第三十二話 這い寄る悪意(1)(後輩談)
「早く帰っていいなんて、駒村先輩も、気前の良い事言いますね。先輩も、駒村先輩を見倣って、私へのサービスを充実させることを推奨します」
小雨の降る夕暮れの道を、先輩と並んで歩きます。
先輩から貸していただいた傘は、飾りっ気のない紺色の傘でした。隣の先輩は、空手部の部室に置きっ放しにしていた、透明なビニール傘を持っています。
まあ、正直なところ、傘を使うかどうか迷う程度に小雨になっているので、多少濡れても構わないと思っている人達は傘を持っていても差さずに歩いています。
私は雨に濡れると髪が痛みますし、せっかく貸してくれた先輩の顔を立てるために、仕方なく、本当に仕方なく、渋々差しますけれど。
そんな風に考えながら手に持った傘をくるりと回します。
「姫川、水がこっちに飛んで来るから、傘を回さないでくれ」
「あ、すみません。わざとです。ふふふっ」
「お前な……」
小雨に煙る進行方向を見ながら、先輩は疲れたように溜息を吐いてから、言います。
「あれは気前が良いのとは別だろう。姫川が、空手部の見学なんか始めるからだ」
何もせずに先輩を待つのも手持無沙汰ですので、これも人生経験と思い、空手部の練習を見学する事にしました。
空手部部長である駒村先輩に申し出て、快く許可をいただき、邪魔にならないように壁際に座って大人しくしていました。
ところが、空手部の皆さんは、私一人とは言え、ギャラリーの居る状況下での練習に不慣れな様子で、チラチラとこちらに視線を寄こします。
これは結局邪魔になっていると、早い段階で気付いたのですが、私から見学をお願いしておいて中座するのも失礼かと思い、往生していると、そんな私の様子に気付いた先輩が、駒村先輩に相談した結果、私を連れて可及的速やかに帰宅するように、先輩に命令が出たというお話でした。
せっかく先輩の一番近くで見学していたのに、先輩は私に一瞥もくれずに練習していたのが面白くありませんでした。
「私が悪者みたいな言い方ですね。先輩が私と一緒に下校したいって言うから、仕方がなく、時間調整のために空手部の部活動が終わるまで、見学して待っていようと思っただけじゃないですか」
「記憶を改竄するんじゃない。一緒に帰るって、姫川が言い出したことだろう」
「またまた、先輩は照れ屋さんですね。はいはい。そういう事にしといてあげます」
「お前……。まあ、いい」
もう一押し、漫才のようなやり取りがあっても良かったのに、何かを確認するように後方に視線を泳がせて、先輩が引き下がってしまいます。
でもまあ、先輩がこうして他愛のない無駄話を自然としてくれるようになったのは、私としては嬉しい進歩です。
出会った当初は、私を突き放すような発言が目立ちましたから。
「うふふ。今日も私の勝ちですね」
「何の勝負だ」
溜息交じりに呟く先輩。それがこそばゆくて、自然と頬が緩んでしまいます。
「それより、姫川の傘の件は大丈夫なのか? 気に入ってた物なんだろう?」
「あ、はい。一応、対策はしてあるので、少し頑張れば探せるんですけど……今日はもう遅いですし、明日になったら返って来るかも知れませんから、少し待ってみようと思います」
「そうか。探し物するなら手伝うから、遠慮せずに言ってくれ。人手があった方がいいだろう」
「勿論です。ぼろ雑巾になるまで扱き使ってあげますから、覚悟しておいてください」
「それが他人にものを頼む態度か?」
「何言ってるんですか。先輩にしかこんな事言いませんよ。うふふ。先輩だけ、特別です。ト・ク・ベ・ツ」
「全然嬉しくないな」
「うふふ」
そうは言いつつも、柔らかい表情をする先輩の横顔を盗み見て、私も満足します。
ここで、ふつりと会話が途切れ、沈黙に包まれます。
ここ最近、毎晩のように電話で話しているので、目新しい話題も見付からず、私はそのまま静かに歩きます。
先輩の方から話題を切り出してくれる事は稀です。もっとこう、私の好感度を上げようと必死になってくれれば面白いのにと、常々思います。
