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三百枚書けるようになるお得な「小説の書き方」コラム  作者: カイ.智水
構文篇〜正しい日本語を身につけるには
1429/1500

1429.構文篇:兵法を知らずに異世界が書けるか

 今回は「異世界ファンタジーと兵法」についてです。

 現存する最古の兵法書は古代中国の『孫子』とされています。

「異世界ファンタジー」は「中世ヨーロッパのような剣と魔法のファンタジー」ですから『孫子』は馴染まないと思うかもしれませんね。

 しかし古代ヨーロッパのユリウス・カエサル氏や、近世ヨーロッパのナポレオン・ボナパルト氏が出てくるまでヨーロッパの戦争は単に数の戦いだったのです。その証拠にモンゴル人が中華を治めた「元」が東ヨーロッパを占領しています。古代中国の兵法は実際に強かったのです。

 だから「異世界ファンタジー」でも古代中国の兵法は劇的な物語にするには不可欠といえます。

兵法を知らずに異世界が書けるか


 前回の「最後に」から引き続いて「兵法」の話です。

 私は兵法を研究して早三十五年ほど経ちます。

 手始めは中国古典・孫武氏『孫子(そんし)』です。次に作者不明『兵法三十六計(さんじゅうろっけい)』、呉起氏『呉子(ごし)』と続きます。

 古代中国の兵法を修めたければ「武経(ぶけい)七書(しちしょ)」を必ず読んでください。

『孫子』『呉子』に加えて『六韜(りくとう)』『三略(さんりゃく)』『司馬法(しばほう)』『尉繚子(うつりょうし)』『李衛公(りえいこう)問対(もんたい)』の七冊です。




現存最古にして最高の兵法書『孫子』

 現在まで伝わっている兵法書の中で、最も古いのは孫武氏『孫子』とされています。

 紀元前六世紀頃に斉に生まれた兵法の達人・孫武が、呉を訪れて仕官しようとしました。そのとき呉王闔閭(こうりょ)への手土産として持参したのが、彼の兵法の極意を記した十三篇の『孫子』だったとされています。

 孫武氏は呉王の愛妾ふたりを斬り殺して軍律の徹底を説いたのです。肝を冷やした闔閭から軍師の地位を授かり、将軍の伍子胥(ごししょ)の片腕として戦うところ連戦連勝。ついに呉を「春秋五覇」のひとつへと押し上げたのです。

 実は『孫子』は孫武氏ではなく後世の創作ではないか、という疑問が長い間提起されていました。孫武の活躍から一世紀ほどして、斉の国に孫ピンという用兵家が将軍・田忌を補佐して一大勢力を築いたからです。そこで『孫子』を書いたのは孫ピンではないか、という疑念がありました。

 しかしその疑念が晴れる日がやってきます。

 中国山東省の銀雀山漢墓に数多くの竹簡が遺されており、その中に従来の『孫子』十三篇の他に別の『孫子』が存在しているとわかったのです。これにより孫武氏が書いた『孫子』は『呉孫子』またの名を『孫子兵法』、孫ピン氏が書いた『孫子』は『斉孫子』またの名を『孫ピン兵法』と呼んで区別することとなりました。

 通常『孫子』と呼ばれるのは『呉孫子』だけです。しかし『孫ピン兵法』も一読しておくと応用がきくようになるので、入手はしづらいのですが必ず読んでおきましょう。




孫子から刺激を受けた魏の兵法書『呉子』

『呉子』も比較的歴史が古い。しかし『孫子』が戦略を重視していたのと異なり、将軍としての心構えや戦場での戦い方だけでなく政治についても説いています。

 おそらく呉が「春秋五覇」に躍り出た立役者が兵法書『孫子』を著していて参考になしたのを引き合いに、魏の史官が名将・呉起の言葉をまとめたものでしょう。実際にはその後、呉起は楚の国にスカウトされてそこでも才を発揮します。しかしあまりにも軍律や法律を厳格に適用しすぎたため、既得権者から疎まれて楚王が死んだのち呉起は「車裂きの刑」に処されました。さしもの天才用兵家も凄惨な最期を遂げたのです。




周王朝開闢(かいびゃく)の祖・太公望の兵法『六韜』

『六韜』は紀元前十一世紀に殷王朝の紂王を打倒して周王朝開闢に貢献した軍師「太公望」姜子牙またの名を呂尚の用兵をまとめた書とされています。

 太公望が周の文王・武王に術策や戦い方を教える形で書かれています。ですが戦国時代の戦法に触れている部分があるため、太公望の書ではなく彼が封じられた斉の国で戦国時代に作られた偽作とする説が有力です。

 兵法の起源をどこに置くかは判断が分かれます。黄帝が炎帝に勝利したのに由来して黄帝こそが兵法の祖とする一派と、圧倒的な劣勢にあった周が百万の殷軍を破ったことに由来して太公望こそが兵法の祖とする一派です。

 戦国時代では黄帝の兵法が伝わっておらず、太公望の兵法のみが『六韜』で遺されていたので、以降は太公望を兵法の祖と見る用兵家が多数を占めました。




漢建国の功臣・張良が太公望から授かった兵法『三略』

 漢の劉邦を軍事面で支えた謀臣・張良が若かりし頃、橋の上で出会った黄石公(太公望)から授かったとされていますが、もちろん後世の偽書です(とはいえ後漢以降ですが『三国志』が始まる頃には存在していました)。

