見下ろす視線
智春たちは裏通りを抜け、表通りへ戻った。
ダンツィア街の腐臭が薄れ、人の熱気と灯りが戻ってくる。
夕日が傾き、赤い光が石畳と建物の壁を斜めに染めている。表通りは、時間が変わるだけでまるで別の顔になっていた。
パステル色の細長い建物の窓には灯りがともりはじめ、通りの屋台からは肉と香辛料の匂いが流れてくる。
仕事帰りの大人たち。
制服姿の学生たち。
酒を手に笑う連中。
さっきまで見ていた裏の気配が嘘のように、人の流れは明るかった。
その雑踏の向こうに、ふと見覚えのある顔が見えた。
その瞬間、智春の足が止まる。
視線が鋭くなる。
「あいつは……!」
言うが早いか、智春は人混みへ飛び出していた。
「ちょっと!」
ブレアの声が背中に飛ぶ。
だが智春は止まらない。
肩をぶつけながらも道をこじ開け、さっき男が立っていたあたりまで一気に走る。
そこにいたはずだった。確かに見えた。
だが、どこにも見当たらない。
智春は舌打ちして、左右へ目を走らせた。
露店の陰。
路地の入口。
建物の壁際。
探しても、似た背格好の通行人ばかりで、肝心の顔が見つからない。
「……どこ行きやがった」
石畳の上を風が抜ける。
その男は、ひとつ上の高さから智春を見下ろしていた。
建物の屋根の上。
縁に立つ男が、通りを見下ろしていた。
整えられた黒髪。
鋭く細められた目が、雑踏の中の智春を正確に捉えている。
質の良さそうな黒のブレザーを纏っている。
無駄のない仕立てで、マルボルク学園の制服とは明らかに格が違っていた。
男は口元だけで笑った。
「危ない危ない……まだお前に会うには早いからな」
男の視線が、横へ移る。
少し離れた場所でエリックが男を見ていた。そして、わずかに眉を寄せる。
エリックは小さく手を振った。
消えろ、とでも言うように。
男はそれを見て、面白そうに笑う。
その笑みには敵意もなく、親しみもなかった。
「エリック、どうしたの?」
ブレアの声に、エリックははっとしたように顔を向ける。
「いえ、別に……」
そう答えて、もう一度だけ屋根の上を見た。
だがそこには、もう誰もいなかった。
程なくして、智春が人混みの奥から戻ってくる。表情は険しいままだった。
ブレアが腕を組む。
「急にどうしたのよ」
「いや、ちょっと知った顔がおってな」
「あら、智春ちゃん」
パットンが首を傾げる。
「この世界に知り合いなんかいるの?」
「いや、おらん……はずやけど……」
智春は納得のいかない顔で、人混みの向こうを睨んだ。
ブレアはため息をつく。
「他人のそら似でしょ。
ほら、行くわよ」
「あぁ……」
智春は短く返したが、声はまだ重かった。
エリックだけが一人、何かを考え込むように顔を伏せていた。
四人はそのまま表通りを南へ歩いていく。
昼間に訪れた賑わいの中心が中央。
その北にはダグニクス港があり、巨大なクレーンと赤レンガ倉庫群が海沿いに並んでいる。
南には学園地区。
そして寮は、その学園の外れ、南西の旧兵舎跡にあった。
中央の賑わいからも、港の光からも、少しだけ外れた場所だった。
歩きながら、智春がぼそりと言う。
「そういえば、寮くるの初めてやな」
ブレアがじとっとした目を向けた。
「初日から夜通し喧嘩して、そのまま入院ですもんね……。
ほんと馬鹿みたい」
「言いすぎやろ」
「事実でしょ」
エリックが横から口を挟む。
「登校前に荷物とかは置きに来なかったんですか?」
「荷物なんかないしな。
王国からの馬車おりて、そのまま学園や」
「ふふ、智春ちゃんらしいわね」
パットンが笑う。
智春はそこで、ふと思い出したように三人を見た。
「そういえば、お前らも寮なんか?」
「僕は寮ですよ」
エリックが答える。
「ブレアさんは……」
「私も寮よ」
智春は少し意外そうに眉を上げた。
「なんや、寮以外にもあるんか?」
「ヴォルノクライは多種族の共存都市ですから」
エリックが説明する。
「種族ごとに生活区域があります。
そこで宿を借りて、通っている生徒もいますね」
「私がそうよ」
パットンが胸を張る。
「へぇ、そうなんか。
帰らんでええんか?」
「ばかね……」
パットンの笑みが少しだけ引きつる。
「獣人族の親玉に喧嘩売っといて、その生活区域に帰れると思う?」
「そらそうやな」
「襲われちゃう」
「その心配はないやろけど。
ほな、どうしとったんや?」
エリックが死んだ目をした。
「……察してください」
智春は一瞬だけ黙る。
それから、ぽんとエリックの肩に手を置いた。
「大変やったな……」
「ほんとですよ」
「まあ、パト子、俺の部屋こいよ」
「ふふ、ありがとね♡
お言葉に甘えるわ」
軽口を叩き合っているうちに、寮が見えてきた。
夕暮れの向こうに、横へ長い建物がどっしりと沈んでいる。
赤レンガ造りの兵舎のような寮。黒ずんだ赤い壁に等間隔に並ぶ小さめの窓。
智春が見上げる。
「寮まで赤いレンガやねんな」
「建てられたのは数百年前ですからね」
エリックも視線を上げた。
「当時はこれが主流だったんでしょう。
この辺りは、同じ造りが多いですし」
「まあ、なんでもええわ」
智春は大きく伸びをした。
「とにかく食堂でなんか食べようで」
ブレアが呆れたように息を吐く。
「食事と喧嘩しか頭にないのね……」
「今さらやろ」
軽い会話を交わしながら、一行は寮の中へ入っていく。
その様子を、二階の窓の暗がりから見つめる瞳があった。灯りもついていない部屋の奥。
誰もいないはずの部屋から、智春たちを見下ろしているものがいた。




