第3話:託された二つの名前と、目覚めの朝
夕闇が、伏見の山裾を静かに呑み込もうとしていた。
千本鳥居の朱色は、夕陽の残照と夜の帳がせめぎ合う「逢魔が時」の深い紫紺に溶け、昼間の観光客の喧騒は嘘のように引いている。
鳥居の隙間を吹き抜ける風が、俺の頬を冷たく撫でた。
「……ここまで、だな」
俺は足を止め、振り返った。
手元の腕時計はとっくにホテルの集合時刻を指していたが、不思議と焦りはなかった。頭の中を支配していた完璧主義のスケジュール表はすっかり消え去り、胸の奥には、温かい満腹感と、それ以上に深い喪失感が広がっていた。
「楽しかったわよ、怜」
ユナがモデルのようにすらりとした長い脚を止め、静かに振り返る。
「ええ、本当に! あんなに美味しそうに団子食べる高校生、何百年ぶり……じゃなくて、久しぶりに見たもん!」
アユミもいつもの無邪気な笑顔を浮かべている。だが、その瞳の奥に宿る光は、先ほどまでの「ちょっとお節介な地元民」のそれではなかった。
二人の足元に、淡い狐火のような黄金の燐光が立ち上る。
風が吹き抜けるたび、彼女たちの纏うサピエンスの装いが微かに揺らぎ、神々しい神気の輪郭が薄闇に浮かび上がっていた。
「……やっぱり、普通のサピエンスじゃないんだな」
自嘲気味に息を吐いた。
「俺の思考速度に完璧についてきて、屁理屈を軽々と論破した。……絵馬の願意、本当に神様が読んだってことか」
「ふふ、バレてたかー!」
アユミがテヘッと舌を出す。
「神をナンセンスって言い切った割に、すっごく素直で可愛い男の子だったよ、怜くんは」
「私たちの役目はここまでよ」
ユナが一歩、俺の前へと進み出た。
洗練されたクールなお姉さんの表情が、厳かで慈愛に満ちた神の貌へと変わっていく。
「あんたの『彼女がほしい』なんて不届きな願い、本来なら門前払いよ。でもね……宇迦之御魂神さまがあんたを選んだのには、理由があるわ」
「理由……?」
「そう遠くない未来、あんたは大きな理不尽に呑まれる」
ユナの黄金の双眸が、遠い未来の座標を射抜くように細められた。
「完璧であろうとするあんたの論理も知性も、サピエンス社会の巨大な不条理の前には打ち砕かれる。どん底に落ち、すべてを奪われ、派遣切りに遭って床に這いつくばる日が来るわ」
底辺への転落。
高校生の俺には到底信じられない、だが心臓を直接握り潰されるような重苦しい予言だった。
「でも、絶望することはないよ」
アユミがふわりと歩み寄り、俺の目の前で満開の向日葵のように笑った。
「その時、あんたの前に現れるわ。私たちの御霊を宿した、二人の女性がね」
「……二人の、女性?」
「ええ。よく覚えておきなさい」
ユナが静かに、だが俺の魂そのものに刻み込むように言葉を紡ぐ。
「一人は、『穂波 歩実』」
「そしてもう一人は、『七瀬 由奈』よ」
二つの名前が夜の神域に落ちた瞬間、千本鳥居の朱色が微かに鳴動した。
「そのサピエンスたちがあんたの人生を根底から変え、国家すら揺るがす運命の扉を開く」
「だからね、怜くん」
アユミが優しく微笑み、俺の胸元にそっと指先を当てた。
「その時が来たら、あなたが……命懸けでそのふたりを守ってあげるのよ」
「待ってくれ……! 俺が、守る……? そんなの、どうやって――」
問い返そうとした俺の額に、ユナの細い指先が触れた。
瞬間、パチリと弾けるような甘い火花が散り、視界が一面の純白に染まり上がる。
二人の麗しい微笑みと、包み込むような温もりが、急速に遠ざかっていく。
『約束よ、怜』
『じゃあね、国宝級イケメンの生意気な男の子――!』
◇
「おい、怜! 起きろって! もう朝飯の時間だぞ!」
乱暴に肩を揺さぶられ、俺はガバッと跳ね起きた。
白いシーツ、漂う畳と浴衣の匂い、カーテンの隙間から差し込む朝日。
目の前には、寝癖をつけたまま歯ブラシをくわえている男子同級生の姿があった。
「……え?」
「『え?』じゃねーよ、夕べ点呼ギリギリで戻ってきたと思ったら、泥のように爆睡しやがって。自由行動でどこ行ってたんだよ」
同級生が呆れ顔で洗面所へ向かっていく。
俺は呆然と自分の掌を見つめた。
心臓がまだ、あの夕暮れの逢瀬の余熱を残して激しく脈打っている。
「夢……? いや、そんなはずは……」
ブレザーのポケットに手を入れると、指先に硬い感触が触れた。
引き出すと、そこにあったのは――白木で作られた、小さな伏見稲荷の白狐のお守り。
買った覚えなど、一切ないはずのものだった。
部屋のドアが開き、廊下から同じ班の女子生徒たちの明るい声が聞こえてくる。
「あ、怜くんおはよー! 今日のグループ行動、どこ行くか決まった?」
普段なら「時間の浪費だ」と切り捨てていたはずの呼びかけ。
だが、今の脳裏を占領していたのは、そんな同年代の女サピエンスたちではなく――。
(……俺、完全に年上のお姉さん好きになっちまったな……)
あのみたらし団子を無理やり突っ込んできた、底抜けに明るくて無邪気なお姉さん。
冷徹な論理で自分を圧倒し、優雅にからかってきた、美しく知的なお姉さん。
太陽のように眩しく、完璧主義の俺の心を一瞬で融かしてしまった、規格外のふたり。
耳まで真っ赤になった俺は、片手で顔を覆って小さく呻いた。
こんな強烈な魅力を知ってしまった以上、もう並大抵の同世代に心が動くはずがなかった。
けれど――。
胸の奥底、魂の最も深い場所に、消えない焼き印のように刻まれたふたつの響きがあった。
『穂波 歩実』
『七瀬 由奈』
「……俺が、守るのか」
ポケットのお守りを強く握りしめ、朝日が照らす京都の空を見上げた。
数年後、自分が泥臭い社会のどん底で這いつくばることになるとも知らずに。
そして、その運命の交差点で、確かにあのふたりと再会することになるのだと――ただ静かに、その予言を胸に刻み込むのだった。
(完)




