15、精霊様、クァルダ
今日の朝は早い。
…いや、いつも結構早いんだけど。僕ははじめはゴージャスで寝る気も失せていたベットから無理矢理起き上がり、何故か実家にあったらしい目覚まし時計のボタンを連打する。けたたましい音を鳴らしていた時計は途端に静まり返り、そこそこ広い僕の部屋に静寂が訪れる。
「ああ~~~~~っ!!!…起きるぞっ!」
気合いを入れてパァンとほっぺを叩くと、顔を洗い、ようやく慣れてきた貴族服に袖を通す。
今日で側近になってから二日目。昨日は思ったよりスムーズにアルラ様の側近として遣えることが出来たし、クァルダさんも何故か一回も出てくることはなかったし、まあ結構いい出だしだったんじゃあないだろうか。
「…ふう。よぉーし!僕もいっちょ、やってやるぞぉー!」
支度もあらかた終わり、自分に激励をかけると、僕の頭上からやけに高い声が聞こえてきた。
「ご主人サマに出来ることなんて呼吸することくらいなんじゃない?」
「一言目から酷くないっ?!」
僕の精霊になったにも関わらず、前の主人にこき使われた鬱憤を晴らすためか、このもふもふ野郎は何故にちょくちょく罵詈雑言を吐いてくるんだ。ずっとじゃないのはまだ救いがあったけど、僕、人間不信になりそう。くすん。いや、人間ではないのか…猫不信…?うーん、この場合、どうなんだろ。
「なんかバカなこと考えてるっぽいけど、いっちょやるんじゃなかったんだっけ?」
「…はっ。や、やばい、遅れる!」
僕は大急ぎでドアノブに手をかけ…。
「?!」
ずるっ。見事に転んでしまった。
「いったた…」
よくよく下を見てみると、水のような…ん?この近くには、水どころか液体もなかったはずなのに…。
「ぷぷぷ、足元を確認しないからこうなるんだよ」
「……」
えぇ~…。
「クァルダさん…」
僕はじとーとクァルダさんを見つめる。だけど、クァルダさんはぷぷぷと笑いながら滑った勢いで頭も濡れてしまった僕を見下ろす。
「ぷぷぷ」
全くどうしてこうも、クァルダさんはこんなに趣味が悪いんでしょうか?悲しい限りで、涙が…あっやば、マジで視界が崩れちゃったじゃん。酷い。
「ほらほら、どんどん時間は過ぎてくよ~?」
「むー…」
取り合えず慎重に、ゆっくりと立ち上がってからズボンを着替え、靴を拭いた。幸いにも上着は濡れなかったため、あまり時間は食わなかった…と思いたい。張り切ってドルチェさんに習ったやり方でワックスを使ったのに、髪がぐちゃぐちゃになってしまった。…なきたい。改めて、僕は水溜まりを避けながらドアノブに手をかける。途中でクァルダさんが水溜まりを追加なんて酷いことをしたけど、なんとか避けてドアの前までいけた。…よし、大丈夫だ。掃除は後でしよう。ドアノブがカチリと音をたて、このまま…
「おーい、カシー?」
「あっアルラ様っ?!」
ずてん。アルラ様の声に反応し、また転んでしまった。幸い水溜まりは回避出来たけど、ほんとタイミング悪いですよ、アルラ様ー…。
「ぷぷぷ。ご主人サマって、騙されやすいんだね」
…ん?待って。さっきの声って、よくよく思い出せば、扉の向こう側ってより左上辺りから…。
「ク、クァルダさん…?!」
「ボクくらいの精霊となれば、音を真似るなんてちょちょいのちょいだよ」
「アルラ様の声真似したんですかっ?!」
クァルダさんはぷぷぷと笑いながら、ふよふよと僕の目の前をおちょくるように動く。
「酷い!悪趣味!」
「そんな風に言うなんて、ボク、傷ついちゃうなぁ~」
「~~~…!」
僕は握りこぶしを握り締める。この目の前の物体に、何故か一種のやるせなさを覚えた。
今度こそ邪魔しないようクァルダさんに釘をさし、慎重に廊下に出ると、回りが妙に静かなのに気付いた。
「あれ?まさか…」
僕は自分の顔が一気に青くなるのが分かった。大急ぎで鍵を閉め、一番近い掛け時計をダッシュで確認すると、七時半。既にアルラ様は起床して身支度も整えて執務室に着いている頃だ。側近たる者、仕える者より早く行動するのは基本中の基本だ。
…つまり、遅刻である。
「…やばす」
「あれ?まさか遅刻?ぷぷぷ」
クァルダさんがまたなんか茶化してきてるが、今はそんなことどうでもいい。
僕はクァルダさんをひっつまみ、猛ダッシュで執務室に向かった。
「え、ちょ、離してよっ?!」
手にもふもふが食い込み、一瞬意識がそっちに行きかけるが、そこは理性でなんとか押し込める。
「ご主人サマの汚い手で触ったら、ボク、泣いちゃうってば」
きっ、汚い…。毎日石鹸で洗ってるのに…。
「じゃあ、引っ込んでてよ?!」
若干涙目になりながら叫ぶと、見慣れた金色の扉をこじ開ける。
クァルダさんは案外素直に引っ込んでくれたけど、もふもふが離れたのはちょっと悲しい。…ってそうじゃない。アルラ様の執務室へはあと少しだ。僕は足に力を込め、…ふと、赤地の絨毯の一部が変色していることに足を止めた。……待って。もしかしてっていうか確信に近いけど、僕、まだ濡れてる…?
