第2話:残響の正体
意識の底は、ひどく澱んだ油の海だった。
ルードヴィヒはその海を、たった一人で泳いでいた。
手足は重く、銀の鎖が幾重にも巻き付いている。鎖の先は、闇の向こうに鎮座する巨像――アギト・セブンスへと繋がっていた。
同期は解除したはずだった。だというのに、アギトの重厚な、岩を削るような鼓動が、ルードヴィヒの鼓膜を内側から叩き続けている。
ドクン、と。
それは機械の駆動音ではなく、生き物の心音に似ていた。
「……主任。ルードヴィヒ主任、聞こえますか」
遠くから、温度を欠いた声が届く。
まぶたを開けると、視界は真っ白な光に塗り潰されていた。
鼻を突くのは、高濃度の魔導消毒液の、鼻腔を刺すような鋭い匂い。第17区画・中央医療センターの特別病棟。
ルードヴィヒは呻き声を上げ、身を起こそうとした。だが、左腕が鉄の棒でも埋め込まれたかのように動かない。
「無茶をしないでください。あなたの左腕の神経は、今朝の調律で文字通り『沸騰』しました。通常なら即死、運が良くても一生ぶら下がっているだけの肉塊になっているはずの状態です」
傍らに立っていたのは、エマだった。
彼女はいつもの平坦な表情で、ルードヴィヒのバイタルが表示された魔導端末を眺めている。
「……なぜ、生きている」
「それが聞きたいのはこちらの方です、主任。担当医は『医学的に説明不能』だと匙を投げました。ただ、あなたの心臓だけは、アギトの定常振動と完全に一致したリズムで動いていた。まるであの巨像が、あなたの命を肩代わりしているかのように」
ルードヴィヒは、感覚を失ったはずの左腕に意識を向けた。
動かない。だが、痛い。
皮膚の裏側を細い針で絶え間なく引っ掻かれているような、鈍く不快な残痛。
同期が完全には切れていない。アギトという巨大な異物の残響が、いまだに彼の神経系に寄生している。
「エマ。アギトの状況は」
「表向きは『完璧』です。第17区画の結界維持率は99.8パーセント。汚染マナの侵入は完全に阻止され、住民たちは平和な朝食を終え、今は仕事に出かけています。……ただ、これを見てください」
エマが提示したログ画面には、異常な波形が並んでいた。
修復後のアギト・セブンスは、本来の警備プログラムを無視し、全センサーを「空の特定座標」に向けて固定している。
「存在しない座標への索敵反応、および未登録の魔力波形。これ、機械のノイズじゃありません。波形の周期が、極めて人間の『情動』に近いんです。……まるで、誰かを探しているかのような」
「公式記録には、どう残っている」
「『異常なし』。中央サーバーにアップロードされる直前に、何者かがログを書き換えています。現場の端末にはこうして残っていますが、政府のデータベース上、今朝のアギトは至って健康ということになっています」
隠蔽。それも、極めて上位の権限によるものだ。
ルードヴィヒがその意図を反芻する暇もなく、病室の重い扉が静かに開いた。
「……不健康な朝だね、ルードヴィヒ主任」
現れたのは、軍服を完璧に着崩した青年だった。
中央政府監査局、アイザック。
彼の背後には、重圧感を放つ二人の武装憲兵が控えている。
アイザックはルードヴィヒのベッドの足元に立つと、憐れみと嘲笑が混じったような視線を投げかけた。
「君の『調律』という曲芸が、ついに中央の想定するリスク許容値を超えた。本来なら廃棄されるべきだった旧世代のアギトを、自らの命を削ってまで延命させる。その執念は感服するが、組織としては看過できない『非効率』だ」
「街を救うことが、非効率だと言うのか、監査官」
「結果論だ。君一人の異常な技術に、区画1200人の命を依存させている現状こそが脆弱性の塊なんだよ。中央は、君に二つの選択肢を用意した」
アイザックは指を二本立てた。
「一つ。君は調律技師としての権利を返上し、中央の特別研究施設へ入る。君のその『痛覚同期』のメカニズムを解明し、システム化するためのサンプルとしてね。もちろん、その左腕が治る保証はないが」
ルードヴィヒは無言で彼を睨んだ。
「二つ。アギト・セブンスを今すぐ完全廃棄する。代わりに、中央から最新の防衛システム……人手を介さない全自動結界機を導入する。街の安全は保証されるが、君の居場所はなくなる」
「最新のシステムだと? 汚染マナの変動に、機械だけの演算で対応できるはずがない。アギトがいなくなれば、この街は一ヶ月持たずに石の都になる」
