負けてねぇ
夜が、明けようとしていた。
焦げた土と血の匂いが、まだ校庭に漂っている。
砕けた地面には水溜まりのように血が滲み、抉れた跡が月明かりに黒く沈む。
そこには、戦いの痕だけが残っていた。
トルマンが倒れ、獣人たちは動揺し、動けなくなっていた。隙を見た人間たちが前に出かけたが、凱人がそれを許さなかった。
低い声で何かを告げると、人間たちは渋々と足を止め、そのまま彼の後ろに続いた。
去り際、凱人が一度だけ振り返り、智春と目を合わせる。
何も言わなかった。
ただ一瞬だけ視線が交わる。それから凱人は前を向き、静かに遠ざかっていく。
獣人たちもアイゼンに促され、音もなく引いていった。
校庭に残ったのは砕けた地面、血の染み。そして、倒れたトルマンだけだった。
ただ静寂だけが、壊れた校庭に落ちている。
空の端が、かすかに白み始めていた。
医務室の扉が、蹴破るように開いた。
クリップボードを手にしたモーラナが振り返った瞬間、その表情が固まった。
扉の向こうに立っていたのは、トルマンを肩で抱えた智春だった。
学ランはズタボロで原型を留めておらず、腹に巻かれた包帯は血で黒く染まっている。折れた腕がわずかに震えていた。
それでも、その顔は笑っていた。
「しばいてきたで」
モーラナは一瞬だけ瞬きをして、それから大きく息を吐いた。
「よかった」
声が、わずかに震えていた。
「全く無茶して」
智春はトルマンを近くのベッドへ無造作に放った。鈍い音とともに、巨体がベッドに沈む。
「ちょっと強く殴りすぎたわ」
首を回しながら、涼しい顔で言った。
「先生、治したってや」
「あなたの方が重症じゃないの」
モーラナが歩み寄り、智春の腕を掴んで引っ張った。
「早くこっちきなさい」
その後ろから、アイゼンが医務室に入ってきた。口元に血が乾いたままで、それでも目は冷えていた。
さらに後ろから、ブレアたちも続く。
アイゼンは智春を見ながら、小さく呟いた。
「なんであの体で元気なんだ、あいつ……」
「それしか取り柄がないみたいですからね」
エリックが眼鏡を押し上げながら答えた。
パットンが大きく欠伸をした。化粧が少し崩れていたが、気にする様子はない。
「はぁーあ。流石に眠たいわね」
「夜通し喧嘩なんかして、バカじゃないの」
ブレアが腕を組んだまま、智春を見ていた。
その目はまっすぐ智春を追っていた。
パットンが口元に笑みを浮かべる。
「でも姫様、叫んでたじゃない」
「あれは……別に」
ブレアの頬がわずかに赤くなった。
「あと、姫って呼ばないで」
「あら、ごめんなさいねぇ」
パットンは悪びれた様子もなく、それからゆっくりと言い直した。
「ブレア」
モーラナが全員を見渡した。
「あなたたち、怪我は?」
「僕たちは大丈夫です」
エリックが答えた。
それからアイゼンへ視線を向ける。
「ただ、アイゼンさんは治療を受けた方がいいですね」
「あぁ」
アイゼンは短く頷き、ポケットからタバコを取り出した。指先に赤い熱が灯り、先端に火が点く。
「先生、最後でいいから頼むわ」
モーラナが眉をひそめた。
「堂々とタバコを吸わないの。私も一応教員なのよ?」
その声を聞いていた智春が、ベッドの上から首だけ向けた。
「お、アイゼン。一本くれや」
「吸わないの!」
モーラナの声が、今度は少しだけ強くなった。
ブレアが小さく息を吐いた。
「この学校の教員は大変ね……私たちは邪魔かしら」
「そうですね」
エリックが頷いた。
パットンはアイゼンへ向かって手を振った。
「アイゼン様、また後で♡」
「いや、もうくるな……」
三人の足音が廊下に消えていく。
廊下を歩きながら、エリックがパットンに顔を向けた。
「そういえば、パットンさんはなんでアイゼンさんに様をつけるんですか?」