「?急に止まっちゃって、ご主人サマはバカなの?」
「…クァルダさん?」
んっ?クァルダさんが出てきている。というか…。
「絨毯なんだから、水出しちゃダメでしょ?!」
「?」
クァルダさんの周りから、ぽつぽつと雨粒のように水滴が現れているのだ。しかも一度にかなりの数が。絨毯の掃除も習った身、これは見逃せない。
「取り合えず僕の中に入って!!!」
「えっ?!無理だよ!」
もーーーなんでこんな肝心な時に素直に引っ込んでくれないのかな?!
「とにかく!!!」
「…カシ?」
ガチャリ。どこかきょとんとしたようなその音に、僕の背筋が凍り付く。
「あっ、アルラ様…」
「なっ、なんだ?!この水染みだらけの絨毯は…!」
「すみませんっ!?あのっ、でもそうじゃなくて…」
「…なにが起きたんだ?」
アルラ様が眉をよせる。やばい。
と、その瞬間。
「全部僕のせいなんです」
何処からともなく、僕の声が聴こえてきた。
「?!」
「そうなのか?」
「いや、さっきのは…!」
僕は何も言っていない。不幸なことに、声が聴こえたのは、僕が顔を伏せたときだった。クァルダさんのばか。
「どうなんだ?」
アルラ様が不審な者を見るような目で僕に近付いてくる。
「クァルダさんが…はっ、クァルダさんは?!」
僕はばっと後ろを振り返る。
……いない。もう一回振り返る。…いない。いったい何処にいるんだよ、と思った瞬間、僕の脳内にクァルダさんの笑いを噛み殺したような声が響く。
『ぷぷぷ。ボクはご主人サマの言う通り、ご主人サマの中に戻りましたとも』
あんのイタズラ大好き精霊……!
「クァルダ様がどうしたのか?……ふむ」
僕がわなわなと震えるのを見て、ふとアルラ様は考えるそぶりを見せる。絨毯の水染みに手をかざし、困ったような微笑を浮かべた。
「あらかたのことは察したぞ、カシ。まあそれで遅刻を不問にすることは出来ないが、この絨毯は私が何とかする」
「あ、アルラ様…!」
さっきのですぐに察してくれるなんて、ありがたきありがたき…!もしクァルダさんの言葉を信じてたら、僕はアルラ様に濡れ衣を着せられる所だった。
「でも僕の失態でもありますし…」
「クァルダ様の言葉をそんなに真に受けなくてもいい。まあ、今はカシの精霊でもあるから、がんばって働かないと、給料が減っていたりカシが絨毯を何とかする羽目になるかもだぞ?」
アルラ様はそう言い、不敵に笑う。
取り合えずこのイタズラ好き精霊は後で釘を刺しとくとして、今はさっきの失態をなんとか挽回しなければ。
「承知致しました!」
「……」
「…?」
アルラ様がどこか微妙な顔になる。あれ?僕、変なこと言っちゃった…?
「…カシの敬語、落ち着かん。丁寧語くらいでいいんだぞ?いや、むしろそうしてくれ」
「なんで?!」




