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02

 あの日は、卒業式の前日だった。

 教室の空気には、春先特有の湿り気があった。換気のために窓を開け放った午後の教室は、華やいだ活気で満たされている。


 その空間は、受験と就職の重圧から解き放たれた生徒たちの声が、透明な光に反射して波紋のように広がっていた。笑い声、誰かの携帯の着信音や、廊下を走る音。すべてが朧げに白く光っていた。

 喧騒の中で、相田は一人、机に突っ伏すように求人サイトを眺めていた。

 時給千円以上で、勤務地は下宿先から最低でも三十分以内。学生歓迎。条件を絞って検索をかけるといくつもの求人が溢れ出るように画面に表示された。ファストフード、塾講師、イベントスタッフ、工場勤務など、膨大な案件がひしめき合っていたが、どれも心に引っかからなかった。都会に行けば、選択肢はいくらでもある。相田の指先の動きは鈍かった。


 検索結果を眺めながら、自分がどこへ向かおうとしているのか、何を目指したいのか、相田にはよくわからなかった。単発募集に条件を切り替えたところで、不意に画面の右側から影が差した。


「何見てんの、お前」


 低く掠れた声が耳元に流れ込んだ。背後からふわりとアルコールの香りが広がる。振り向かなくてもそれが誰かすぐに分かった。


「バイトだよ。もう週末には東京に行くからさ。向こうで何かしようと思って」

「ふーん」


 興味を失ったような声を漏らして、鬼崎は相田の隣の椅子に座った。

 背後の女子生徒が鬼崎くんだ、と小さく声を上げる。その反応に、教室の空気が俄かに張りつめた。

鬼崎は男関係や勤怠率の低さ、その容姿から、周囲の視線を集めることが多い。相田はこれに、居心地の悪さと優越感を内心感じていた。

 鬼崎は周囲の視線など意に介さず、染めた金髪を指先で摘み、傷み具合を確かめている。その仕草さえ、どこか憂いを帯びて美しかった。


 相田は画面に視線を戻しながら、思い出したように口を開いた。


「そういえば、卒業したらお前は就職するって言ったよな」


 鬼崎は答えず窓の外に目をやった。陽射しが金色の髪に滲み、横顔の輪郭を白く縁取っている。


「駄目になった」

「駄目になった?」


 唐突な響きに、相田の声が硬くなる。


「お前、県外に就職するって言ってなかったか? 家、出るって」


 鬼崎は、ゆるく笑ってから肩を落とした。


「親父がさ、どこからか就職の話を聞きつけたみたいで。内定先に殴り込んできたんだ。『昌之を出せ、殺してやる』って。受付で叫んで、警察沙汰になった。……社長から内定取り消しの電話があったよ」


 乾いた声だった。相田は返す言葉を見つけられなかった。


 鬼崎の家のことは知っている。かつて何度か家に行ったことがあるが、鬼崎の父親は、酒に酔うと怒鳴り声をあげ、物を壊す男だった。鬼崎の成長期以降、体格が逆転してからはなりを潜めていたが、久々に問題を起こしたらしい。

 鬼崎の母親も、夫に怯えながらも自分が制御できない鬼崎を押さえつけ、人前でもヒステリックに責め立てる人間だった。

 それらは子ども心にも異様に映った。小さな頃は父の暴力に怯えていた鬼崎も、成長するにつれて父親より大きくなり暴力を受けることはなくなった。母親も上背のある鬼崎の様子を窺うようになって、すっかり大人しくなった。

 だが、その沈黙のなかに澱んだ憎しみが沈殿しているのを、相田だけは知っていた。


 鬼崎は幸か不幸か、人並外れて美しい男だった。家庭環境から表情は憂いを帯び、他人に手を上げたことは相田から見て一度もなかった。色気という概念すら曖昧な年頃で、教師からも同級生からも妙な視線を向けられていた。鬼崎の纏う影と、身体に残る古い傷とが、より一層異質な存在にしていた。


 鬼崎は小学生の頃、不審者に追いかけられた先で車に轢かれたことがあった。不審者はすぐに逮捕されたが、その事故で足に大きな傷が残り、走ると引きずるような癖がついた。それでも彼は人並み以上に背が伸び、中学を卒業する頃には悪質な不審者は直接接触することはなくなった。

 しかし、これまでの鬼崎の家庭環境や、盛られた噂が既にあちこちに出回っており、逆に人が寄り付かなかった。留年が重なって同級生になった相田が傍にいる以外は、皆から遠巻きにされていた。


「俺さ、卒業式が終わったら夜逃げするつもり。携帯も捨てるし、引っ越す。落ち着いたら、お前にも連絡するよ」


 そう言っていた鬼崎の表情は覚えていなかった。相田にかけた声が、泣きたくなるほど穏やかだったことばかり記憶に残っていたのだから。


 そして、翌日。鬼崎は卒業式に現れなかった。式は鬼崎不在のまま粛々と行われた。鬼崎の両親も来なかった。誰もその理由を問わず、噂だけが静かに流れた。恋人と駆け落ちしたとか、反社会的勢力に入ったとか、誰も信じてはいないくせに、誰も否定しようともしなかった。


 相田はずっと、鬼崎からの連絡を待っていた。あの日交わした約束を、いつまでも胸の奥で反芻していた。

 けれども、鬼崎からの連絡は一度もなかった。日常のふとした折に鬼崎を思い出すことはあった。年を重ねるごとにその頻度は減っていき、やがて、日常のどこにも思い出す余白がなくなった。


 思考が現在に戻った相田は、目の前の魚を恨みがましく見つめる。


「お前さ、何か連絡寄越せよな」


 相田が呟くと、魚は何の反応も見せず、ただ水中を漂い続けた。その無視の仕方が、いかにも鬼崎らしい。


「そもそも人の電話番号なんて覚えていないよな」


 口元に苦笑を浮かべながら、逃げるように壁側を泳ぐ魚を視線で追う。


「なあ、鬼崎。お前は今、幸せか?」


 相田は問いかけた。返事がないのはわかっていたが、それでも聞かずにはいられなかった。当然、言葉は返ってこない。

 月明かりが水面を撫で、魚の鱗が鈍く光を返す。その光があの日の午後のように、相田のまぶたを焼いた。

 この作品以外にも、過去に書き溜めた作品がありまして。


 いちばん昔の作品は、バレエで留学したものの夢破れて帰国した少女が、留学への背中を押してくれた初恋の師が、自身の留学中に自死していたことを知る……というショートショートでした。


 執筆当時は中学生ではありましたが、今よりも美しく繊細で不安定な描写でした。あの頃にしか書けないもの、というのでしょうか。この作品でも出てくるファンタジーな作風は、その頃から変わらないのだなと苦笑するばかりです。


 今よりもずっと若い頃の作品のため、粗が目立って公開するには恥ずかしい気持ちもありますが、いつかお見せすることができれば……と思います。

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