第九話
ワカは一週間ぶりに、朝からパンを平らげたらしい。
俺と約束した翌日の昼から自ら食うようになったとか。
夜は、一日の出来事を話しながらの食事になるから、いつもの倍時間がかかると、鳥居さんが嬉しそうにこぼしていた。
ワカはあれから毎日自慢気に体重の報告をしてくる。
「34キロが35キロになった」
それが軽いのかなんなのか全く分からない数字である。
善美に、35キロって女子にしちゃ重いのか?と聞くと、無表情で殺害予告をされた。
青白いだけの頬に血が通ってきたのか、徐々にふっくらとしてきた。鳥居さんの計いで、首に断熱材の入ったスカーフを巻き、つばの広い麦わら帽子をかぶって準備も万全だ。
日に当たると赤く湿疹するらしいワカは、上質な日焼け止めを丹念に塗らなくてはいけなくて、面倒臭そうな顔をする。
3時間毎に、顔から全身に塗るクリームはラベンダーの香りがした。常に彼女から香るその花の匂いで、俺はラベンダーを見るたびワカを思い出す羽目になった。
最初はうるさく水分を取るよう言っていたが、習慣付いたのか自分でも気をつけるようになり、ワカは休憩を取れば一日中外にいても大丈夫になった。
「おし、今日ちょっとだけひまわり畑行ってみるか」
言い渡された裏庭の仕事は、もうほとんど終わっている。今は親父たちを手伝って、廃材を拾ったり、屋敷の雑草を抜いたり、本来ワカがやらなくて良いことまで俺について回った。
親父たちも最後の仕上げに入っているようだ。この仕上げにうるさい親父は、後半のほとんどを使うので、折り返し地点と言ったところか。
ワカの両親の帰国予定日もあと一週間を切った。
途方もなく続くと思っていた夏も、いつかは終わる。
健康的になって、より瞳の輝きを増すワカの笑顔を見て、思った。
ひまわり畑は、車で15分くらいだ。鳥居さんにこと細やかな注意を受け、お弁当を片手に出発した。
「お出かけするの夏休み初めて!」
小汚ない軽トラに似合わない、真っ青なワンピースが揺れる。
「ゼンが運転できるなんて」
「たりめーだ。小学生と一緒にすんなよ」
「宿題分かんなかったくせに」
ふふん、と鼻で笑う隣りの生き物の頭を片手で捕まえた。
「い、痛い痛い」
「降ろすぞコノヤロー」
「うー」
怒りんぼ、と小さい抗議が聞こえた。
「ねぇねぇ、植物園はいつ行くの?」
「ひまわり畑行くからいいだろ」
「ええっ!やだぁ連れてってよ」
「家族と行け」
車を自由に使える時間も限られている。親父の了承を得るのも結構大変だったのだ。
「やだよ!ゼンと行く」
「だってもう日にちないぞ」
明日から盆休みに入るため、公営の植物園は休館になる。
再開するのは、仕事終了日だ。さすがにその日に出かけるのは無理だろう。
「夏休み終わってからでもいいから」
「え?」
駐車場に止めてから、シートベルトを外す。大きく息をついて、自分が少なからず緊張していたのだと知った。
「…絶対行くもん」
そんなに気に入ったのか。あんまり期待するものでもないのに、とこじんまりとした植物園を思い出し、頭をかいた。
ワカはシートベルトを握って俯いている。
「おい、着いたぞ。シートベルト取り方分かんない?」
そういえば助手席にも乗ったことないと興奮していた。身を乗り出して、外そうとした俺の腕に冷たいものが落ちてきた。
「え?ワカ?」
涙だった。ポロポロと止まることなく雫を落としていく。俺は慌てた。
「酔ったか?一旦降りよう、な?」
顔を覗きこむと、濡れた瞳が不安気に大きく揺れていた。
薄く赤みを帯びたその瞳に、魂を吸い取られたようアホ面をした俺が映っていて、ごくりと唾を飲んだ。
「――!」
すると、運転席から片手で身を支えて乗り出す俺に、ワカが首に抱き付いてきた。
耳にワカの頬が当たる。
