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第18話 歪み

もう深夜と言っても良い時間だったが、電車にはポツポツと人が乗り込んで来た。車内に話し声はなく、誰もがひとりのようだった。


人と人の間の、小さな隙間。その何気なく空けた隙間を、お互いが確かめ合うように微調整する。僕が昨日の夜、木禾さんの自殺を見つめていたことを、この電車にいる人間は誰も知らない。僕がつい1週間ほど前、飛び降り自殺を目にした事も。そして、あのクリスマスの日に首を切って死んだ咲瀬を最終的には見放したことも。


花道珊瑚にも、花道蒼海にも、茂木真にも、僕は何か凶器のような言葉を突きつけはしなかった。そんな風に消去者やLCの存在を知りながら、それらに意図的に干渉しないことも非難される事なのかもしれない。


もしその事を知っていたら、隣り合う彼らはもっと僕から距離を取るだろうか。そうだとしたら、彼らの行為はこの公共的な空間で、常識的な人間という仮面を被っているにすぎない軽い行為だろうか。それとも、もっと広い、長い、彼らの過ごしてきた人生に基づく重い行為だろうか。その距離が意味することを僕は読み取ることが出来るだろうか。


宮乃も同じように、全てを話してしまったら僕から距離を取るかもしれない。ついさっきまで僕らが交わしていた会話は短いものだった。けれど、とても大切な会話だった気がしていた。会話の内容が、ではなく、交わした感情が。とても心地良い会話だった。だから僕は逃げてしまう。心地良さから逃げてしまう。その場所を心地良いままにするには、変化しないか、その場から去るか。それがいつも僕に突きつけられる選択だった。


きっと心地良さを普段から感じている人たちは、その心地良さが崩れてしまってもそれ程何も感じず、また新しい心地良い場所を紡ぎ出すことが出来るのだろう。もしくはそれを失う苦しみや、悲しみに耐える力を持っているから、変化していくことが出来るのだろう。


僕は違う。普段は灰色の感情に征服されている僕にとって、心地良いとは神秘的で瞬間的なものだ。だからこそ、とても大切なものだ。なるべくなら僕はそれを記憶に焼き付けて、ざらざらとした灰色の記憶で擦られて上書きされる事なく、ガラス張りのショーケースに仕舞っておきたい。小さな隙間を微調整して。出来るだけ薄いガラスで。中身が変化しないように。


僕が僕をガラス張りの箱に閉じ込めたように。永遠に、過ぎ去った心地良い過去を。その一瞬を。


窓ガラスに映る僕が、僕を覗き込んだ。僕の頭の中に声が響く。

『だから、大人になれないんだ』

『お前はずっとそうやって、ひとりで生きてきたんだ』

『誰かと同じ場所にいても、誰かと何かを話していても。ずっとひとりで、独り言だ。永遠にひとりだ。お前はひとり』

『心地良い?交わした感情?独り言でどんな感情を交わすって言うんだ。馬鹿らしい』

『その感情を咲瀬美澄と共有できたか?咲瀬美澄はどうなった?もちろん出来ていない。だから咲瀬美澄は死んだ』

『その感情は幻想だ。お前の心が作り出した幻想だよ』

『つまりは、嘘だ。作り話だ』


動き始めた電車が、ガタガタと大きな音を響かせて不安定に揺れる。リズミカルに、声を上げる。変われ、変われ、と僕に告げる。それでも僕は揺られまいと、力を込めた。それは半ば無意識で、半ば意識的に。


そんな簡単に、変われないよ。こんな脆い僕が、外に出たら、すぐに擦り切れてしまう。消えてしまうよ。


電車は止まらない。


『僕の声を聞け。僕の。君の』


また不安定にガタガタと揺れる。僕の体は前後左右に揺さぶられる。ゴツンと鈍い音がして、ガラスに頭をぶつけた。もしかしたら、ガラスに少しヒビが入ったかもしれない。見えないくらい微小なヒビが。


だけれども僕にはできない。変われない。ひとりで、生きるしかない。ずっとひとりで、独り言で。幻想で、嘘で、作り話で。そうやって心地良さをショーケースに入れて、飾って。そういう風に、ひとりで生きてきた。そしてひとりで生きられる、そんな時代だ。そう、ひとりに甘えられる。


電車が速度を落とした。駅のホームが見えてきた。窓ガラスに映る僕は悲しそうな顔をしていた。


『ひとりで生きていたら、人間の優しさなんて分かるはずないじゃないか』

そんな声が聞こえた気がした。


電車の中にいる誰も僕を見てはいない、当然、何の関心もない。ただ座り込んで、スマホを触ったり、本を読んだり、音楽を聴いて目をつぶったり。適度な距離感を保って、傷つくこともなく、関わることもなく、争うこともない。ただ過ぎていく風のように、僕たちは生きていた。