『三略』は『六韜』とともに太公望と関係があり、太公望の兵法としてよく『六韜三略』とワンセットで語られます。

 大帝国・秦を滅ぼした楚などの義勇軍は、権力争いによって内紛状態を引き起こたのです。そして勇将・項羽率いる楚と、人たらしだが酒にだらしない劉邦率いる漢との一騎討ちとなります。これが楚漢戦争です。

 軍事の天才である項羽の軍勢は漢軍をこてんぱんに打ちのめします。しかし張良が漢軍の損害を最小限に食い止めながら楚軍を誘い込むように撤退していったのです。撤退しながらも後方支援役の蕭何(しょうか)による増援を取り込み、垓下(がいか)の地にてついに漢軍は楚軍を大包囲網の中に捕らえます。そして四つの方向から故郷の楚の歌が聞こえてきたことで、祖国が漢に取り込まれたと観念し項羽は自害するのです。これが「四面楚歌」の出典となりました。

『三略』に書かれた名言として「柔よく剛を制す」があります。




斉の軍務大臣・司馬(しば)穰苴(じょうしょ)の兵法『司馬法』

 春秋時代・斉の景公の宰相晏嬰(あんえい)の推薦により大司馬(軍事を司る大臣)となったことから氏を司馬と称した(でん)穰苴が記したとされる兵法書です。田氏はのちに将軍・田忌が孫ピンを軍師に迎えて魏軍を打ち破ったり、太公望以来続いた姜姓呂氏の斉(姜斉または呂斉)を滅ぼして田斉を打ち立てたりした軍事の実力者の家系です。

 しかし古来の司馬が用いた用兵の決まりごとを書いている部分が多く、理論に重きを置いた書物となります。本来の「司馬穰苴の兵法」の部分はおそらく散逸してしまったのでしょう。

 春秋時代の合戦の決まりごとが書かれているので、当時どのような戦闘が行われていたのかを知る手がかりにはなります。




魏の恵王に仕えた尉繚(うつりょう)の説を収めた『尉繚子』

 尉繚はふたりいたとされています。ひとりが戦国時代の梁(魏の別名)出身で恵王に仕えた人物です。『尉繚子』に出てくる人物が梁の恵王に進言する形をとっているため、こちらのほうが有力。恵王は梁(魏)の三代目で、二代目武侯は『呉子』の呉起が仕えた人物となるので、魏は二代にわたって兵法書を編纂していました。斉の孫ピンは将軍・田忌とともに魏の恵王のときに魏の大将軍・ホウ涓を倒しています。つまり『孫ピン兵法』に対抗する目的で編纂されたのが『尉繚子』になります。

 もうひとりは秦の始皇帝に仕えた尉繚です。こちらは司馬遷氏『史記』にも出てくるので一般に尉繚とは彼を指します。生きている時代が異なるため、ふたりいても不思議はないのですが、混乱しますよね。

『尉繚子』は法制や信賞必罰を説いているため、法家の流れを汲む書とされています。兵法の興りを黄帝に付託した書でもあるのです。




唐の名君・李世民の軍事学『李衛公問対』

 唐の李世民氏は内政の書『貞観政要』と軍事の書『李衛公問対』を遺しています。

 内政の書である『貞観政要』は「貞観の治」を成し遂げた、まさに名君になるためのバイブルです。現在の帝王学でも広く引用されています。

 軍事の書である『李衛公問対』は『孫子』の解説本です。太宗・李世民氏と部下たちとの兵法談義を記した謁見録を後世編纂したものと見られています。

 唐代ともなると中華国内で内紛はまず起きず、異民族の平定のみを考えていればよかったのです。しかも李世民氏は皇帝の地位に就くまでは軍才も輝かしかったのですが、基本的には異民族へ融和政策で臨み、皇帝となっても異民族の反乱は起きた気配がありません。

 つまり若かりし頃に勇名を馳せていたので、後年『孫子』をもとに兵法談義も華やいだろうと思われます。





最後に

 今回は「兵法を知らずに異世界が書けるか」について述べました。

「武経七書」は古代中国の著名な兵法書です。この七冊でほぼすべての用兵をカバーできます。

 入手が困難な書でもプレジデント社発刊の電子書籍なら入手できますので、手に入れて何度も繰り返し、わかるまで読み返してください。

「異世界ファンタジー」は「中世ヨーロッパのような」世界ですが、この頃のヨーロッパの兵法は現代まで語り継がれていません。ヨーロッパで兵法が注目を浴びたのは、古代はユリウス・カエサル氏まで遡り、近世はナポレオン・ボナパルト氏の用兵の研究に端を発します。とくにナポレオン・ボナパルト氏を研究したカール・フォン・クラウゼヴィッツ氏『戦争論』は、第一次世界大戦、第二次世界大戦における「総力戦」の前提とされ、壮絶な戦死者を出すに至った「曰く付き」の書として有名です。まぁ『戦争論』はクラウゼヴィッツ氏の死後、妻が亡夫のメモ書きを取りまとめて書物の形にしただけなので、クラウゼヴィッツ氏の思想がきちんと反映されているかは疑問が残ります。

 その点を考えても二千年近く実戦で磨かれてきた古代中国の兵法書は、用兵の原則を如実に示しているのです。




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