でも、先輩と一緒に居る時の沈黙は、短い時間であれば好きです。
会話をしていなくても見えない繋がりがあって、私は、この場所に居ることを許容されている。そんな、適温の安心感がありますから。
それだけに、この居心地の良い時間に、無粋な邪魔が入るなんて思いもしませんでした。
「誰かー! 助けてくれー!」
「「!?」」
横道の方向から聞こえた声に、先輩と二人で立ち止まって振り向きます。
同時に声のした方へ駆け出そうとして、先輩が私の方へ腕を伸ばして制止します。
「姫川は来るな」
「何言ってるんですか。人手があった方が良いかも知れないじゃないですか」
「誰かー!」
「先輩、急がないと」
「ったく。分かった。でも、危ない様ならすぐ逃げるんだぞ?」
「分かってます。先輩を見捨ててでも逃げますから、安心してください」
「言い方……まあ、いい」
走るのに邪魔になりますから、差していた傘を畳み、声の聞こえた方向へと走ります。
幸いにも、雨は止んでいましたので濡れて風邪をひく心配はなさそうです。
駅へ続く大通りと違って、住宅地の中の細い道路ですから、いよいよ人通りも無く、雨雲のせいで薄暗い雰囲気のせいで、良からぬ事件が発生しそうです。
一つ目の十字路で立ち止まり、左右に目を走らせますが、先程の声の主は見当たりません。
「そんなに遠くなかったと思うんですけど……」
私がそう言いながら、次の十字路へと進みかけた時、
バチバチと、何かが弾けるような音と共に、後方から先輩に衝突する黒い影。
「ぐっ……!?」
くぐもった声を上げて、先輩が不自然にバランスを崩します。
そのまま先輩が倒れると思った私は、咄嗟に傘を手放して、先輩の体を支えようと手を伸ばします。
「くっ――こ、の野郎!」
倒れる途中で、ダンッ、と右足で踏み止まった先輩が、後方の相手に向かって左足で後ろ蹴りを繰り出しました。
「ぅぐぉっ!?」
反撃を予期していなかった相手の腹部に、先輩の左足がヒットして、相手は後方に三歩よろめくと尻もちを着きました。
「浅い……」
憎々しく呟き、先輩は、尻もちを着いている男子生徒を睨みます。視線は男子生徒に固定したまま、先輩は鞄と傘を地面に置き、油断なく身構えます。
先輩に突撃して来たのは、同じ学校の男子生徒です。先輩に蹴られたお腹を両手で抱えて、苦しそうに咳き込んでいるので、顔は見えませんが、知っている人ではなさそうです。
「姫川、駅まで走れるか?」
先輩が、私を背中に隠すように前に一歩進みます。
「何言ってるんですか、先輩も一緒に」
先輩だけ取り残して逃げるなんて、馬鹿げた作戦を言い出す先輩は、後でたっぷりお説教です。さっき先輩に言ったのは冗談に決まっています。
私は手を伸ばして、先輩の腕を引っ張りますが、
「いや、足が痺れて思う様に動かない。スタンガンなんて初めて食らった」
私から見える範囲の横顔に、自虐的な笑みを浮かべた先輩は、言う事を聞かない左足を叱責するように平手で叩きます。
スタンガンと聞いて、先輩の向こう側に居る男子生徒に目を向けると、その男子生徒から少し離れた位置に、黒いクワガタムシのようなフォルムの物体が転がっています。ついさっき私が聞いた炸裂音は、スタンガンのスパーク音だったのです。
私は、背筋が氷水を流し込まれたかのように凍るのを感じました。
護身用グッズとしてスタンガンが市販されていることは、知ってはいました。
でも、それを私の目の前で、私の知っている人に使われるなんて、誰が想像するでしょうか。
自分の中の常識が、足元から崩れて、奈落の底に落ちていく光景が脳裏に浮かびます。
悲しい事ですが、世の中に、事件や事故は数えきれない位あります。でも心の奥底では、自分や、自分の親しい人達は、事件や事故に遭遇しないと考えていたのでしょう。
現実は甘くありません。私だって、私の親しい人達だって、事件や事故に遭遇します。
怖い。
言い知れない恐怖が、足元から這い上がって来る感覚に襲われて、私はその場から一歩も動けなくなってしまいました。