電車はホームに到着し、僕は静かに電車を降りた。街ゆく人々は、3年前から何も変わっていないように思えた。


---

「明日は火曜日。その次は水曜。木曜、金曜。ようやく土曜日」


家に帰り着いた僕は、電車の窓ガラスに映った僕を忘れるかのように、掃除を始めた。ここ1週間ほど、まともに掃除が出来ていなかったから。


でも、すぐに本棚に目がいった。結局、大切なことから目を逸らし続けることはできなかった。僕が未だ捨てられずにいた本。咲瀬が持ってきた本。配色の本、インドカレーの本、ライブ機材の本、風俗嬢の会話テクニックの本。僕はそれらをあの日の夜に整理したまま、ずっとこの部屋に置いておいた。多分、それは、いつか戻りたかったんだと思う。あの日々に。ひとりよがりの心地良さを感じていた、咲瀬と共有することは出来なかった心地よさを感じていたあの日々に。


僕は傲慢だ。


これほどまでに僕は僕を否定しているのに、僕の傲慢さは何も変わりはしなかった。夜が来るたび、死を目にする度、僕は傲慢に嘘を繰り返した。


僕はどうして死ねないのだろうか。夜が来る度、そんな声が聞こえる。そんな声が溢れてきて頭の中を埋め尽くすと、僕は俯いて何もない床をじっと見つめる。


生きているという事はよく分からず、むしろ僕は死んでいて当然ではないかとすら思う。


頭の奥から、嘘が聞こえる。明日も明後日も、その次の日も、嘘、嘘、嘘。とても傲慢で、たったひとり自分に向かって嘘をつき続ける。


ただ静かな場所で死んでいきたい。この世界のどこで、僕は安らかに眠る事が出来るのだろうか。そう思っているのに、僕は死のうとはしない。ならきっと、僕はまた嘘をついている。本当は死に場所じゃなくて、生きる場所を探してるだけなんだろう。そんな事にさえ僕は嘘をつく。


硬くて、透明な嘘を。それが僕を閉じ込める。


僕は部屋の中からガラス越しに月を眺めた。隣に咲瀬がいたら、どんな話をしただろうか。映画の脚本の話か、僕らの退屈についての話か。はたまた、お気に入りのクッキーが最近リニューアルされたことについて僕らは話をしたかもしれない。


窓に映る僕が、僕に言う。

『僕を、君を疎かに扱うな。僕も、君も、誰かも、思い出も、心地よさも、受けた傷も、展示物じゃない』


僕は、ただ大切に生きたい。本当にそれだけなのに、それはとても難しい。


『いずれ分かる。僕は消えない。いつも君の中に居る。その閉じ込めた箱の中に』

『そこはもう、歪んでいる。不安定で、壊れ始めている』


僕は知っていた。僕の生き方が、僕の心に歪みを生み出し続けていた事を。それが社会の歪みと繋がっている事を。無関心で、誰とも関わろうとせず、落ちているゴミも拾わない。安易に諦め、妥協し、虚無感に浸る。死にゆく人間を黙って見ているだけの、そういう生き方。


LCも消去者も咲瀬の自殺も、その他大勢の人間の自殺も犯罪も、社会の歪みだ。社会の歪みは、社会に生きる人間たちの歪みから生じる。つまり、その一部は僕の生み出した歪みが小さなきっかけになっているのだろう。そういう責任は感じていた。


誰かに対する責任というよりも、人間の誇りを傷つけ続けている罪悪感。そして僕が苦しんでいるのは、人間の誇りを傷つけ続けている罰だった。


人間として醜い人間でありたくないと思いながらも、僕はとても醜い人間だった。自らの歪みを処理して、そして誰かの歪みを引き受けられるような、そんな人間に憧れるだけ。本当は人間としての誇りもない。


きっと僕がなりたい大人というのは、それが誰の生み出した歪みであったとしても、その歪みを引き受けられるようなそんな人間だったんだと思う。それはヒーローと呼ぶのかもしれない。それが、僕にとって大人になるということだったんだと思う。