ふんわりと、ラベンダーの香りが鼻をついて俺は息を呑んだ。
「絶対行くのっ!!」
シンバルが耳元で破裂したような、酷い耳鳴りがした。こいつ、このクソ餓鬼は、鼓膜に叫びやがった。
無理矢理離して、両耳を押さえた。
「うるせぇー…」
痛烈な叫び声が、うわんうわんとこだまになって聞こえる。涙目になった俺は、なんとか冷静になろうとした。
すると、こういうときだけ目敏いワカが明らかに殺意を持って叫び出したのだ。
「やだ!!やーだー!連れてってーーーー!!」
「うるせぇなっ!分かった!分かったから止めてくれ」
この細い体のどこから出てくるの分からない絶叫に、俺が悲鳴を上げた。
―負けた。
「約束?」
涙の跡を残し、悪魔の化身が聞いてくる。
「分かった。連れてく」
うなだれて、そう返すとワカは一気に頬を染めて笑顔になる。
「ゼン、大好き」
甘ったるい声で毒を吐く悪魔に、わざとため息をついて、涙の跡を拭ってやる。
ワカの火照った熱が移ったのか、離したあとも指がしばらく熱かった。
車を降りて、肌を焼くような強い日差しに目を細めた。
ワカがきちんと帽子をかぶっているか、体調など確認して、すっかり過保護になった自分に苦笑する。
一人でできる、と言うワカを信用していない訳ではないが、どうしても目で追って世話を焼いてしまう。悲しいかな、俺の奥底にでもある母性が反応するのだろうか。
太陽の恵を受けて、真直ぐに育つひまわりは、ワカの背丈を覆うほど伸びていた。それを見たワカは予想を裏切らず、口を半開きにして立ち尽くし、間にある道に入ってみろと勧めると、花の中から歓声が上がった。
「きゃー!ゼンー!」
飛び跳ねると、黄色の花から麦わら帽子がぴょこぴょこ見える。
「すごいかー」
俺の仕業でもないのに得意気に問うと、
「すごいー!」
間髪を入れずに喜ぶ声が返ってくる。
まだまだひまわりに囲まれていたかったようだが、熱中症を恐れて木陰に引っ張った。
「まだいたいよ」
「1回5分だ。そしたら30分木陰に入れ」
「えぇっ!ケチ」
「ケチで結構。弁当はやらん」
「ゼン様ぁーーー」
嘆いて腰に抱き付いてくる。子どもの体温は高いのか、引っ付かれると妙に暑い。
振りほどいて、レジャーシートに座らせた。
鳥居さんが持たせてくれた弁当は、サンドイッチだった。ワカの好きな香草にチキンが挟まったものや、デザート用のイチゴと生クリームみたいなもの、色んな種類があった。
異常な数の保冷剤に囲まれ、かなり冷たいサンドイッチになっていたが、湿気が高い今はちょうど良かった。
「外で食べるとおいしいね」
「うん、美味いな」
俺だと二口で無くなるサンドイッチを、ワカはチビチビと時間をかけて食べていく。それでもここまで食欲が戻って良かったと眺めた。
「ちゃんと噛め。ゆっくり食べろよ」
「ほんなのはわってまふー」
「汚ぇな」
ハムスターみたいに頬を膨らます様子に笑いがこぼれる。
木陰にいると、土も冷えているからか少し汗が引いていく。
少し食休みを取ろうと言うことになり、横になった。
「腹出すなよ」
「出しません!」
くだらない言い合いをすると、ワカがじっと見てきた。
「な、なに」
「こうすると近いね」
言われて気付いた。
俺とワカの距離は拳二つ分くらい。睫毛の一本一本まで見える距離に顔がある。俺の心臓が跳ねた。
「ゼン、いつも大きいから…遠くて」
白い頬が動く。
「今日はすごく楽しい。ありがと…」
少し掠れた声で呟いて、そのままふるふると瞼が閉じていく。
「眠いのか」
「ん…」
「少し寝ていいよ」
頷くように紅い唇が少し笑い、頭を俺の胸の辺りまで下げて寄せてきた。
「ゼン、すき」
寝言なのか。
その言葉はいつまでも俺の体で響き続けた。
スゥスゥと心地よい寝息を立てるお姫様を横にした俺に、睡魔は一行に襲ってこなかった。