「惚れた相手に様をつけるのは当たり前でしょう」
「どこに惚れたんです?」
「顔よ!!」
言い切った。
一片の迷いもなかった。
エリックは何か言おうとして、やめた。
「そ、そうですか……」
「呆れた……」
ブレアは額に手を当てながら、廊下を歩き続けた。
医務室に静寂が戻った。
智春は再び腹の傷を縫い直され、体中に包帯を巻き直す。折れた腕にはギプスが当てられていた。
魔法が効かないため、全て手作業だった。
それでも、健やかな顔で眠っていた。
隣のベッドで、トルマンも目を閉じている。
アイゼンはベッドの横の椅子に座り、タバコの煙を天井へ吐き上げていた。
青白いランタンの火が小さく揺れ、医務室の白い壁に影を落としている。
やがて、トルマンの瞼がゆっくりと開いた。
「目が覚めましたか」
「アイゼン……ここは?」
「医務室です」
アイゼンはそこで少し間を置いた。
「智春が運んでくれて」
「そうか……」
二人の間に、沈黙が落ちた。
遠くで鳥の声が聞こえる。
夜明けが来ていた。
アイゼンがゆっくりと口を開いた。
「……負けちまいましたね」
「……あぁ」
トルマンは天井を見上げたまま答えた。
アイゼンはタバコを指で弾いた。
「でも、最後……あんな楽しそうなの初めて見ましたよ」
「ああ。最高だったぜ……」
その時、医務室の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、体育館から去った3年の熊の獣人。
古傷だらけの顔に、血が乾いた跡が残っている。
「よぅ、派手に負けたな」
「バーグさん、なんのようです?」
トルマンが目を細めた。
バーグはゆっくりと歩み寄り、ボロボロのトルマンを見下ろした。
「少し様子を見にな」
口元に笑みが浮かんだ。
「ふっ。いい面になったじゃねえか」
「冷やかしならいらないっすよ」
「もぅこの学園じゃあ、お前を冷やかすぐらいしか楽しみがなくてな」
バーグは少し寂しそうな顔をした。
視線が、どこか遠くへ向いた。
「もぅ、俺は用済みだな」
そのまま振り返り、手を振った。
「じゃーな」
「バーグさん。あんた……学園辞める気か?」
バーグの足が止まった。
振り返らずに、笑った。
「……妙なとこ鋭いな」
ゆっくりと振り返る。
「もう俺らは必要ねぇだろ。争いに負けた獣は去るだけだ」
「まだだ……」
トルマンはゆっくりと上体を起こした。
視線を上げ、バーグを真正面から見据える。
「まだ獣人族は負けてねぇ。こんなもんじゃ俺は止まらねぇ」
トルマンは一度、息を吐いた。
「……あんたがいなくても、やることは変わらねぇ。
あの人の仇も、責任も全部──俺が背負う」
トルマンの目は、まっすぐだった。
低く、静かに落ちる言葉に熱がこもる。
「バーグさん。俺はこの学園を獲るぞ」
その言葉に、バーグは目を見開いた。
それから、口元だけで笑った。
「そんだけ吠えれたら十分だな」
「いいこと言うじゃねえか」
廊下から、声がした。
バーグが振りかえる。
「だれだ?」
「俺だよ」
扉の向こうに立っていたのは、異様な存在だった。
焼けた鉄のような深い赤の肌。
白髪は乱雑に伸び、額から二本の角が突き出ている。
鬼。
鋭く、細い眼光。
口元には笑み。
だがそこにあるのは愛想ではなく、明確な余裕だった。
制服はボロボロ。
破れ、焼け、血が乾いて黒く染みついている。
無数の傷が、その隙間から覗いていた。
ゆっくりと部屋の中に足を踏み入れる。
それだけで、空気が変わった。
その場にいる全員が、無意識に息を止めていた。
トルマンの目が血走る。
「何しにきやがった……」
その名を口にした瞬間、場の空気がさらに一段、沈んだ。
「オウガン」