「それは君の思い上がりだ、ルードヴィヒ。君が固執しているのは街の平和じゃない。自分の技術が否定される恐怖だろう?」
アイザックの言葉に、傍らのエマが微かに身じろぎした。
彼女の指先が、シーツの端を強く掴んでいる。ルードヴィヒはその瞬間、彼女の魔力反応が不自然に揺れるのを感知した。
それは恐怖でも怒りでもない。
もっと根源的な、何かに共鳴するような「未来の残響」。
エマ自身も気づいていないのか、彼女は困惑したように自らの胸に手を当てている。
その時だった。
遠く、防壁の方角から、空気を引き裂くような地響きが届いた。
「なっ、なんだ……!?」
アイザックが窓に駆け寄る。
ルードヴィヒの脳内に、耐え難いほどの「絶叫」が流れ込んできた。
――アギト・セブンスだ。
結界は維持されている。だが、アギトの内部で未知の、膨大すぎる演算が暴走を始めていた。
ルードヴィヒは点滴のチューブを引きちぎり、ベッドから這い出した。
「止せ! 今の君が同期すれば、本当に神経が焼き切れるぞ!」
アイザックの制止を無視し、ルードヴィヒはエマが持っていた予備の接続端末を奪い取った。
「……エマ、サポートしろ。フル同期は無理だ。『部分同期』で深層意識だけを覗く」
「了解しました、主任。……止めませんが、私も連れて行ってくださいね」
エマがルードヴィヒの背中に手を添える。彼女の手のひらは、驚くほど冷たく、そして不思議なほど安定していた。
接続。
視界が再び暗転する。だが、今回の同期は今までと違っていた。
痛覚ではない。もっと生々しい、「感情」の奔流がルードヴィヒを襲った。
悲しみ、期待、そして、狂おしいほどの情愛。
アギトの鉄の身体を借りて、何かが彼に語りかけてくる。
(観測。……未完了。……パパ、まだ、足りない)
思考の海に浮かび上がるのは、アギトの真の設計思想だった。
こいつは防衛兵器などではない。
過去から未来へ向かって、最も効率よく「世界が滅びるための条件」を逆算し続けている、超高度な観測演算体だ。
そして、そのアルゴリズムの深淵に刻まれていた魔力パターン。
それは、今背中に手を置いているエマの波形と、完璧に一致していた。
(エマが……アギトを設計した? 未来で、過去の遺物を?)
意味が分からない。因果が逆転している。
混乱するルードヴィヒの前に、アギトが初めて明確な「意思」を提示した。
言語ではない。それは、ルードヴィヒの脳を強制的に使った、二つの未来のシミュレート。
一つ目の未来。
アギトを停止させる。結界は消え、街は中央政府の管理下に置かれる。
数十年は平穏が続くが、汚染マナの真の正体に気づかぬまま、人類は静かに、だが確実に全滅する。
二つ目の未来。
アギトを稼働させ続ける。世界は延命され、人類は生存の道を模索し続ける。
だが、その果てには、蓄積された「正解の歪み」を清算するために、誰かが世界そのものを殺さなければならない。
(その役目を、俺に選べと言うのか)
同期が解除される直前。
ノイズだらけの視界の端に、あの未来のエマが映った。
『ねえ、パパ。まだ、引き返せると思ってる?』
残酷な微笑み。それは、ルードヴィヒが知る健気な補助技師とは、決定的に何かが違う「完成された存在」の顔だった。
「――主任! 戻ってください!」
エマの声で、ルードヴィヒは現実へと引き戻された。
病室には静寂が戻り、アイザックが驚愕の表情でこちらを見ている。
「……ルードヴィヒ、何を見た。アギトの暴走が止まったぞ」
ルードヴィヒは荒い呼吸を整え、感覚の戻らぬ左手を強く握りしめた。
「異常は……なかった。一時的な電圧の変動だ」
「嘘をつけ。君の今の顔は、地獄を見てきた男の顔だ」
「地獄なら、もう見慣れている」
ルードヴィヒは、ベッドの横に立ち尽くすエマを見た。
彼女は心配そうに彼を見つめている。その瞳には、先ほどの未来の映像のような冷たさは微塵もない。
だが、ルードヴィヒは決めていた。
正解を選んではいけない。正解の先にあるのは、エマが世界を殺す未来だ。
ならば、自分は最悪を選び続け、泥沼を這いずりながら、この因果の鎖を叩き切るしかない。
「エマ、工房に戻る。明日の調律の準備だ」
「はい、主任。……どこまでも、お供します」
エマが微笑む。
その影が、朝日を浴びて長く伸び、一瞬だけアギトのような異形の形に歪んだのを、ルードヴィヒは見逃さなかった。