そういう風に、ひとりで生きていない人に、多分僕はなりたかった。


あぁ、僕は本当に、ずっとひとりで生きてきたんだ。ずっと独り言を呟いていたんだ。独りよがりの感情に浸って、誰かとそれを共有した気になって。


「ごめん、咲瀬。君を助けられなくて」


そんな言葉が口からこぼれ、随分と久しぶりの涙が、僕の頬を伝った。透明で、柔らかくて温かい涙が僕の目の前を塞ぐ冷たいガラスをほんの少しだけ溶かした気がした。自分を切り裂きながら、叩きつけた凶器のような言葉でヒビを入れ続けたガラスにほんの少し。本当に小さな穴が空いて、風が流れてきた気がした。


肌に心地よく当たる暖かな風を感じながら、僕は眠りについた。


---

次の日も、その次の日も。僕が大学を休むことはなかった。大学を休まないことは、僕にとってある意味休息だったのかもしれない。それは自分と向き合わずに済む時間。


そして部屋にこもって、もしくはLCの人間に向き合わされて、結果的に自分と向き合う時間。その間で何となく良いバランスが取れていたような気がする。


土曜日。僕は花道珊瑚と待ち合わせていた。彼女に、色々と消去者について教えてもらったお礼もかねて、気に入ってくれたモンブランをご馳走する事にした。


「久しぶり。翠夜くん」

そう言って現れた花道珊瑚は、前と同じように穏やかな笑みを浮かべていた。


もちろん、僕はただ花道珊瑚にモンブランを食べてもらおうと思っていた訳ではなかった。

「それで、本題は?」

花道珊瑚もそれを見抜いていた。


「LCについて。まもなく何か大きな動きがあるという話を聞いた。何か知っていたら教えてくれないか」

「うーん。いつかも分からないし、何が起きるのかも私は知らないんだ。まぁ新参者だからかな。お兄ちゃんは...知っていても多分、重要なことは何も教えてくれないかな」

「そっか」


「そういえば、珊瑚さんはゴートって知ってる?」

「そういう役目は知ってる。でも今の子の名前までは私も知らないんだ。昔は美澄さんって人だったらしいよ」

「...そう」

僕は確信を深めた。花道珊瑚はゴートではない。


「あれ、翠夜君って...」

花道珊瑚は訝しげに僕の顔を覗き込んだ。


「下の名前、何だっけ」

「文之」

「やっぱり。美澄さんの友達だったんだね」

「友達、とは言えなかったかもね。知り合いだったことは確かだけど」


「消去者で動画を撮るようになったきっかけ。この前話したよね。私が3年前に提案したんだって」

「うん」

「私さ、クリスマスの日に、あの映画見てたんだ。美澄さんの作った映画。あの時、ピンってきたんだよね。この人は、生きたいんだなって。でも生きられないから、映画として残りたいんだなって。消去者にやってくる人も同じような気がしたの」

「僕は、何も出来なかった。咲瀬が男を殺す前に気づくことも、咲瀬の自殺を無理やり止めることも」


「前も言ったけどさ、翠夜くん。君が君を傷つけたところで、誰も救われないんだよ?」

「でも僕は、変えたいんだ。こんな僕を。何も選べない僕を。だから大人に、なりたいんだ」

「大人、かぁ」

花道珊瑚は寂しげに言った。


「大人って勝手だよね」

「そうだよ、大人は勝手なものだ。最も大切なものを持った人間はそれ以外を切り捨てる事が出来る。もしかしたら、それはとても悲しいことかもしれない。でも、そうしなければ、最も大切なものを守れない、何も選べないんだ」


「咲瀬さんが殺した男の人の名前、知ってる?」

「いや、知らない」

「千田さんって言うんだ。千田くんの、お父さんだよ。名前、ニュースにならなかったんだ。ストーカーだったのにさ。大人の都合ってやつだね」

僕はフォークを皿にぶつけてしまった。


「千田の、お父さん、だったんだ」

「嘘だと思うなら、千田くんに電話してみればいいよ」


僕は確認のため、千田に電話をかけた。

「もしもし、千田?」

「おー翠夜だっけ。なんか用?」

「少し聞きづらい話なんだけど、千田のお父さんって、3年前のクリスマスに亡くなった?」

「あぁ。親父な。高校の時に家出てから、連絡とってなかったんだけど。そうだな。確かにクリスマスだった。ラブホテルで女子高生に刺されたとか何とか言って。相変わらず馬鹿だなぁと思ったね。ストーカーもしてたらしいし。その話聞いた時、俺はむしろせいせいしたよ。よくやったって」

「そう」

「まぁ俺も大概、ダメな大人だけど。話それだけ?」

「うん。ありがとう」


花道珊瑚は、モンブランの最後の一欠片を口に入れた。

「不思議だね。人間の縁って」

僕は、本当に色々な事を知らなかった。知ろうと、しなかった。僕は本当に、ひとりで生きていた。

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