第1話:鉄と油、あるいは停滞した時間
その男にとって、痛みは信号に過ぎなかった。
04:30。
第17区画を覆う青い魔導結界が、薄氷の割れる音を立てて霧散した。
「結界維持率、0.8パーセント。消失しました」
補助技師、エマの平坦な声が、夜明け前の凍てついた空気を震わせた。
結界が消えた瞬間、防壁の向こう側に溜まっていた「汚染マナ」が、猛毒の霧となって市街地へ雪崩れ込んだ。
逃げ場のない死の粒子だ。防壁のすぐ外側にある立ち枯れた樹木が、触れた端からガラス細工のような結晶へと変わり、自重に耐えかねて音もなく砕け散っていく。
このまま霧が市街へ浸透すれば、あと5分でこの区画に住む1200人の市民は、肺を内側から結晶化させられ、物言わぬ石像へと変わる。救いはない。逃げる時間は、最初から残されていなかった。
「状況を報告しろ」
ルードヴィヒは、半壊した巨像『アギト・セブンス』の足元に立っていた。
全高6メートル。かつての戦争で数多の戦線を蹂躙し、今は街を守る唯一の「盾」として境界線に鎮座する魔導兵。だが、今のそれはただの冷たい鉄塊だった。
「コアの振動が停止。完全な沈黙です。修復プログラムを3度試行しましたが、機体が受理を拒絶しました。システム上は、寿命と判断されます」
エマは端末を操作しながら、淡々と死を宣告する。
「5分か。……十分だな」
ルードヴィヒは、分厚い革の手袋を、右手の指先から一本ずつ、噛み切るようにして引き抜いた。
露出した彼の左腕には、肘から先を覆う無数の「針跡」が刻まれている。それは血管の走行に沿って、不気味な赤黒い瘢痕となり、皮膚の下で鈍い魔力の光を宿していた。
「同期を開始する。エマ、外部圧力を抑えろ」
「了解。……死なない程度に、どうぞ」
ルードヴィヒは、アギトから垂れ下がる剥き出しの銀線を掴み、その鋭利な端子を、自らの左手の甲へ迷いなく突き刺した。
ブツリ、と肉が裂ける音が静寂に響く。
「――ッ、…………」
叫びは漏れなかった。代わりに、肺にある全ての空気を吐き出し、彼は奥歯を噛み締めた。
脳を焼くような、数千ボルトの魔力が駆け抜ける衝撃。
視界が白濁し、自身の存在が「個」から「回路」へと強制的に拡張される。
普通の技師が計器を見て絶望する時間を、彼は自らの痛覚を「計器」にすることでショートカットした。
(左足側にノイズ。胸部コアに逆流……。ここか)
脳内に、暗黒の迷宮のようなアギトの神経図が浮かび上がる。
そこにあるのは論理的なエラーではない。「痛み」だ。
アギトの巨体が、長年の酷使によって内側から悲鳴を上げている。その悲鳴は、ルードヴィヒの神経を通じて、彼自身の肉体を苛む。
背骨を一本ずつ砕かれるような鈍痛。
眼球を裏側から針で突かれるような鋭痛。
だが、ルードヴィヒの指先は震えない。
彼は右手に持った銀針を、アギトの装甲の隙間、肉眼では捉えられないほど微細な「接点」へと叩き込んだ。
バチッ、と青白い火花が散り、ルードヴィヒの視界に鮮血が混じる。
鼻から一筋の液体が滴り落ちた。
それでも、彼は止まらない。自身の神経を通じて、アギトの狂った律動を、一つずつ「正解」へとねじ伏せていく。
「黙れ。……調和げ」
04:34。
突如として、街を飲み込もうとしていた霧が、目に見えるほどの速さで霧散した。
アギトの瞳に、深い、深淵のような青い灯が宿る。
消失していた結界が、以前よりも強固な輝きを伴って再展開された。
「復旧完了。結界維持率、99.8パーセント。安定しました」
エマの声と共に、ルードヴィヒは血に濡れた銀線を引き抜いた。
プシュ、と微かな蒸気が上がり、傷口が熱を帯びる。
彼は肩で息をつきながら、自身の左手を見つめた。感覚がない。だが、街は救われた。
夜明けと共に目を覚ます市民たちは、自分たちが今この瞬間、死の淵にいたことさえ気づかないだろう。
「主任、お疲れ様です。今回も正解でしたね」
エマが歩み寄り、清潔なハンカチを差し出した。
ルードヴィヒはそれを受け取り、無言で機体を見上げた。
修復は完璧なはずだった。
だが、再起動したアギト・セブンスは、警備ルートを監視するのではなく――何もない、遥か上空の一点を、ただじっと凝視していた。
「エマ、こいつは何を見ている?」
「さあ。バグじゃないですか? 記録には何も残っていませんよ」
エマは微かに微笑み、アギトの装甲にそっと触れた。
その瞬間、彼女の指が触れた場所が、ルードヴィヒが流した血を吸い込むように赤く明滅した。それを、ルードヴィヒは見ていなかった。
ただ、得体の知れない寒気が、彼の背筋を走り抜けた。
次の瞬間、アギトの視界から「残響」が逆流した。
意識が沈む刹那、彼の網膜に3つのノイズが走る。
1. 赤く焼けた空と、砂に埋もれた『アギト』の巨大な残骸。
2. 泣きそうな顔で、血塗れのルードヴィヒに剣を向けるエマの姿。
3. 「……して、パパ」――ノイズ混じりの、ひどく大人びた彼女の声。
『お疲れ様。世界を殺してくれて、ありがとう』
心臓を直接掴まれたような衝撃と共に、ルードヴィヒの意識は暗転した。




