。


「あ」


ロザリンドは、思わず、自分の腹を見下ろした。


「……どうした」


隣で書類を片付けていたルーカスが、顔を上げた。


「いま、たぶん」


「うん」


「蹴った、と思いますわ」


低い、けれど一瞬だけ表情の止まった顔で、ルーカスはこちらを見た。


それから、両手を膝に置いたまま、しばらく動かなかった。


──触れていいのか、決めかねている。


ロザリンドは、自分でも少し笑って、彼の手を取り、自分の腹の上にそっと置いた。


「触ってよろしくてよ。半分は、あなたの子ですから」


しばらく、二人は黙って待った。


もう一度、内側から、とん、と返事があった。


ルーカスの手のひらの下で、確かに、いた。


その時、ロザリンドはようやく、ルーカスの目元が、ほんの少しだけ、緩むのを見た。


公の場では絶対に見せない、その顔だった。


「ロージー」


「はい」


「ありがとう」


低く、それだけだった。


ロザリンドは、何か返そうとして、結局、何も返さなかった。


ただ、自分のほうから、彼の肩に、額を一度だけ預けた。


***


ルーカスが浴室へ立ち、ロザリンドはまた一人になった。


机の上に、彼が置いていった黒革の手帳がある。


ぱらり、と頁を捲った。


臨月前後の半年は、業務空白。財務評議会、外交、関税の節目──全部、ルーカスの字で組み直されている。彼女の予定が先で、彼の予定が、それに合わせて動いていた。


最後の頁の隅に、走り書き。


「戻ってきた時のため、君の机は、君のままで残しておく」


ロザリンドは、その一行を指でゆっくりとなぞった。


──取り上げられない。それが、こんなに静かなことだとは、知らなかった。


椅子の背に、頭をあずける。


白い、高い天井。


──律子。


田中律子の名前を、心の中で、もう一度呼んだ。


二月前、月光の窓辺で言ったことの、その先を。


──ねえ、律子。

──あなたの時、誰も触らせてもらえなかった、あなたのお腹。

──いまね、ここに、もう一人いるの。


──今(・)度(・)は(・)、(・)ち(・)ゃ(・)ん(・)と(・)、(・)抱(・)き(・)し(・)め(・)て(・)あ(・)げ(・)る(・)。


腹に当てた手のひらの内側で、もう一度、とん、と返事があった。


それで十分だった。


***


執務机(しつむづくえ)の奥、書棚の隅に、教会から託された神殿石(しんでんせき)が、布をかけられたまま眠っている。


あれきり、ロザリンドは一度も触れていない。


触れれば、また指先から力が抜けるのだろう。けれど、もう、その必要はなかった。


律子へ伝えたいことは、きっと、もう──あの子がいつか、どこかで見た優しい夢のなかで、伝わっている。


もう、石はいらない。


***


「王(・)妃(・)と(・)い(・)う(・)名(・)の(・)社(・)畜(・)2(・).(・)0(・)、(・)お(・)断(・)り(・)し(・)ま(・)す(・)」


三年前、祖国の謁見の間で、ガッツポーズで歓迎した、あの婚約破棄。


あの日のロザリンドに、もし、伝えられるなら。


ロザリンドは、机の上の名前候補リストを引き寄せて、もう一行、ペンで書き足した。


そして、その下に、誰にも見せるつもりのない、自分だけの覚書として、こう書いた。


> 大公妃という名の幸福、お受けいたします


書いてから、頬の奥がやはり熱くなって、慌てて紙を二つに折った。


廊下に、いつもよりほんの少し速い足音が、近づいてくる気配がする。


組み直された予定表を、二人で見るのだろう。

名前候補リストの新しい一行を、二人でまた笑うのだろう。


明かりを落とした執務室の窓の外で、街の最後の店先の白い花輪が、夜風に、また一度、揺れていた。


明日もきっと、街の誰かが、彼女の名前を、先に呼ぶ。


最後まで連日、ロザリンドの門出に付き合ってくださって、本当にありがとうございました。通勤の電車で、休憩の片隅で、眠る前の数分で、彼女の名前を一緒に呼んでくださった、その全部が、この物語を最後まで運んでくれました。


最後にどうか、【泣ける】【にこにこ】【いいね】など——動いた感情のぶんだけ、全部にリアクションを。そして★をひとつ、完結したこの物語を明るいほうへ送り出す拍手がわりにいただけたら、これ以上の幸福はありません。


それでは——「大公妃という名の幸福、お受けいたします」。

長らくのお付き合い、心より御礼申し上げます。


冬野 結


P.S. 番外編を特別に2話、こっそり置いておきました。世界中の社畜のみなさまの救済を祈って書いた、ささやかなおまけです。お時間のあるときに、どうぞ。

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